『西郷どん』あれここ「愛加那」2018-05-22

2018-05-22 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年5月20日、第19回「愛加那」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/19/

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月15日
『西郷どん』あれこれ「流人 菊池源吾」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/15/8851445

今回の見どころとしては、西郷の奄美大島の人びとへの思い、それから、愛加那との恋、であろうか。

第一に、西郷の奄美の人びとへの思いがある。

西郷は、島の人びとの生活をきづかう。また、子供たちの教育にも力をいれる。そんな西郷に対して、龍佐民は、かまわないでくれと言う。いずれ、西郷は島を出て行く。そのような西郷に、米をめぐんでもらったところで、将来がどうなるというわけではない。いや、むしろ、そのようなめぐみがあるおかげで、未来はより苦しいものになるにちがいない。また、とぅまは言う。奄美大島の民は民のうちにはいっていないのである、と。このように言われて、西郷はなすすべがない。しかし、島の人びとへの思いは、より一層つのるようである。

おそらく、このことは、将来の西郷のナショナリズムがどのように形成されていくのか、その基盤をなすものになるのだろう。(私は、ここで、ナショナリズムを悪い意味でつかおうとは思っていない。)

薩摩というリージョナリズム(地域主義)、あるは、パトリオティズム(愛郷心)から、一つ飛躍して、「日本」というものを考えるようになるとき、奄美大島の人びとのことも視野にいれるということが、きっかけになるのだと思って見ている。奄美大島の人びとをも、「民」としてふくむものが、新しい近代の「日本」として構想されることになるのであろう。

明治の日本が、薩摩の藩閥政府ではない、少なくとも、西郷の意図したものは、そのようなものではなかったということが、ここから読み取れるのかもしれないと思う。もっと幅広い国民国家を考えていたはずである。

とまあ、このような意図で、ドラマとしてこの脚本はなりたっているように思う。つまり、その後の明治になってから琉球を沖縄県にすること、また明治以降の奄美大島のことなど、一連の日本の政策の是非の問題は、この場合、わきにおいて考えることになる。

第二は、愛加那との恋である。西郷は、とぅまに恋をする。アンゴにはしない、と言う。そうではなくて、妻にすることになる。この西郷と愛加那(とぅま)との恋が、印象的に描かれていた。特に印象的であったのは、お互いに名前をつけるシーン。西郷は、とぅまに愛加那と名をつける。そして、自らの名前、西郷吉之助、を教える。

だが、我々は知っている。西郷は、いつまでも奄美大島にいることはないのであることを。歴史の流れのなかで、再び西郷は薩摩に戻ることになる。愛加那とは分かれざるをえない。

そして、そのような結末を、愛加那もすでに受け入れているかのごとくである。ユタの予言にしたがって、西郷と結ばれ、また、西郷と別れることになることを、自らの宿命として受け入れているかのごとくである。

だからこそ、奄美大島での二人の恋は、刹那的であり激しくもあるのだろう。

以上の二点が、今回の見どころ、これからのドラマの展開への伏線な部分、として見ていたところである。

次回は、いよいよ桜田門外の変のようである。幕末の歴史が大きく動くことになる。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-05-29
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月29日
『西郷どん』あれこれ「正助の黒い石」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/29/8861613

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