『やちまた』足立巻一(その二)2018-03-22

2018-03-22 當山日出夫(とうやまひでお)

やちまた上

続きである。
やまもも書斎記 2018年3月19日
『やちまた』足立巻一
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/19/8806507

足立巻一.『やちまた』(上・下)(中公文庫).中央公論新社.2015 (河出書房新社.1974 1990 朝日文芸文庫.1995)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206097.html
http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206098.html

この作品の冒頭ちかくにある次の箇所が、全体の通奏低音のようにひびいている。

「ふしぎですねえ……語学者には春庭のような不幸な人や、世間から偏屈といわれる人が多いようですねえ……」(上巻 p.11)

神宮皇學館での授業の一場面の回想。ある教授の話である。ここから、著者(足立巻一)は、『詞八衢』という書物、本居春庭という人物に興味をもち、その研究にのめりこむことになる。

この著者は、語学者という言い方をしている。ひろく、ことばの研究者としておいていいだろう。その研究のいとなみがいかなるものかは、下巻の次の箇所に示されていると私は読む。『詞の通路』に言及して、

「さて今の人は詞の意をとかくいふめれど、其のつかひざまをいかにもといへる事なし。詞の意をしらむよりは、そのつかひざまをよくわきまふべきことなり……」
 ことばは意味よりもむしろ語法を理解しなければならないという。これにつづけて「意をしらむはやすく、つかひざまをこころえむはかたく」と述べる。
(下巻 p.8)

ここで言われていることは、語釈は簡単にできるかもしれないが、文法的、語学的説明は難しい、と言い換えることができるかもしれない。

国学という学問が、江戸時代になってからおこってきて、国学者は古典(主に上代から中古の作品)の解釈につとめてきた。ざっくりと言い換えてみるならば……そこで、古代のテキストを読解することは比較的容易である。だが、そこにある、ことばの規則、文法的解明、言語的研究は、難しい……このようにいえるだろうか。現代風にいえば、ことばの法則(文法、音韻、語彙など)、そして、その歴史的変化がどんなものであったかについての研究である。

これは現代においてもいえることである。古典のテキストを何とか解釈することは、難しいとはいえ、決して不可能ということではない。それよりも困難なのは、そのことばの背景についての言語学的な説明である。

現代のように、辞書もなければ文法書もない時代である。文法理論など言語学な方法論的裏付けがあるというわけではない。古典の研究は、ひたすらそのテキストを読み込んでいくしかないといってもよいであろう。(無論、現代のように、コーパスがあるという時代ではないのである。)

現代の我々からするならば、辞書も文法もない時代に古典テキストを読むとは、いかなる行為であったのか、そして、そこから文法や音韻の法則を帰納的実証的に解明するとはいかなる行為であったのか、そのこと……学問の歴史……への想像力が必要であることになる。国学という学問の延長に現代の、国語学、日本語学、それから、日本文学研究があるとして、その学問の歴史をかえりみるとき、まず、もとめられるのは、その近世の人びとの古典テキストを読むという営みがどんなものであったのかに対する想像力である。これは、単なる、学問史として学説を記述すればよいというものではない(無論、学問的に整理する時には、学説史という形をとらざるをえなくなるにはちがいないのだが。)

私は、これから、日本語学、日本文学を勉強する若い人には、この本(『やちまた』足立巻一)は、読んでおいてもらいたい本だと思っている。日本の古典テキストを、どんなふうにして読んできたのか、そのかつての研究の世界がどんなであったか、学問的な想像力を喚起するという意味においてである。