『春の戴冠』(二)辻邦生2018-08-30

2018-08-30 當山日出夫(とうやまひでお)

春の戴冠(二)

辻邦生.『春の戴冠』(二)(中公文庫).中央公論新社.2008 (新潮社.1977)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2008/06/204994.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年8月25日
『春の戴冠』(一)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/25/8949384

この小説の登場人物は、あくまでも辻邦生という作家の作品の中の登場人物なのである。実在した、歴史上の誰か、と思ってはいけないのだろう。『春の戴冠』における、サンドロ(ボッティチェルリ)は、どこかで、『西行花伝』の西行に、『嵯峨野明月記』の本阿弥光悦などに、通じるところがある。いうならば、芸術への賛美者とでもいえようか。

読みながら付箋をつけた箇所を引用してみる。

「そうなのだ、神は地上をかくも愛し給うた。それゆえにこの春の微風を西から君たちに送り給うたのだ。雲も青空も季節もすべて神の愛が地上に形をとった姿なのだ。遠い町々を見給え。あそこに多くの人びとが住んでいる。喜んだり悲しんだりして彼らも日々を送っている。だが、それも神の愛なのだ。」(p.212)

「ぼくが肖像を描くのは、その人を描くんじゃない。その人の外貌を〈眼をそらさずに〉写すんじゃない。そうではなくて、そこに現れている〈神的なもの〉を描いているんだ。そこに語られる長い物語を描いているのだ」(p.302)

「私たちは個々人としては短い人生を蝋燭の火のように燃えつきて過ぎてゆくでしょう。〈神的なもの〉によって呼び出される〈快さ〉は実はこの〈永遠の人間の姿〉が私たち個々人のなかから現れたことを示すのです。ですから〈快さ〉が消えたとしても、それが私たちをこえてつねに生きていることには変わりがないのです」(p.336)

このようなことばは、例えば『嵯峨野明月記』に出てきてもおかしくない。これらの引用にみられるような芸術への永遠の確信とでもいうべきものに、この小説は満ちている。

ところで、この第二冊目で登場するは、ボッティチェルリの『春』という作品。今では、これは、インターネットによって簡単に確認することができる。(この『春の戴冠』の出た当時、私が、大学生のころのことになるが、そのころでは、図書館でしかるべき画集でも閲覧しないと見ることはかなわなかった。芸術作品をとりまく情報環境も、大きく変わったものである。)

そして、この第二冊で、フィオレンツァの町は繁栄の絶頂に達するようである。メディチ家の栄華も頂点に達している。騎馬祭の開催。そこに貴婦人として登場するシモネッタ。彼女の死で、この巻が終わっている。次の第三冊から、小説は後半に入ることになる。メディチ家の隆盛も、陰りがみえてくる予感がある。次を楽しみにして読むことにしよう。

追記 2018-09-07
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月7日
『春の戴冠』(三)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/07/8957339