京都国立近代美術館「横山大観展」を見てきた2018-06-29

2018-06-29 當山日出夫(とうやまひでお)

横山大観展

京都国立近代美術館で開催の「横山大観展」に行ってきた。

梅雨というのに暑い日だった。地下鉄の東山から美術館まで歩くだけで、汗みずくになってしまった。眼鏡に汗がついてしまった。午前中に行ったのだが、かなりの人であった。このごろ、どの展覧会に行っても、人が多い。これはこれで、美術館の運営上しかたないことなのかもしれない。が、横山大観は、ゆっくりと見たい気がする。

横山大観は日本画家である。そのなかで、新しい技法、テーマを追求していった様子が、年代順に展示されていた。見ていって感じたことは、確かに、大観は、新たな画題を追求していったと思うのだが、それを見て、我々のものを見る感覚が影響されて変わってくる、という気はあまりしなかった。むしろ、伝統的な、画題、見方、描き方を尊重していたように感じたのであった。(そのなかにあっても、斬新な工夫を見ることはできるのだが。)

まったく個人的な思いを記せば、ある絵画が、ものを見る感覚、風景の見方を変える……このことについて、私が、一番つよく感じているのは、岸田劉生の作品においてである。その代表作の一つ、「道路と土手と塀(切通之写生)」である。これは、WEBで見ることができるようになっている。

東京国立近代美術館
岸田劉生 道路と土手と塀(切通之写生)
http://kanshokyoiku.jp/keymap/momat03.html

そうはいいながら、やはり横山大観の畢生の作である「生々流転」には、感動を覚える。長大な巻物のなかに、風景が流れていく。それを見ていくと、自分が、その流れる風景の中に溶け込んでいくような感じなる。

「生々流転」は、たしか東京国立近代美術館に展示されていたのを、若いとき……東京に住んでいたとき……何度か、眼にしたかと覚えている。この作品をみて、横に長い、巻子本という形式を採用することによって、季節と自然の流れを表現することができていると感じる。ここには、独自の自然観とでもいうべきものがある。このような自然の見方があったのか、表現の方法があったのかと、気づかせてくれる。

美術、芸術とは、それまで目にしてきたこと、体験してきたことを、新たな視点、感覚で、再発見をうながすものであると思う。無論、その作品によってはじめて体験する感動というものもある。その一方で、これまで目にしてきた風景や自然について、新たな面目を提示してくれる、新たな目で「風景」を見る自分を再発見させてくれるものでもあろう。芸術による風景の発見といってもよいだろうか。この意味で、特に「生々流転」は、近代日本において、一つの「風景」を示してくれている作品であると思う。

総合して考えることは、やはり横山大観という画家は、日本の近代を生きたということが実感できる展覧会であった。

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