『背教者ユリアヌス』(四)辻邦生2018-04-20

2018-04-20 當山日出夫(とうやまひでお)

背教者ユリアヌス(四)

辻邦生.『背教者ユリアヌス』(四)(中公文庫).中央公論新社.2018
http://www.chuko.co.jp/bunko/2018/03/206562.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年4月16日
『背教者ユリアヌス』(三)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/16/8827443

ついにユリアヌスは皇帝となる。そして、古代のギリシア、ローマの神々への信仰の復活をこころみる。そして、ペルシアへ遠征するも、非業の最期をとげる。

四巻目までを読んで印象に残るのは、やはり最後のシーンである。ユリアヌスを失ったローマ軍が夕日の沙漠のなかをむなしく行進していく。

読みながら付箋をつけた箇所。

「どうか、諸君、これだけは覚えていて貰いたい。われわれの意図がこの世で実現せられずとも、人間にとって意味があるのはその意図であって、結果ではないということを。(中略)この善き意図は、ただ地上をこえて、見えない帝国を空中楼閣のごとく造りあげるだけに終るかもしれない。しかし人間にとっての真の実在はかかる善き意図による帝国なのだ。溢れる涙による真の連帯なのだ。」(p.198)

「私の願いは、私が皇帝でありつづけるより、精神の高貴さを真に生きることであるからだ。」(p.233)

結果ではなく意図、真の高貴さ……こういったところに、ユリアヌスの目指すもの、あるいは、辻邦生文学の特徴とすべきものを見いだすことができるだろう。辻邦生の作品は、芸術至上主義と言ってもいいかもしれない。だが、それは実在する芸術への賛美にとどまるものではない。そうではなく、それを目指す人間の志のあり方こそを問題としている。

四巻目を読み終えて、結局、ユリアヌスは、自らの希望するローマ帝国を築くことができなかったことになるのだが、残念、落胆という気持ちにはならない。それは、ユリアヌスが、結果ではなく、意図にこそ意味があるのだとして生きてきたからに他ならない。この意味では、今日に残る古代ローマやギリシアの遺跡の向こうに、かつてのユリアヌスの意思を見る……そのような文学的想像力でもって、接することができるのかもしれない。いや、むしろ、読者をして、そのような文学的想像にかりたてるような作品である。

追記 2018-04-26
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月26日
『背教者ユリアヌス』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/26/8833495