散る桜2018-04-11

2018-04-11 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は桜。その散っていく様を写してみた。

前回は、
やまもも書斎記 2018年4月4日
桜の花が咲いた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/04/8818544

これも先週のうちに撮影しておいたものである。今週になると、もうほとんど散ってしまっている。今年は、桜の花の咲くのも散るのも早い。Facebookに投稿した去年の写真など見ると、去年は、ようやく今頃になって満開という状況である。

桜の花を見てきている。その冬枯れの状態から芽が出て、だんだんふくらんできて、春になると花が咲く。その咲いた花も、あっという間に散ってしまう。その桜の花の散った様も、また美しいものであると、感じるようになってきた。

藤の花ももう咲き始めている。これも去年よりは早いようである。シャガの花も咲いている。これらの花も順次、写しておきたいと思っている。

今日の写真は、RAWで残したデータから直接掲載用のJPEG画像を作成してある。画像の処理は、スタンダードに設定。

桜

桜

桜

桜

桜

桜

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5 G ED VR

追記 2018-04-18
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月18日
山吹の花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/18/8828916

『近代日本一五〇年』山本義隆2018-04-12

2018-04-12 當山日出夫(とうやまひでお)


山本義隆.『近代日本一五〇年-科学技術総力戦体制の破綻-』(岩波新書).岩波書店.2018
https://www.iwanami.co.jp/book/b341727.html

この本、サブタイトルの「科学技術総力戦体制の破綻」に、端的に内用が凝縮されている。語られている歴史は、「科学技術」についての近代150年の歴史である。近代150年の終端にあるのは、言うまでも無く福島の原子力発電所の事故である。

この本については、まず、150年という時代、時間設定の意味が重要である。今年は、明治150年である。そのこともあって、この本のタイトルになっているのだろうが、それよりも、明治維新で時代を区切るという歴史観について、もう一つ踏み込んだ議論があってもよかったのではないかと思われる。

日本の近代を考えるとき、明治維新を一つの節目にして考える考え方があると同時に、それを準備したものとしての、近世からの様々な動き……幕府や藩の制度であったり、蘭学や国学などの学問的ないとなみであったり……を総合して考える考え方もある。

例えば、
やまもも書斎記 2017年11月24日
『「維新革命」への道』苅部直
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/24/8733452

この本などでは、19世紀ぐらからの江戸時代に、近代の萌芽をみる視点で書いてある。

まあ、確かに、「科学技術」ということを切り口にして、日本の歴史を考えるとするならば、明治維新以降の文明開化の時代が、まさに日本に「科学技術」がもたらされた時代としていいだろう。それはそうであるとしても、なぜ、そのような歴史観にたつのか、あるいは、なぜ「科学技術」の観点から考えることにするのか、そこのところについて、さらに一歩踏み込んだ記述は無いようである。

いや、これは、著者が山本義隆だから、もう当然のこととして読むことになる……このような理解を前提にしているのかもしれない。また、福島の原子力発電所の事故を終局に設定して、そこから遡って、ではなぜこのような事故をまねくいたったのか考えてみるならば……つまり、言ってみれば、先に結論ありきの議論であるとも読める。

私の読んだ印象としては、明治になってからの日本の歴史は、悪の歴史でしかない……すべて悪いのは帝国主義と軍……という歴史観には、どうかなと感じる。もし、「科学技術」に焦点をあてての近代史であるとしても、別な観点があったのではなかろうか。純粋に、知的営為としての「科学」というものがあったにちがいない。それらすべて、日本の政府と軍、帝国主義、経済優先主義にからめてしまうのは、いただけない。

日本の近代の文化史にしても、また、政治史にしても、もっと別の観点から、いろどり豊かなものをそこに見いだすことはできるにちがいない。しかし、そこを、山本義隆ならではの視点で強引に記述してしまっているという感じがしてならない。

述べられている個々の事実についてみれば、それはそのとおりであると感じるのだが、全体として、近代の歴史をどのような歴史観で記述するのか、となると、この本の歴史観には、いささか違和感を感じるのである。

追記 2018-04-13
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月13日
『近代日本一五〇年』山本義隆(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/13/8824592

『近代日本一五〇年』山本義隆(その二)2018-04-13

2018-04-13 當山日出夫(とうやまひでお)


続きである。
やまもも書斎記 2018年4月12日
『近代日本一五〇年』山本義隆
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/12/8824057

山本義隆.『近代日本一五〇年-科学技術総力戦体制の破綻-』(岩波新書).岩波書店.2018
https://www.iwanami.co.jp/book/b341727.html

基本的に、この本の歴史観……近代日本の歴史を、帝国主義と軍による悪の歴史とみる……には、あまり賛同できないのであるが、しかし、だからこそ、この本ならではの記述として、なるほどと思わせるところもある。

やや長くなるが引用する。

「すくなくとも理科系の学問では、多くの学者は、おのれ自身の知的関心に突き動かされ、あるいは自身の業績をあげることを目的に、研究している。他方では、国家が科学と技術の研究を支援しているのは、それが、経済の発展、軍事力の強化、そして国際社会における国家のステータスの向上に資するがゆえに、である。そのことが民主主義の発展に結びつくかどうかは、まったく別の問題、つまり政治の問題である。にもかかわらず当時、科学的合理性と非科学的蒙昧との対比が民主制と封建制の対比として語られることによって、科学的は民主的とほとんど等置され、科学的立国は民主化の軸と見なされた。」(pp.211-212)

つまり、「科学的」「合理的」であるということと、「民主的」であるということはイコールではない、という指摘である。この指摘については、私は、首肯するものである。

戦前の軍国主義の時代を批判して、非科学的、非合理的と批判する。科学的な合理的な思考ができたならば、帝国主義的侵略はなかったと考える……そのような考え方に、待ったをかけている。国家がどのようであるかは、「政治」の問題である。

ここでは、「科学」というものが、価値中立的に見られている。あるいは、それ自身の価値の追求のためにあるとでも言った方がいいか。

たぶん、この本の中の眼目としていいのが、上記のような記述であろう。言うまでもなく、著者(山本義隆)は、理科系のひとである。でありながら、全共闘世代を代表する人物でもある。そのような著者にとって、自分の学ぶ学問が、どのように社会的に利用されるかは、きわめて「政治」の問題であったことになる。あるいは、「科学」を「政治」とは、とりあえず切り離すことが可能なものとして、とらえている。

私の読んだところで、この本から読みとるべきことは、「科学」あるいは「科学技術」と「政治」の関係……それが分離不可能なものなのか、切り離して価値中立的に自己目的的に営まれるものなのか……ということについての問いかけであると思うのである。

そして、「科学」が善良なものであるという思い込みをも、著者は否定している。

「政治家は無知で官僚は自己保身的で財界は近視眼的であり、いずれも科学にたいしては理解がなく短見であるという思いあがりと被害者意識のないまざった感情に支えられたその民主主義運動は、その後、一九六〇年代の高度成長に、すなわち官僚と政治家のヘゲモニーによる科学技術立国の奔流に、なすところなく飲み込まれてゆくことになる。」(p.215)

その結果が、福島での事故ということになる。

著者(山本義隆)は、昭和20年(1945)で時代を区切ってはいない。むしろ、戦前と戦後の連続性の方に着目している。敗戦ということをむかえても、社会の基本となる組織、官僚機構、統治機構は残った。そして、「科学技術」と社会、国家との関係も、連続したものとしてとらえている。

ともあれ、「科学」「科学技術」にたずさわる人間が、「政治」に無関心であってはならない、このことだけは、読みとるべきことである。

『背教者ユリアヌス』(二)辻邦生2018-04-14

2018-04-14 當山日出夫(とうやまひでお)

背教者ユリアヌス(二)

続きである。
やまもも書斎記 2018年4月7日
『背教者ユリアヌス』(一)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/07/8820656

新しい文庫本の題二冊目である。ユリアヌスの兄に謀反のうたがいがかけられる。それにユリアヌスも連座させられそうになるが、かろうじてのがれることができた。その後、ギリシアに勉学に赴き、さらには、ガリア地方に派遣されるまでを描く。

まだ、ユリアヌスの青年期である。

辻邦生の作品、登場人物に共通していえることばがあるとすれば、それは、

魂の高み

といっていいだろう。このことば、第二巻の29ページに出てくる。これは、日本を舞台にした作品でも、共通していえることである。『嵯峨野明月記』に出てくる登場人物たちのめざすものは、まさに「魂の高み」といっていいと理解できる。

やまもも書斎記 2018年4月2日
『嵯峨野明月記』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/02/8816997

ユリアヌスは、キリスト教の国となったローマにおいて、異教であるギリシアの神を信仰している。そこに見いだしているのは、精神の高潔さである。あるいは、生きてあることの喜びでもある。ガリア地方において、ユリアヌスは、このように語る。

「そうだ、この歓喜は私が地上にこうしてあることから生まれているのだ。」(p.299)

まさに、自己が生きていることの内面から沸き起こってくる喜びの感情である。

ところで、この作品、古代ローマを舞台にした歴史小説なのであるが、現在の目で読むとどうなのだろうか……時代考証などにおいて、不満な点はないのだろうか、というようなことも気になったりはする。昔、私がこの小説をはじめて読んだときは、高校生の頃だった。そのころは、特に歴史的な考証というようなことは気にすることなく、ただ読んでいた。

その後、四〇年以上経過して、再び読んでみたのだが、歴史考証という観点からみれば、いくつか問題があるのかな、という気がしないではない。だが、今では、特にそのようなことも気にならなくなった。

強いて例えれば、ジブリのアニメ映画を見ているような感覚といえばいいだろうか。古代ローマという実際にあった歴史上の国としてとらえるよりも、『背教者ユリアヌス』という物語の舞台としてある、歴史上かつてどこかにあった国、それは、いくぶんの空想をふくんでいるかもしれない、そのようなものとして感じて読むようになっている。

古代のローマに時代設定した、壮大な歴史物語として読んでいる。第二冊目で、まだユリアヌスも若い。次の第三冊目を楽しみに読むことにしよう。

追記 2018-04-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月16日
『背教者ユリアヌス』(三)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/16/8827443

『半分、青い。』あれこれ「聞きたい!」2018-04-15

2018-04-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第2週「聞きたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_02.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年4月8日
『半分、青い。』あれこれ「生まれたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/08/8821449

第2週までは、まだ小学生。この週の主なできごとは、鈴愛の左がわの耳が聞こえなくなくなったこと。このことについて、その親の気持ちを深く描いていたと思う。特に、川での舟の上(鈴愛)と、岸辺(母)で呼び合うシーンが印象的だった。

しかし、鈴愛は、自分の左耳が聞こえなくなっていることにくじけない。雨が降っていても、「半分は青い」と感じる感性で、そのハンディをのりきっていく。その明るさが、この週の見どころかもしれない。

それから、川辺での鈴愛と律のシーン。互いの耳を寄せ合っていた。

これらのシーンで、川や川岸が舞台に使われているのは、何を意味しているのだろうか。先週も書いたが、川、川辺は、この世と異界との境界である。川辺で、また、川をはさんで、鈴愛と律が、また、母親が、感情を通い合わせる。このような舞台として、やはり、川というのがふさわしいということなのかもしれない。

そして、脇役であるが、そのような鈴愛をやさしく見守る、萩尾の家の和子さん(原田知世)が、なんとなくほんわかした感じがあって、とてもよかった。

ドラマの時代設定は、1980年代はじめである。その当時の「時代」を感じさせるものがいくつか取り入れられていた。特に、「ババンババンバンバン」と口ずさむシーンは、切なかった。

次週から、いよいよ成長して高校生になって登場することになる。続きを楽しみに見ることにしよう。

『背教者ユリアヌス』(三)辻邦生2018-04-16

2018-04-16 當山日出夫(とうやまひでお)

背教者ユリアヌス(三)

辻邦生.『背教者ユリアヌス』(三)(中公文庫).中央公論新社.2018
http://www.chuko.co.jp/bunko/2018/02/206541.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年4月14日
『背教者ユリアヌス』(二)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/14/8826026

第三巻では、ユリアヌスが副帝としてガリア地方に赴く。その統治に成功するのだが、その勢いで、ガリアの反乱をまねくことになる。結果的に、ユリアヌスは、ガリア地方をひきいて、皇帝に対して反乱を起こすことになる。

この第三巻まで読んだ印象は、まさに古代ローマの物語世界にひたることのできる作品であるということ……それも、波瀾万丈の活劇でありながら、それを叙述する筆致は、あくまでも静謐で冷静である。理性的な文章である。

ユリアヌスにとって、ローマは理想である。ユリアヌスは、次のように思う。

「「人間は永遠に未完成のものかも知れぬ。永遠に完成に向って走りつづけるものかも知れぬ。だが、それは走っているのだ。そのことが肝心なのだ。」/ひょっとしたらローマは光ではなく、光であろうとする意思であり、こうして北風に吹かれて行軍していること自体、そうした光であることへ向っての疾走であるかも知れぬ。おそらくそうした意思を放棄しない以上、ローマは光となるのかも知れぬ――ユリアヌスは口を強く結ぶと、視線をもう一度河向うの黒々とつづく森へむけた。」(p.309)

辻邦生の作品の登場人物は、芸術至上主義的である。理想主義といってもいいだろう。だが、辻邦生が描く人物たちが、魅力的なのは、ただ、理想の実在を信じているというのではなく、その理想に向かっていく強靱な意志の力を見せているところにある。ただ、目標としてあるものとしての理想ではなく、その理想に向かってつきすすむ意思の力こそが重要なのである。

私は、このようなところに辻邦生の作品の本質があると思っている。実在するものとしての理想ではなく、それに向かっていく人間の意思の方に、重きをおいている。いや、その意思こそが、理想を理想たらしめている原動力なのである。

理想に向かって進む人間の意思の文学……辻邦生の作品は、このようにとらえることができようか。

次は、最終巻(四冊目)である。楽しみに読むことにしよう。

以前に、この作品を読んだのは、四十年以上も前のことになる。高校生のころだった。もう、何が書いて会ったか忘れている。しかし、今、ここで読み返してみて感じることは、この作品が、理想に向かってく意思を描いた作品であるということ。若い日の私が、この作品に読みとっていたのは、これであったと思い出す。それが、この小説のラストのシーンに重なって思い出される。

追記 2018-04-20
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月20日
『背教者ユリアヌス』(四)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/20/8829727

『西郷どん』あれこれ「慶喜の本気」2018-04-17

2018-04-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年4月15日、第14回「慶喜の本気」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/14/

前回は、
やまもも書斎記 2018年4月10日
『西郷どん』あれこれ「変わらない友」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/10/8822850

やはりNHKは、江戸城の大奥のセットよりも、品川の妓楼、磯田屋のセットの方にコストをかけているとみえる。

見どころはいくつかあった。

第一には、西郷吉之助と井伊直弼の、茶室での対面のシーンである。たぶんこれはフィクションだろうと思うのだが、もしあったとしたらさもありなんという展開であった。

ここで井伊は、徳川の譜代として徳川家のために動いている。一方で、西郷は、日本の国のために行動している、このような場面であった。井伊が徳川家のためにというのはわかるのだが、西郷の方は、もう一つ屈折している。西郷は、藩主、斉彬のために行動している。その斉彬が、日本という国のことを思っている。故に、西郷は、日本という国を考えていることになる。斉彬への忠誠心が、そのまま日本という国へのナショナリズムに連続的につながっている。

ここでは、西郷が、自らの判断、知見として、日本国のためにという目的で行動しているわけではない。西郷が、自身の判断で、日本という国を意識するようになるのは、今後の展開を待ってということになるのかもしれない。(たぶん、それは、斉彬の死という出来事を経て後のことになるのだろうが。)

第二には、一橋慶喜。橋本左内と、西郷吉之助の両名をひきつれて、行動していた。このあたりの展開も、フィクションにちがいないのだろうが、なんとなくかっこよかった。いかにも、時代劇であるという展開。

以上の二つぐらいが、印象に残っているところであろうか。

時代は幕末である。これから時代がどのように動いていくか、その渦中の中の人びとにはわからない。だが、今の我々は、歴史の結果を知っている。徳川はほろび、明治政府ができる。その最後の将軍となるのが慶喜であり、幕府を倒す総大将になるのが西郷である。その二人が、ドラマのここまでのところでは、橋本左内をふくめて、盟友として行動しているかのごとくである。今後、これらの人物がどうなっていくかが楽しみである。(無論、橋本左内がどうなるかは、歴史の結果を今日の我々は知っているのではあるが。)

ともあれ、これから、西郷がどのような人物として成長していくかが、興味のあるところである。

しかし、これも難しいところかもしれない。「西郷」という人格のなかに、明治維新をなしとげたまさに「西郷隆盛」としか言いようのない何かがある、と同時に、幕末から明治にかけて歴史を動かした策士という側面もあろう。これらを、一人の人間のなかにどのように描いていくか、これから楽しみに見ることにしよう。

これから起こる大きな歴史的事件としては、安政の大獄と、斉彬の死、ということになるのだろう。歴史の結果を知っていながらも、楽しめる歴史ドラマになると期待している。

追記 2018-04-24
この続きは、やまもも書斎記 2018年4月24日
『西郷どん』あれこれ「殿の死」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/24/8832129

山吹の花2018-04-18

2018-04-18 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は、ヤマブキである。

前回は、
やまもも書斎記 2018年4月11日
散る桜
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/11/8823456

我が家に山吹の木がある。それが、ちょうど見頃を迎えている。八重咲きである。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)をひくと、古くは万葉集から用例がある。その後、宇津保物語、後拾遺集などにあるので、奈良時代から平安時代にかけて、古代よりこの名前で呼ばれていたことがわかる。

「山吹」といえば、思い出すのが、太田道灌のエピソード。その歌「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」。この歌、後拾遺和歌集の兼明親王の歌である。

「山吹」の花は五花弁とある。八重咲きはその変種である。だが、後拾遺集の例からすると、平安時代にすでに八重咲きの「山吹」が普通にあったようだ。また、種類によっては白い色のものもあるらしい。

それから興味深いのが、「山吹」でその植物・花以外のものを指す語としてもちいる用法のあること。たとえば、「山吹色」の意味でもちいる(源氏物語)。また、重ねの色目の名称でもある。

そのほか見ていくと、女房詞では、いろんなものを指す。日本国語大辞典では、「鮒」「白酒」「干大根と嫁菜を煮たもの」などのことも、「山吹」と言っている。

「山吹」といって連想するのが、テレビの時代劇などでつかわれる隠語としての役割。小判の意味で、悪徳商人がお代官様に話しをするときなどに使っている。それかどうかは別にして、「山吹」で小判の意味を表すのが、江戸時代の俳諧(犬子集、1633)から見られる。現代のテレビ時代劇などの用法は、江戸時代からの用法を受け継いでいることになるらしい。

掲載の写真は、先週のうちに撮影しておいたもの。天気予報で雨になるとのことだったので、雨にぬれる前の姿をと思って、写しておいた。

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-04-25
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月25日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/25/8832794

『半分、青い。』における方言2018-04-19

2018-04-19 當山日出夫(とうやまひでお)

今度のNHKの朝ドラ『半分、青い。』も見ている。ドラマの時代設定は、1980年代。舞台は、岐阜である。地方を舞台にしたドラマであるから、当然のように、その地方の方言がつかわれている。テレビを見ていると、その地方の方言は、さほど特色が強いとは感じられない。標準的な日本語に近い印象である。だが、それとなくその地方の雰囲気を感じさせる話し方である。これはこれでいいとして、見ているとその方言を使わない登場人物がいる。

それは、語り、ナレーションである。ヒロイン(鈴愛)の祖母(廉子)であるが、はやく一週目に亡くなってしまって、ナレーションになっている。風吹ジュンである。(このようなナレーションの設定は、以前のドラマでは、『べっぴんさん』であった。菅野美穂が母親役で出ていて、亡くなってからナレーションをしていた。)

この語り、ナレーション(廉子)、生きている間(?)は、岐阜方言だったと思うのだが、ナレーションになってからは、方言が消えている。少なくとも、私の見た限りでは、そのように感じる。ドラマの進行を客観的な視点から見るナレーションという立場からするならば、方言ではなく、標準語の方がふさわしいということなのであろう。このナレーションのことばが、これから、標準語のままでいくのか、あるいは、場合によっては、祖母の立場にもどって方言に帰ることがあるのか、これから気をつけて見ていきたいと思う。

また、〈心の声〉とでもいうべきものがあった。律の語りも、方言を感じさせなかった。

それから、子どもの時代に登場していたブッチャーの親。西園寺一家である。この母親は、いかにもお金持ちという感じの話し方である。『ドラえもん』におけるスネ夫の家を思い浮かべればいいだろうか。「お金持ち」には、方言は似つかわしくないということかもしれない。あるいは、「お金持ちことば」という「役割語」で考えてみるべきことであろうか。

ただ、これも舞台が岐阜だからそうなるのだと思う。前作『わろてんか』のように京都・大阪が舞台ならば、お金持ちが出てきても、京都方言や大阪方言のままであったはずである。(中で、東京方言の伊能栞がいたが、これは、東京生まれという設定であった。)

これから、ヒロインが成長して、やがては東京に出て行くことになるはずである。そこで、どのようなことばが話されることになるのか、見ていきたいと思っている。時代と土地、それから、語り、心の声……これらが登場人物のことばにどう関係していくか、気になるところである。

追記 2018-05-31
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月31日
『半分、青い。』における方言(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/31/8862756

『背教者ユリアヌス』(四)辻邦生2018-04-20

2018-04-20 當山日出夫(とうやまひでお)

背教者ユリアヌス(四)

辻邦生.『背教者ユリアヌス』(四)(中公文庫).中央公論新社.2018
http://www.chuko.co.jp/bunko/2018/03/206562.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年4月16日
『背教者ユリアヌス』(三)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/16/8827443

ついにユリアヌスは皇帝となる。そして、古代のギリシア、ローマの神々への信仰の復活をこころみる。そして、ペルシアへ遠征するも、非業の最期をとげる。

四巻目までを読んで印象に残るのは、やはり最後のシーンである。ユリアヌスを失ったローマ軍が夕日の沙漠のなかをむなしく行進していく。

読みながら付箋をつけた箇所。

「どうか、諸君、これだけは覚えていて貰いたい。われわれの意図がこの世で実現せられずとも、人間にとって意味があるのはその意図であって、結果ではないということを。(中略)この善き意図は、ただ地上をこえて、見えない帝国を空中楼閣のごとく造りあげるだけに終るかもしれない。しかし人間にとっての真の実在はかかる善き意図による帝国なのだ。溢れる涙による真の連帯なのだ。」(p.198)

「私の願いは、私が皇帝でありつづけるより、精神の高貴さを真に生きることであるからだ。」(p.233)

結果ではなく意図、真の高貴さ……こういったところに、ユリアヌスの目指すもの、あるいは、辻邦生文学の特徴とすべきものを見いだすことができるだろう。辻邦生の作品は、芸術至上主義と言ってもいいかもしれない。だが、それは実在する芸術への賛美にとどまるものではない。そうではなく、それを目指す人間の志のあり方こそを問題としている。

四巻目を読み終えて、結局、ユリアヌスは、自らの希望するローマ帝国を築くことができなかったことになるのだが、残念、落胆という気持ちにはならない。それは、ユリアヌスが、結果ではなく、意図にこそ意味があるのだとして生きてきたからに他ならない。この意味では、今日に残る古代ローマやギリシアの遺跡の向こうに、かつてのユリアヌスの意思を見る……そのような文学的想像力でもって、接することができるのかもしれない。いや、むしろ、読者をして、そのような文学的想像にかりたてるような作品である。

追記 2018-04-26
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月26日
『背教者ユリアヌス』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/26/8833495