『西郷どん』あれこれ「寺田屋騒動」2018-06-19

2018-06-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年6月17日、第23回「寺田屋騒動」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/23/

前回は、
やまもも書斎記 2018年6月12日
『西郷どん』あれこれ「偉大な兄 地ごろな弟」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/12/8892549

今回は、寺田屋騒動の一件。NHKの大河ドラマで、寺田屋騒動は、何度か描かれてきていると思う、そして、そのいくつかを見たと思う。今回の描き方は、薩摩のパトリオティズム(愛郷心)を軸に描いた寺田屋騒動ということになるのだろう。

今回の登場人物のほとんどは、薩摩の人間。まあ、幕末を薩摩の視点で描いているのだから、そうなるといえばそうなのだが。薩摩、それも、鹿児島の郷中の小さな人間関係におさまる人物がメインであった。鹿児島の郷中で、幕末から明治維新をなしとげ、そのときにあった、ある悲劇としての寺田屋騒動であった。川でウナギを捕るシーンに象徴されている郷中の仲間どうしで、殺し合わねばならない理不尽としての寺田屋騒動として描かれていたと思う。

ところで、よくわからないのが、時代の流れと西郷の関係。これまでのところ、幕末の重要な局面で、西郷は、その場面にいない。桜田門外の変の時には、奄美大島に流されていた。そして、今回の寺田屋騒動のときも、薩摩に幽閉されていた。江戸にいたときは、斉彬のお庭方であり、西郷が中心人物として、歴史の中にあるということはなかった。だが、そのような西郷を中心にして、これからの薩摩藩は、倒幕の中心になっていくことになる。江戸城の開城もある。明治維新後は、西郷、それから、大久保とで、日本の近代の礎を作ることになる。

その西郷が、ともかく、「西郷」という人格でしかないように思える。その「西郷」という人格の形成に、故・島津斉彬の薫陶あってのことであることは分かるのだが、しかし、その具体的人物像がいかにして成り立っているのかとなると、茫漠としている。が、だからこそ「西郷」という人格に、明治維新の立役者としての存在感があるということなのかもしれないが。

また、なぜ、尊皇攘夷なのか、これもよくわからない。時代の空気としかいいようがないものかもしれない。たぶん、これから明治になってからの近代も、よくわからないままでいきそうな気がしてならない。尊皇攘夷とか、倒幕とか、近代とか、時代の流れのなかにあって、屹立した一つの人格としての「西郷」を、これからこのドラマは描いていくのだろうと思っている。

追記 2018-06-26
この続きは、
やまもも書斎記 『西郷どん』あれこれ「地の果てにて」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/26/8903399

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