『パルムの僧院』スタンダール(その二)2018-05-11

2018-05-11 當山日出夫(とうやまひでお)

パルムの僧院(下)

続きである。
やまもも書斎記 2018年5月10日
『パルムの僧院』スタンダール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/10/8848192

スタンダール.大岡昇平(訳).『パルムの僧院』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1951 (2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/200801/
http://www.shinchosha.co.jp/book/200802/

この作品、わからないながらも、どうにか最後まで読み通すことができたのは、訳文の見事さもある。大岡昇平が訳している。この作品を読みながら、この文章は、大岡昇平の訳した文章なのだな、ということを意識しながら読んだ。

大岡昇平では、最近読んだ(再読)ものでは、『事件』がある。

やまもも書斎記 2017年11月30日
『事件』大岡昇平
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/30/8737349

大岡昇平の作品としては、他に『レイテ戦記』や『野火』などは読んだ記憶がある。『事件』『レイテ戦記』のような、現代日本のリアリズム作品の著者が、その仕事の一つとして、スタンダールを訳しているということは、注目しておくべきことだろう。いや、逆に、大岡昇平にとっては、スタンダールのフランス語文を訳すことによって、そのリアリズムの文体をつくりあげていったのかもしれないとも、思う。

訳文は見事である。簡潔で無駄がない。しかも、平明である。そして、そのような文体で、登場人物の心理を、細かに描写していく。このような訳業によって、大岡昇平が身につけたものは、強靱なリアリズムの文章であったにちがいない。おそらくスタンダールのフランス語は、何らかの形で大岡昇平の作品にも、影響を与えているはずである。

思えば、『野火』のような作品を書くことと、スタンダールの小説を訳すこととは、どこかでつながっていることであろう。他の大岡昇平作品を読んで確認しておきたくなっている。

大岡昇平の作品については、追って書くこととしたい。

『あやかし草紙』宮部みゆき2018-05-12

2018-05-12 當山日出夫(とうやまひでお)

あやかし草紙

宮部みゆき.『あやかし草紙  三島屋変調百物語伍之続』.KADOKAWA.2018
https://www.kadokawa.co.jp/product/321712000436/

この本で、三島屋シリーズは、いったん一区切りになるようだ。おちかは三島屋を離れることになる。

ところで、昔、学生の頃にならったこと……怪異というのは、場所・土地に属するものとしてある、このような意味のことを、国文学の講義で聴いた。あるいは、本で読んだのだったろうか。習ったのは、池田彌三郎先生である。

例えば、『今昔物語集』を読むと、ある土地には、必ず幽霊、お化け、妖怪が出る。その土地におこる現象であり、その土地に居着いているものとしてである。このような発想を持って見るならば、この三島屋シリーズは、おちかという女性の物語であると同時に、黒白の間という場所の物語でもある。三島屋のその部屋においてこそ、「語って語り捨て、聞いて聞き捨て」の物語、それは怪異の物語である、が成立する。

おちかは、三島屋を離れるが、黒白の間は残る。そこには新たな、物語の聞き手が待っている。この意味では、この三島屋シリーズは続編があるのだろう。

そして、この三島屋シリーズは、怪異といっても、恐怖を感じるような怪異ではない。この世の道理、合理性では割り切ることのできない、不可解なものである。さらにいえば、この世の中の不条理、理不尽といってもいいだろう。それが、黒白の間という場所を得て、語られるとき、いわゆる怪異の話しになる。

宮部みゆきは、この世に生きる人間の、その人生の根底にある、何かしら割り切れないもの、不可解なものを描こうとしているように、私には思える。かつて、現代小説で、非常にリアルな視点で、現代社会のかかえる問題をえぐり出すような作品を書いていた。だが、それが、時代小説を描くようになって、人間を見る目がやさしくなったような気がする。あるいは、所詮、人間なんてそう簡単に分かることのできないものだよ、というおおらかな視点を身につけたとでもいおうか。

三島屋シリーズにおいても、過酷な人間の運命とでもいうべきものがないではない。しかし、それを描きながらも、どこか人間を見る目としては、やさしさのようなものを感じてしまう。あるいは、冷酷に徹しきっていない、とでもいうべきかもしれない。どんなに冷酷な、残忍な物語であっても、最後は、黒白の間において、ふっと一息つくようなところがある。

さて、この百物語、はたして100まで続くことになるのであろうか。

『半分、青い。』あれこれ「叫びたい!」2018-05-13

2018-05-13 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第6集「叫びたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_06.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月6日
『半分、青い。』あれこれ「東京、行きたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/06/8845277

バブルまっただ中の東京に出てきた若者たちは、いったい何を思っていたのだろうか。

鈴愛は、秋風のもとで働くが、「メシアシ」(=メシアシスタント)である。あるいは、五平餅要員、または、炭水化物要員ということである。どうやら、漫画は描かせてもらえそうもない。しかも、3K職場だという。

そりゃそうだと思うのだが……これまで、鈴愛が描いた漫画は、スケッチブックに鉛筆で描いたものしかなかった。それを見て、漫画家の才能があると、秋風が見抜いたということでもなさそうである。

一方、律は、西北大学……どうやら早稲田大学らしいが……の理工に入学する。こぎれいなマンションで、エアコンも、電話もあった。しかし、1990年においては、まだ、パソコンはないようだ。とはいえ、理工で勉強するなら、いずれパソコンは必須になるだろう。たぶん、MS-DOSから、Windows3.1の時代になるだろうか。大学で使うのは、UNIXだろうか。

鈴愛が、故郷とつながるのは電話であった。10円硬貨をたくさん用意しておかないと、故郷と会話できない。

その鈴愛の、東京での住まいは、どうやらボロ宿舎。朝ドラの以前の作品では、『ひよっこ』のあかね荘を連想させる。あかね荘には風呂はなかったが、鈴愛のところには風呂がある。そのガスの使い方がよくわからないようだった。また、その住人たちも変わった人が多いようである。しかし、悪い人、というのではなさそうでもある。

バブルの時代、東京に出てきた若者の住まいとして、律のマンションと、鈴愛の宿舎、これが対照的である。しかし、どちらも、それなりにその時代を感じさせる。

これから、東京はバブルの絶頂から、崩壊へと向かうことになる。そのとき、東京で暮らす若者たちは、何を感じて暮らしていたことになるのだろうか。このあたりを、このドラマはどう描くかと思って見ている。

また、このドラマにおいて、故郷はどんな意味を持つものとして描かれることになるのだろうか。律にも、鈴愛にも、故郷に家族がいる。帰ろうと思えば帰れる。電話もつながる。その故郷への思いと、バブル期の東京での暮らし……そこでは、地方出身ということは肩身の狭いものだったのだろう……律は東京の人になろうとしている、と母(和子)は言っていた。

故郷と東京、これは、これまで何度となく朝ドラで描かれてきたテーマである。近年のものでは、『あまちゃん』『ひよっこ』などが思い出される。帰ろうと思えば帰ることのできる故郷を持ちながら、律と鈴愛は、これから東京で生きていくことになる。次回以降、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-05-20
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月20日
『半分、青い。』あれこれ「謝りたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/20/8854896

『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ2018-05-14

2018-05-14 當山日出夫(とうやまひでお)

誰がために鐘は鳴る(上)

ヘミングウェイ.高見浩(訳).『誰がために鐘は鳴る』(上・下)(新潮文庫).新潮社.2018
http://www.shinchosha.co.jp/book/210016/
http://www.shinchosha.co.jp/book/210017/

『日はまた昇る』『武器よさらば』については、昨年読んだ。思ったことなど書こうと思いながら、これらについては書かずにきている。

そのヘミングウェイの代表作である『誰がために鐘は鳴る』……こんど、新訳が出た。他の作品と同じく、高見浩訳である。今は、まだ読んでいる途中(下巻のなかば)なのであるが、それまでで思ったことなど書いておきたい。

読んで思うことはいろいろあるが、第一にあげておくべきことは、何故、アメリカ人の主人公が、スペインに出かけてまでその内戦にかかわるのか、何故、戦うのか、ということを説得力を持って描けるかどうか、ということであろう。あるいは、逆に、そこのところに共感して読めるかどうか、と言ってもよい。

読んでいくと、反ファシストという正義感一辺倒でもないようである。主人公が一緒に戦うことになる、ゲリラたちも、その人物像の背景は様々である。共和国に賛同するものもいれば、共産主義も出てくる。ジプシーは、政治的にはいったいどの立場になるのだろうか。このあたり、登場人物の背景が、種々の回想場面と錯綜しているので、今ひとつ理解しにくいところがある。だが、様々な背景を持った人間たちによる、ともかくも一つのまとまりとして、戦争に参加していることは読み取れる。

また、主人公(ジョーダン)の、戦闘への参加についても、複雑な背景、あるいは、煩悶とでもいうべきものがあるようである。アメリカの大学でスペイン語の教師をしていたらしいのだが、どうしてスペインの内戦にかかわるようになったのだろうか。

この作品、20世紀になってからのスペインの内戦を舞台にしている。このことは、文庫本の解説でかなり説明してあるので、ありがたい。昔、高校でならった世界史程度の知識しかない人間には、時代的背景の説明がないとさっぱりわからないところがある。

ところで、読みながら感じるのは、戦うことの意味とでもいうべきものである。戦いの自己目的化もあるようにも感じる、でありながら、それへの疑問もいだいている、主人公の心は一つにまとまっていない。いろいろに悩んでいる。このようなあたりが、『武器よさらば』に描かれたような厭戦気分とは、異なっているところである。『誰がために鐘は鳴る』では、厭戦感というよりも、戦闘における昂揚感と、逆に、空しさ、とでもいえようか。

そして、このようなところが、この作品が今日においても読まれるべき意義のあるところだろう。今日の世界において、戦争はなくなっていない。特に中近東において、泥沼の戦闘がつづいている。これを、日本にいて見る限りであるが、どの立場が正しくて、どちらが悪いと、そう簡単に割り切ることもできないようだ。複雑な歴史的経緯と、国際情勢のなかにあって、戦争の大義名分は何であるのか、混沌としている。

このような二十一世紀の今になって、この作品が読まれ続ける価値があるとするならば、正に戦争の大義をめぐる逡巡と葛藤の心情に共感できるところがあるからであろう。

追記 2018-05-18
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月18日
『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/18/8853318

『西郷どん』あれこれ「流人 菊池源吾」2018-05-15

2018-05-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年5月14日、第18回「流人 菊池源吾」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/18/

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月8日
『西郷どん』あれこれ「西郷入水」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/08/8846726

これからの西郷の物語は、死から蘇生への物語になるのだろう。

月照と海に飛び込んで、西郷だけが奇跡的に助かる。が、その後、流人として奄美大島に流されることになる。ここまでの流れを見ていると、死から蘇生への過程を、重層的に繰り返して描いていることになる。

まず、月照と海に身を投げて、生きのびたこと。
島に、流人として流されたこと。
そこで、愛加那との出会い。
島での新しい人生。
そして、島からの帰還。
(ただ、その後、再度、西郷は流罪になることになる)。

また、島の人びとの生活の有様を見て、自分の忠誠心の中心にいた島津斉彬への思慕の情に、反省の気持ちが生じる。斉彬の夢みていた「近代」、それは、奄美の人びとへの苛斂誅求とでもいうべき過酷な支配のもとになりたっていたことに気付く。ここで西郷は、本当に「民」のためになることとは何であるのかを模索することになる。

ここにおいて、それまでの勤王の志士の一人であった西郷も、一度、死んで生まれ変わるプロセスを経る、というべきであろうか。おそらくは、島での生活を経て、より大きな西郷という、一つの人格を形成していくことになるのであろう。

以前の大河ドラマでどうだったか、あまりはっきり覚えていないのだが……奄美と薩摩との関係、奄美での人びとの生活、そこを基盤として、西郷の再生の物語、このところをじっくりと描くのは、今回の『西郷どん』の特徴の一つと言っていいのではないだろうか。

これからの先、西郷が基礎を築くことになる、日本の「近代」、それを考える根底に、奄美での流人体験をおいて考えることは、意味のあることである。ただ、薩摩、鹿児島という土地へのパトリオティズム、リージョナリズムの延長にあるのではない、奄美での経験を経て、もっと広い視野をもったところに成立する、幕末から明治初期にかけてのナショナリズム、これを西郷は生きることになる。西郷のナショナリズムは、奄美の人びとをもふくんだものとして、形成されることになるのであろう。

追記 2018-05-22
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月22日
『西郷どん』あれここ「愛加那」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/22/8857049

ニシキギの花2018-05-16

続きである。
やまもも書斎記 2018年5月9日
クロバイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/09/8847429

水曜日は花の写真の日。今日は、ニシキギの花である。

ニシキギについては、以前に書いたことがある。
やまもも書斎記 2017年11月15日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/15/8727789

我が家の中庭にある。去年から、身の周りの草花など写真にとるようになって、調べてみたりして、名前を知った。ニシキギ(錦木)である。この木は、その名前があらわしているように、秋になって紅葉する時期、実をつける時期を愛でるもののようだ。が、これも、観察してみると花が咲いているのを目にした。

花の咲いている時期、花の終わってからのもの、いくつか写真に撮ってみた。三日見ぬ間の桜……というが、桜に限らず、身近に咲く草花でも、その時期はわずかである。日々、その姿を変えていくことに気付く。この錦木の花の咲いている状態も、三日とは続いていなかったのではないか。

これから、この花の後、実がどのように変わっていくか、季節を追って観察していきたいと思っている。

ニシキギ

ニシキギ

ニシキギ

ニシキギ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-05-23
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月23日
紫蘭
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/23/8857796

訓点語学会(118回)に行ってきた2018-05-17

2018-05-17 當山日出夫(とうやまひでお)

2018年5月13日は、訓点語学会(118回)が京都大学であったので行ってきた。

午前中の始めから行くとなると、朝の8時前には家をでなければならない。雨が降っていた。京都大学につくと……立て看板がなくなっていた。ちょっと寂しい気がする。それから、キャンパスの中を歩いて、ふと木に咲いている花などの目がとまるようになった。花の写真を写すことを日常のこととするようになったからだろう。白い花が咲いているのが目についたが、ウツギだったろうか。

会場は文学部。訓点語学会とは言っているが、実質的には、主に古代語(主に室町期以前の言語の意味で)を中心とした国語史学会と言ってよい。

古辞書をあつかった研究発表で、ちょっと気になったことがあったので、質問の時に言っておいた。問題とした文字が、その辞書(名義抄)のその箇所だけにしかないのか、これは、まず、手続き上確認しておくべきことにちがいない。

今回の研究発表会、総じて感想を述べれば……若い人が多かった、女性が多かった、それから、留学生・外国の人が多かった、という印象。これは、これで、学会のこれからを考えるならば、いい方向なのではないかと考える。

学会が終わって懇親会に例のように出る。終わって、これは去年と同じメンバーになったが、顔見知りの四人ほどで、四条あたりまで行って、軽く二次会ということになった。久々に、先斗町に足を踏み入れてみたのだが……う~ん、日本語よりも外国語の方が多いのではないかという感じ。店の看板は日本語であるが、店頭に出してあるメニューを見ると、外国語のものが多い。日本語のメニューを探す方が難しい。

私が、この街を昔あるいたのは、高校生のころ。京都の丸善に行くときによく通った。京阪の四条でおりて、先斗町を歩く。途中の公園のあるところで、西に折れて河原町通りまでいくと、ちょうどそこが丸善であった。この時の丸善は、今は、もう無い。今から、四十年以上も前の昔話である。

例年、同じようなメンバーで、懇親会の後の二次会に行っているように思い出す。かなり年配の面々なので、ひょっとすると私が一番若いのかもしれない。

ひとしきり、放談、漫談の後、早い目にひきあげることにした。解散したのが九時半ごろだったが、それでも、家に帰ったら、十一時をすぎていた。

さて、次の仕事は、来月の「語彙・辞書研究会」での発表原稿を準備しないといけない。

『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その二)2018-05-18

2018-05-18 當山日出夫(とうやまひでお)

誰がために鐘は鳴る(上)

続きである。
やまもも書斎記 2018年5月14日
『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/14/8850880

上下巻を読み終わって感じることを書けば、この小説は、戦争小説である、ということである。戦争のことを描いた文学作品は、数多くある。その中にあって、この『誰がために鐘は鳴る』は、戦争の大義と、それと同時に、空しさを描いた傑出した作品であると思う。

戦いに参加するものは、それなりに大義があってのことである。それは、敵であろうと、味方であろうと違いは無い。戦争の大義のもとに人は戦う。そこには、昂揚した気分がある。と同時に、どうしようもない虚無感のようなものもある。

いったい何のために戦うのか、自分の人生にとって戦争とは何であるのか、常に問いかける。そこに、明確な答えがあるというわけではない。だが、問いかけずにはおられない。また、戦争の大義も、立場によってそれぞれに異なる。

一応、この作品では、反ファシストという立場で、主人公(ジョーダン)は行動しているのだが、他の登場人物がすべてそうであるかというとそうでもないようだ。作中に出てくるジプシーなどは、いったい何のために戦っているのであろうか。ただ、戦いが日常の中にあって、それを生きているだけのようにも思える。

ところで、この小説、最後のクライマックスは、ジョーダンの受けた命令……橋の爆破……と、その後のことであろう。読んでいって、このクライマックスのシーンには、主人公に共感して読んでしまっていることに気付く。そして、この小説の最後のシーン、負傷した主人公の煩悶にうなずくところがある。

この小説のようではない、別の結末を考えることもできるのかもしれない。だが、この小説に描かれた結末によって、戦争の中に生きることの意義と空しさのようなものを、どことなく感じる。

これは、単なる戦争小説でも、反戦小説でも、厭戦小説でもないと思う。戦いの中に生きざるをえない人間の、精神の昂揚感と虚無感を同時に語っている。すぐれた戦争小説であると思う。

追記 2018-05-21
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月21日
『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/21/8856127

奈良国立博物館『春日大社のすべて』に行ってきた2018-05-19

2018-05-19 當山日出夫(とうやまひでお)

春日大社のすべて

ちょっとついでもあったので、奈良国立博物館に行ってきた。『春日大社のすべて』の展示を見るためである。創建1250年記念特別展、である。

春日大社の博物館での展示といえば、すこし前に、東京国立博物館でもあった。これも、たまたま東京に行く用事のあった時だったので、行ってきた。その時のことを思い出してみるのだが、それぞれに特徴のある展覧会になっていると思う。

言うまでもないことかもしれないが、奈良国立博物館は、春日大社のすぐ近くにある。今回の展示でも、春日大社の宝物のいくつかが展示されていた。ただ、私は、文字が書いてあるもの……典籍、古文書などになるが……にしか、基本的に興味がない。というよりも、見て分からない。

そうはいっても、今回の奈良国立博物館で興味深かった点をあげると、次の三点ぐらいだろうか。

第一に、春日大社それ自身で持っている、伝来してきている宝物の多いことである。これと比べてみるのは、伊勢神宮なのだが、伊勢神宮に行っても、古代・中世から伝来してきているという宝物を見ることは、ほとんど無いようだ。これは、持っていても見せないだけのことなのか、あるいは、そんなに数多くのものが伝来してきていないのか、どうなのだろう。

かなり以前に、神宮徴古館に行ったことはあるのだが、はて、どうだったであろうか。近年では、せんぐう館にも行った。こちらは、宝物というよりも、式年遷宮にまつわる品々の展示である。

第二に、今の春日大社の地に神社が造営される以前、その土地において行われていた祭祀の遺跡・遺物などの展示があったこと。これは、面白いと思った。春日大社は、今年で、創建1250年になる。が、その創建の前から、何かしら霊的な土地として、人びとの信仰の場所であったのであろう。

第三に、やはり中世以降の神仏習合にまつわる文化財の数々。春日大社の信仰も、興福寺をふくめて、仏教とのかかわりを考えることになる。いや、神仏習合の状態だったからこそ、多くの宝物が伝来してきており、現代にいたるまで信仰の流れがある、と見るべきなのであろう。

以上の三点が、展示を見て感じたことなどである。

総合して感じるところは、以前に見た東京国立博物館での展覧会の時よりも、今回の奈良国立博物館の展覧会の方が、規模こそ小さいかもしれないが、古代から中世にかけての春日大社の信仰のひろがり、淵源、とでもいうべきものを、よく示していたのではないだろうか。

なお、展示品の中で特に興味深かったのは、弓。『伊勢物語』に出てくる歌。「梓弓 ま弓つき弓 年を経て わがせしがごと うるはしみせよ」。この歌に歌われている「あづさ弓」「つき弓」の実物があった。この歌について、というよりも、この歌をふくむ『伊勢物語』第二十四段については、毎年の日本語史の講義で触れることにしている。文字社会の成立という話題のときに、この段について話す。(何故、女性は最後に歌を血で書き付けて死んだのだろうか。)

『半分、青い。』あれこれ「謝りたい!」2018-05-20

2018-05-20 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い』第7週「謝りたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_07.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月12日
『半分、青い。』あれこれ「叫びたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/13/8850229

やってまったのは、秋風先生本人であった。

この週、印象に残るのは、バブルの時期に東京に出てきた若者の姿ということである。

鈴愛は、秋風のもとで、どうにか漫画を描く練習をさせてもらえることになった。カケアミというらしい。これが描けなければ漫画家にはなれない。それも、どうにかできたかもしれないというところで、「ネーム」の紛失という事件が起きる。

この事件の顛末をめぐっては、次週にいろいろ発展があるようだ。

だが、大きな筋としては、バブル期の東京に出てきた若者たちの姿が印象的である。地方(岐阜)出身者であることに、すこしコンプレックスを感じているかのような鈴愛。といって、東京の生活(秋風のオフィスの宿舎)で、東京生活を満喫しようというのでもないようだ。なんとか漫画家になろうとして頑張っている。

一方、律の方は、マンションの一人暮らしを楽しんでいるかのごとくである。大学生活も楽しみ、隣人(正人)とも、うまくやっているようだ。方言をかくして話すにはどうすればいいか、工夫している。やはり、この時期、地方出身者で、その方言でしゃべるというのは、何かしら抵抗があったという描きかたである。

歴史の流れから取り残されたような古風な喫茶店「おもかげ」。その古風さが、逆にレトロとして、その時代の雰囲気を出していたように感じる。

ネームの紛失事件の結果、鈴愛は岐阜に帰ろうとする。その最後の夜を、「マハジャロ」ですごす。まさに、バブルの象徴である。このバブルの時期に東京に出てきて、その後の失われた時代をすごすことになる若者たちの姿を、これからこのドラマはどのように描くことになるだろうか。

追記 2018-05-27
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月27日
『半分、青い。』あれこれ「助けたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/27/8860437