『半分、青い。』あれこれ「帰りたい!」2018-08-05

2018-08-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第18週「帰りたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_18.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月29日
『半分、青い。』あれこれ「支えたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/29/8927619

この週の見どころは、鈴愛と涼次の決別。これについて、見て思ったところを書けば、次の二点になるだろうか。

第一に、涼次の映画への思い。

涼次は映画の世界にもどっていく。そして、あえて退路を断つ。鈴愛とは別れるという。

映画の世界で、脚本家として生きていくことと、鈴愛との生活を両立させることは、決して難しいことではないことのように思えるのだが、このドラマではそうはなっていない。映画の世界で生きるために、家族を捨てることになる。

このあたり、映画、脚本の世界で生きていくことの厳しさの表現であるととっておけばいいのだろう。この意味では、ドラマの作中のできごととはいえ、このような設定をもってきた、作者(北川悦吏子)の覚悟のほどが、感じられる。

先に、秋風羽織のもとで漫画家をめざし、自分の才能に絶望して、百円ショップにつとめることになった。ここでも、創作、表現にかかわる仕事の厳しさが描かれていた。まずは、才能があるかどうか、である。鈴愛は自らに漫画家としての才能は無いと見切りをつけた。

こんどは映画である。涼次には、才能があるのだろう。小説家・佐野弓子も、その脚本の才能を認めていたようである。だが、この世界、才能があるだけでは生きていけない。さらに、貪欲にチャンスを自分のものしていく意欲のあるものが生き残る。

このような脚本の世界の中で、自分は生きのびてきたし、また、これからも生きのびてみせる……このような覚悟とでもいうべきものが、この週の展開からは感じられた。

第二に、とはいっても、涼次が捨てることになる家庭とは何であったのか。

このあたりの描写が、希薄な気がしてならない。映画か、家庭か、となって、涼次は映画をとる。そして、鈴愛も、それを容認する。これはいいとしても、そこにいたる、過程がどうであったのか、ちょっと話しの筋がとんでいるように感じた。

ここは、鈴愛と涼次の家庭のエピソード、例えば、幼稚園の運動会などでもいいかもしれないが、ささやかながら、百円ショップで働きながら、きづきあげた家庭の温かさ、とでもいうべきものを描いておくべきではなかったか。花野は、おたふくかぜになったが、耳に特に異常はなかったようである。このあたりのエピソードに、父親としての涼次の気持ちを絡めて描いてあったらよかったかと思う。

涼次が捨てることになる、鈴愛もそれを了承することになる、東京での家庭の団欒、これの描き方が今ひとつ物足りない気がしている。言い換えるならば、話しの展開がはやすぎるのである。あるいは、家庭の人としての、父親としての涼次が描かれていなかったと言ってもよい。

話しが早くすすむのはいいとしても、鈴愛の家庭について印象的シーンが無いのが残念である。鈴愛と涼次の出会いも、ドラマの時間としてはわずかのものだったが、雨の中のダンスということで、きわめて印象的に描かれていた。このような印象的なシーンが、鈴愛の家庭、父親としての涼次の姿において、見られないのである。

だいたい以上の二点が、この週に思ったことなどである。

それにしても、突然の帰郷にはいささか戸惑いも覚える。ここは単なる帰郷というよりも、故郷・岐阜に帰りたいという強い気持ちの表現なのであろうが。これまで、鈴愛は、東京で暮らしていても、岐阜方言が抜けていなかった。どこか、故郷とのつながりを感じさせていた。それが、ここにきて表面化したということであろうか。

土曜日、最後に律が登場してきていた。これから、鈴愛と律との、次のドラマがはじまるのだろう。それはいいとしても、東京での鈴愛と涼次と花野、それから、三人のおばたち、これらの、生活の描写がもうちょっと描いてあったらと感じるのである。あるいは、これは、今後のドラマの展開を考えると、それだけの時間がとれなかったということなのかもしれない。ともあれ、次の展開を楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-12
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月12日
『半分、青い。』あれこれ「泣きたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/12/8939884