『西郷どん』あれこれ「流人 菊池源吾」2018-05-15

2018-05-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年5月14日、第18回「流人 菊池源吾」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/18/

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月8日
『西郷どん』あれこれ「西郷入水」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/08/8846726

これからの西郷の物語は、死から蘇生への物語になるのだろう。

月照と海に飛び込んで、西郷だけが奇跡的に助かる。が、その後、流人として奄美大島に流されることになる。ここまでの流れを見ていると、死から蘇生への過程を、重層的に繰り返して描いていることになる。

まず、月照と海に身を投げて、生きのびたこと。
島に、流人として流されたこと。
そこで、愛加那との出会い。
島での新しい人生。
そして、島からの帰還。
(ただ、その後、再度、西郷は流罪になることになる)。

また、島の人びとの生活の有様を見て、自分の忠誠心の中心にいた島津斉彬への思慕の情に、反省の気持ちが生じる。斉彬の夢みていた「近代」、それは、奄美の人びとへの苛斂誅求とでもいうべき過酷な支配のもとになりたっていたことに気付く。ここで西郷は、本当に「民」のためになることとは何であるのかを模索することになる。

ここにおいて、それまでの勤王の志士の一人であった西郷も、一度、死んで生まれ変わるプロセスを経る、というべきであろうか。おそらくは、島での生活を経て、より大きな西郷という、一つの人格を形成していくことになるのであろう。

以前の大河ドラマでどうだったか、あまりはっきり覚えていないのだが……奄美と薩摩との関係、奄美での人びとの生活、そこを基盤として、西郷の再生の物語、このところをじっくりと描くのは、今回の『西郷どん』の特徴の一つと言っていいのではないだろうか。

これからの先、西郷が基礎を築くことになる、日本の「近代」、それを考える根底に、奄美での流人体験をおいて考えることは、意味のあることである。ただ、薩摩、鹿児島という土地へのパトリオティズム、リージョナリズムの延長にあるのではない、奄美での経験を経て、もっと広い視野をもったところに成立する、幕末から明治初期にかけてのナショナリズム、これを西郷は生きることになる。西郷のナショナリズムは、奄美の人びとをもふくんだものとして、形成されることになるのであろう。

追記 2018-05-22
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月22日
『西郷どん』あれここ「愛加那」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/22/8857049