『やちまた』足立巻一2018-03-19

2018-03-19 當山日出夫(とうやまひでお)

やちまた上

足立巻一.『やちまた』(上・下)(中公文庫).中央公論新社.2015 (河出書房新社.1974 1990 朝日文芸文庫.1995)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206097.html
http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206098.html

私は、この本の初版が出た時に買って読んだのを憶えている。河出書房新社版である。さがせば、まだどこかに残っているはずだが、新しい文庫版を買っておいて、積んであった。『本居宣長』(小林秀雄、新潮文庫版)を読んで、次に読んでみたくなって、手にした。

『やちまた』というタイトルは、『詞八衢』(ことばのやちまた)からきている。著者は、本居春庭。本居宣長の子どもである。だが、その生涯のうちで、失明ということになり、盲目の国学者として仕事を残した。その主な研究領域は、文法、特に動詞の活用の研究にある。現在でも、この研究の延長上に、古典日本語研究はあるといってよい。

この本を読んで感じたこと……まだ、大学の国文科の学生だったときのことなのだが……ちょっと物足りない気がしたのを憶えている。それは、本居春庭の評伝と言っていいだろうか、その人生を克明に資料にもとづいて追っているのだが、肝心の『詞八衢』という本の内容については、あまり言及することがない。いったい、『詞八衢』という本は、どんな本なのか、何が書いてあるのか、隔靴掻痒の感じがつきまとう。

それも、今になって、一応、国語学という分野で仕事をしてきた人間として、なんとなくそれも分かるようになってきてはいる。しかし、気持ちをリセットしてこの本を読んでみると、やはり『詞八衢』という本の内用が気になってくる。

とはいえ、そこを除けば、実に面白い。その面白さの一つは、この作品の重層性にある。

二つのことが重なって語られる。

一つは、著者の経歴、経験である。上巻では、戦前(昭和の前期)、伊勢の神宮皇學館という学校に在籍して、国文学を学んでいたときの学生生活の回想。今から見れば、いわゆるバンカラな、しかし、質実、素朴な学生生活。その学生仲間どうしの友情。また、それを教える教師の姿。これらば、学生生活の回想として、実にリアルでありながら、情感細やかに描写されている。下巻になると、主に戦後、戦地から復員してきてから、仕事の合間に、本居春庭のことを調べることになる。そこで、かつての学友、また、教員との交流が語られる。それは、決して美しいことばかりではない。戦前から戦後しばらくの時期のことである。戦争があり、それにともなう、様々な悲しみもある。

二つには、学生の頃から戦後になっても、著者は、本居春庭のことが気になって調査をつづける。国語学の研究史としては画期的な仕事になる、動詞の活用の整理ということが、どのようにしてなしとげられていったのか、著者は、各地を旅して調査する。父である本居宣長は無論のこと、京都でめぐりあっていたと思われる、富士谷成章、それから、鈴木朖などの研究との関連を追及していく。どこに春庭の独創があるのか、先行する研究者(国学者)との関係はどうなのか、執拗に著者は追っていく。

つまり、戦前から戦後にかけての著者の半生の回想と、『詞八衢』という本の成立過程を追っていくこととが、ないまぜになって語られる。

正直言って、昔、学生の時にこの本を読んだときには、二つの要素の混交にいささか煩わしく感じたものであった。だが、今になって再読してみると、逆に、二つのことがらが見事に融合して、一つの物語を形成していることを感じる。これは、見事な文学作品になっている。

これは、「ことば」というものを追っていく人間のあり方……それは、昔生きていた本居春庭であり、そして、現代においてその伝記を追求している著者の姿でもある……に、共感するものがある、いや、そのように感じるようになってきた、ということなのだろう。まだ、国文科の学生であったときには、分からなかったことであるといってもいいかもしれない。ようやく、この年になって、これまで「ことば」をあつかう国語学という分野でなにがしか仕事をしてきて、それがあって再度読んでみて、少なからず感じるところのあった作品である。

追記 2018-03-22
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月22日
『やちまた』足立巻一
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