『原民喜』梯久美子2018-08-11

2018-08-11 當山日出夫(とうやまひでお)

原民喜

梯久美子.『原民喜』(岩波新書).岩波書店.2018
https://www.iwanami.co.jp/book/b371357.html

梯久美子の本では、『狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ-』を読んだ。もう去年のことになるだろうか。

梯久美子.『狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ-』.新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/477402/

特に読み比べる気はないのだが、強いて比較するならば、『狂うひと』の方が、評伝としては、はるかに面白い。重厚でもある。それに比べると、新書本という形式にもよるのだろうが、どうも、人物像への掘り下げ方が浅い気がしてならない。

とはいえ、原民喜といえば、『夏の花』に代表される、原爆の作家というイメージが定着している……まあ、私などはそう思っているのだが……ところに、その生いたち、特に少年時代、文学少年、文学青年というべき時期のことが、書いてあってこれは興味深いものであった。

原民喜は、本来は多感な抒情詩人なのである……このように理解していいのかもしれない。

それから、この評伝は、その死……自死……の時のことかから書き起こされている。

「死の側から照らされたときに初めて、その人の輪郭がくっきりと浮かび上がることがある。原は確かにそんな人のうちのひとりだった。」(p.14)

だが、この評伝において、なぜ、彼がそのような死をとげることになったのか、ここのところには踏み込んでいない。しかし、その最期のときのことから書き起こすことによって、死とともにあった原民喜という作家の輪郭がはっきりしてくることは確かである。

それから、この評伝を読んでいって印象的なのが、『鎮魂歌』である。この作品にふれて、著者(梯久美子)はこう書いている。

「「夏の花」で抑制的に描かれた原爆の死者たちは、ここでは原自身の魂に突き刺さり、存在を根底から揺さぶるものとして、饒舌に語られる。」(p.226)

『鎮魂歌』は、昭和二四年である。(『夏の花』は、昭和二〇年のうちに書かれている。)

原爆の被災についての、怒り、悲しみ、といった感情が、文学的に形をとるまでには、数年の歳月を要したということなのであろう。逆に言えば、その直後には、怒りや悲しみなどの感情は、極度に抑えられている(『夏の花』)。

『夏の花』を読んだ印象で、『鎮魂歌』に接するとき、原爆の悲劇の大きさというものを、再確認することになる。

ともあれ、原爆文学(このような言い方がいいのかどうかわからないが)としての原民喜のみではなく、極めて繊細な感性を持った抒情詩人としての原民喜という側面のあったことを、この評伝は教えてくれる。

『半分、青い。』あれこれ「泣きたい!」2018-08-12

2018-08-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第19週「泣きたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_19.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月5日
『半分、青い。』あれこれ「帰りたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/05/8934079

この週になって急に時間の流れがゆっくりになった。いや、先週までが早すぎた印象がある。次週からの新たな出発にむけて、故郷の人びと、友人たちとなごんだ一週間であると思って見ていた。この週は、じっくりと故郷編という印象であった。

ともあれ、鈴愛は、出戻って、岐阜のつくし食堂、楡野家に帰ってきた。この週の中で描かれていたのは、昔の仲間、ふくろう町の友人たち、それから、家族との再会、団欒、といったところであろうか。

鈴愛には、帰る家がある。これは、このドラマで、重要な要素になっていると思う。東京で漫画家を目指していても、それに挫折して百円ショップで店員をしていたときも、結婚してからも、そして、離婚してからも、最後には、鈴愛には帰る家がある。そこには、父、母、弟、祖父、が待っている。また、ブッチャーや、菜生もいる。また、ボクテや裕子もやって来てくれる。鈴愛は、家族、友達にめぐまれている。(そういえば、このドラマ、これまでのところで、死んだ人間としては、ナレーションの廉子だけだったように思うが、どうだったろうか。このままいくと、仙吉も長生きしそうである。)

次週以降、鈴愛は、新たな挑戦を始めるらしい。五平餅をつくることになるのであろうか。次の旅立ちの前に、一息ついて、故郷の人びとの中で暮らすことになる鈴愛を描いた週であった。

ところで、律との関係はどうなるのであろうか。律は結婚はしているが、鈴愛から離れてしまったわけでなはない。常に、ふくろう町において、鈴愛の側にいる存在である。恋人というわけではない。幼なじみからの、友達……強いて言えば、こうなるであろうか。

この律の存在が、これからの鈴愛の人生の選択にどのようにかかわっていくことになるのであろうか。また、離婚した母親として、娘の花野をどう育てていくのかも、気になるところでもある。そして、鈴愛は、ふくろう町にとどまるのであろうか。あるいは、また、旅だっていくのであろうか。

次週も楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-19
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月19日
『半分、青い。』あれこれ「始めたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/19/8945341

映像の世紀プレミアム「難民 希望への旅路」2018-08-13

2018-08-13 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK映像の世紀プレミアム第10集「難民 希望への旅路」
http://www4.nhk.or.jp/P4235/x/2018-08-11/10/33830/2899069/

昨日(8月11日)の夜の放送を録画しておいて、今日(8月12日)の昼間に見た。見て、何か書こうと思って、Googleで検索してみて、タイトルが「難民 希望への旅路」となっていることに、何かしらのとまどいを感じている。

番組を見た印象からするならば、誰も「希望」を感じて難民になどなっていない。NHKは、なぜ、このようなタイトルをつけたのであろうか。かといって、「絶望」とも表すことはできないだろう。

思いつくことをいくつか書いてみる。思いつくままにであるが。

スペイン内戦のときのヘミングウェイの声が残っていたのにはちょっと驚いた。私がこれまで読んだヘミングウェイの作品からは、難民の苦悩というようなものは、感じていなかったのだが。これは、読み方が浅かったというだけのことなのであろうか。

難民の歴史は、難民をどのように報じたかという歴史でもある。この意味で登場していた、二人のカメラマン……キャパと沢田教一。その作品は、これまでに本などで何度か目にしている。特に沢田教一の「安全への逃避」、これがアメリカ兵から逃れるシーンであったことは、認識を新たにした次第でもある。

第二次大戦の直前、ヨーロッパからアメリカを目指したユダヤ人を載せた船の話し。これは、たしか、映画化されていて、学生の時に見たかと覚えている。

それにしても、アインシュタインをすこし理想的に描きすぎてはいないだろうか。

番組(録画)を見ながら、はて、この番組は、どこで終わりになるだろうか、今でも世界中で難民の問題はある、どこに着地点をもっていくことになるのか、と思っていた。結局、沢田教一の写真の一件で、終わりにしていた。これはこれで、一つの編集の見識であると思う。今の世界のどこかの難民の姿で終わりにすれば、その加害者の側が誰かを最後に示して終わることになる。誰が悪いということで簡単に整理がつかないのが、難民問題である。難民問題は、ある意味では報復の連鎖の犠牲者でもある。ここを、どの場面で終わりにするか、難しいところであると感じる。最後は、ベトナム。たとえ難民になってもどこかの新しい国で生きていける、そんな「希望」を感じさせた。

この番組、気になったことを書いておけば、日本が登場しなかった。二〇世紀が難民の時代であるとして、では、日本は難民とどうかかわることになったのか、一切触れていなかった。日本の植民地支配の時代、日中戦争、太平洋戦争の時代、この時代も、日本が当事者となって難民を生み出した歴史が無かったということはないであろう。それが、日本人であるにせよ、現地の人びとであるにせよ。

また、太平洋戦争の終わり、ソ連侵攻にともなう満州の人びとのことも、ある意味では、難民といえるにちがいない。これについても、触れることがなかった。太平洋戦争の終わりのとき、外地にいた人びとのことも考えていいように思うが、どうだろうか。

今の国際社会の難民については、現代の日本も、間接的には当事者のひとつであるにちがいない。とはいえ、日本を難民問題の当事者として見る視点を導入して番組をつくることは、また難しいにちがいないが。ここは、あえてまったく日本を登場させない作り方を選んだのであろう。

その他、いろいろ思うところの多い番組であった。

『西郷どん』あれこれ「怪人 岩倉具視」2018-08-14

2018-08-14 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年8月12日、第30回「怪人 岩倉具視」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/30/

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月7日
『西郷どん』あれこれ「三度目の結婚」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/07/8935554

このドラマ、一つの回で、一つの話し、ということで進んでいる。この回は、岩倉具視。

見どころとしては、次の二点が印象に残った。

第一に、賭場のシーン。

まあ、貧乏公家が、その家を賭博に使うことはあり得たことであろう。うまく描いていたと思うのが、西郷の博打の運の無さ。ことごとく負けていた。一方、これに対して、勝っていたのは、桂小五郎。また、博打に参加しなかったのは、大久保一蔵。このあたりの描写が、これから倒幕、明治維新の流れのなかで、それぞれの役割を象徴していたように感じる。

倒幕、明治維新という大業を成し遂げても、最後には、西南戦争というある意味での貧乏くじを引くことになる西郷。幕末の激動の時代を生きのびて、明治政府を作ることになる桂小五郎。それを、陰で冷静な目でみることになる大久保。このあたりの人物の役割を、賭場のシーンで暗示しているかのごとくであった。

第二に、岩倉の書簡。

どうやら薩長同盟を画策しているのは、西郷だけではなかったようである。岩倉も、幕府に見切りをつけて、薩長同盟の策略を練っていたという筋書き。このあたり、歴史考証の面では、どうなのだろうという気がしないでもない。はたして、薩長同盟は、どのような発案、いきさつのもとの結ばれることになるのか。

このあたりは、次回の坂本龍馬の登場で次の展開を見せるという運びになっているのだろう。

以上の二点が、この回で見ていて印象に残っているところである。

それにしても、岩倉の家の仕掛け……まるで忍者漫画のようだった。私などは、白土三平の作品など思い浮かべてしまう。

岩倉具視といえば、歴史の教科書には登場する。だが、何をした人物かとなると、今ひとつ、知られていないようでもある。明治になってからの岩倉使節団では、名を残しているが。ただ、この岩倉具視の天皇への思慕の情……これが、今ひとつ、描き方が浅いような気がした。

大河ドラマで、孝明天皇というとやはり『八重の桜』が傑出していると感じる。天皇への思慕の情、勤王の思想、感情を、ドラマの中でどのように描くか、これが、幕末、明治維新ドラマを見る一つのキーになるかと思っている。

次回は、坂本龍馬の活躍になるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-21
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月21日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/21/8946777

日曜劇場『この世界の片隅に』第五話2018-08-15

2018-08-15 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』第五話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v5.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月8日
日曜劇場『この世界の片隅に』第四話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/08/8936597

この週のキーワードは、「普通」だろうか。

北條の家に嫁いだすずのもとに、海軍の水原が訪ねてくる。行火を持って行くところ、鳥の羽をペンにして絵を描くところなど、これらは、原作(漫画)のとおり。納屋の二階で水原は、すずに「普通」であってほしいという意味のことを言っていた。昭和一九年の終わりである。日本の敗色が見え始めたころだろうか。海軍にいる水原には、内地にいる一般の人びとよりも、戦局が見えているのだろう。

昭和一九年から二〇年のころ……「普通」に暮らすことが難しくなってきている。せいぜい、年末に餅つきが出来たのが、幸いということである。

この「普通」ということば、原作(漫画)でも使われている。戦時という「普通」でない時代に、海軍という「普通」でないところにいる水原。彼は、すずに「普通」であって欲しいと語る。

また、すずの兄・要一も戦死する。これも原作(漫画)に描かれている。戦地から帰ってきたのは、遺骨ではなく、ただの石だった。「普通」に死者を弔うこともできない時代になってきているということである。

この週も、ほぼ原作(漫画)のとおり。汽車の中での喧嘩のシーンも、そのとおりである。

原作(漫画)を題材にして、膨らませてあるのが、家族が風邪をひいてザボンを買ってくるところ。ヤミ市でザボンを買ったすずは、リンのいる遊郭をたずねる。そこで、茶碗を、リンに渡してくれとあずける。ここで、ザボンも登場していた。ここのところは、原作(漫画)には、無いシーンである。が、巧みに、リンに対するすずの思いを描いていたと感じる。

ところで、この週の現代パートのところで、北條という女性が登場していた。この女性の正体は誰なのだろうか。これは、今後の展開で明らかになっていくのだろう。

追記 2018-08-22
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月22日
日曜劇場『この世界の片隅に』第六話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/22/8947407

ネジバナ2018-08-16

2018-08-16 當山日出夫(とうやまひでお)

今年の7月から8月は、異常に暑い。暑いというより熱いと書きたくなるぐらい暑い。もはやこの熱さは、災害である。ちょっと外に出て花の写真を写す気にもなれないでいる。これも、以前に写しておいたもののストックからである。

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月9日
ナンテンの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/09/8937389

ネジバナである。初夏のころ、我が家の近辺の所々に花を咲かせる。その名のとおり、ねじれたように花が咲くので、一目でそれとわかる。しかし、写真に撮るのは、ある意味で難しい。どう工夫しても同じような写真にしかならない。また、横位置よりも、縦位置で撮った方が、この花の特徴をよく出せる。今回は、あえて縦位置撮影の写真も掲載にする。

例によって日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を引いてみる。「ねじばな」の項目では、

重訂本草綱目啓蒙(1847)と日本植物名彙(1884)から見える。近代になってからの名称のようである。別名「もじずり」ともあるので、「もじずり」の項目を見ると、「もじずりぐさ」の名称で、和漢三才図会(1712)、俳諧・俳諧四季部類(1780)に見える。「ねじばな」より「もじずりぐさ」の方が、古くからある。

この花、『言海』には掲載になっていないようである。

ネジバナ

ネジバナ

ネジバナ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-08-23
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月23日
山茱萸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948047

『原民喜全詩集』原民喜2018-08-17

2018-08-13 當山日出夫(とうやまひでお)

原民喜全詩集

原民喜.『原民喜全詩集』(岩波文庫).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/book/b248819.html

さきに、『夏の花』について書いたとき、『羊と鋼の森』での原民喜への言及を引用しておいた。それを、再度確認しておきたい。

やまもも書斎記 2018年8月10日
『夏の花』原民喜
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/10/8938282

「明るく静かに懐かしい文体。少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
(p.65)

原民喜の全集を確認したということではないので、このことばがいつ書かれたものか知らない。ただ、この原民喜のことばは、新潮文庫の『夏の花・心願の国』の解説(大江健三郎)でもひかれている。

この原民喜のことばは、『夏の花』にやはりふさわしいと感じる。あるいは、それ以前の散文詩のいくつにおいて、と言ってもよいであろうか。

『原民喜全詩集』を読んで感じるのは、まことに繊細な詩心と言えばいいだろうか。特に、初期のものにそれを感じる。萩原朔太郎などに代表されるような、近代の憂愁というのとは、ちょっとちがっている。が、それに通じるところのある、かそやかな、しかし、芯のつよい叙情性である。

もし、原民喜が、原爆という体験を経ていなければ、昭和の抒情詩人の一人として、名前を残しているにちがいない。いや、原爆という体験のあることがわかって読んでみても、原民喜の詩の叙情性は素晴らしい。純粋テクストの立場にたつことは難しいことかもしれないが……いや、原爆という体験のあることを知って読むと余計にというべきかもしれないが……その叙情性には心うたれるものがある。

岩波文庫版の解説を書いているのは、若松英輔である。その解説の冒頭でリルケに言及した後、次のようにある。

「詩人とは、単に詩を書き記す者の呼称ではない。むしろ、詩によって生かされている者にのみささげられるべき名なのだろう。民喜は詩人である。」(p.186)

『夏の花』は、詩人の作品であると強く感じる次第である。

『初版 古寺巡礼』和辻哲郎2018-08-18

2018-08-18 當山日出夫(とうやまひでお)

初版古寺巡礼

和辻哲郎.『初版 古寺巡礼』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2012
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480094544/

和辻哲郎の『古寺巡礼』は、若いころに読んだ本であった。二回ほどは読んでいるだろうか。が、それは、今から思ってみるならば、岩波文庫版であった。筑摩書房のちくま学芸文庫版で『初版 古寺巡礼』が出ていることを知って、これも読んでおきたくなって読んでみた。

はっきり言って、若い頃、和辻哲郎『古寺巡礼』はあまり好きな本ではなかった。そのあまりにも理知的なスタイル、仏像を信仰の対象としてではなく「美術品」として見ようとする、その姿勢に、なにかしら違和感のようなものを感じていた。若い頃の読書としては、和辻哲郎の『古寺巡礼』よりも、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』の方が断然いいと思っていた。

しかし、今回、『初版 古寺巡礼』を読んで見て、その印象はがらりとかわった。和辻哲郎は、なんと初々しい(としかいいようのないような)豊かな感受性で、奈良の古寺、古仏を見ていることか、認識を新たにするところがあった。

ちくま学芸文庫版の解説を読むと、後年の改訂版となったときに、かなりの手を加えたものであるということである。その中には、学問的な誤りの訂正というべきものもある。だが、それ以上に、より理知的で冷静な文章に書きかえているとのこと。(岩波文庫版の解説にも、このところについての言及はあるらしいが、昔読んだときには読み過ごしていたようだ。)

今回、『初版 古寺巡礼』を読んで感じることは……今から、一世紀ほど昔になるのだろうか、奈良の古寺をめぐる旅とは、こんなにも人を感動させるものであったのか、という感慨である。今の奈良の古社寺拝観、観光からは、とても想像ができない。このようにして、古仏に接していた時代がかつてあったのだ、このことを確認する意味でも、この本は一読の価値があると思う。

仏像を見る感覚、感受性、美的意識、というようなことについて、改めて考えてみたいと思った本である。

追記 2018-08-20
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』については、
やまもも書斎記 2018年8月20日
『大和古寺風物誌』亀井勝一郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/20/8946045

『半分、青い。』あれこれ「始めたい!」2018-08-19

2018-08-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第20週「始めたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_20.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月12日
『半分、青い。』あれこれ「泣きたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/12/8939884

この週は、鈴愛とその周囲の人びとの生活をじっくりと描いていた。

第一には、娘(カンちゃん)との関係。

鈴愛は、自分が漫画家であったことを娘に隠していた。それを律が、カンちゃんにばらしてしまうことになる。が、それをきっかけに、鈴愛は、カンちゃんに絵を描いてやったりするようになる。

このあたり、漫画家という過去を持った鈴愛が、どのように娘を育てていくことになるのか……これまでの自分の生き方に素直に、子どもに接していくことになるようである。

第二には、仙吉の死。

これまでにこのドラマで死んだのは、廉子だけだったように思うが、まさに廉子の死は、ナレ死であった。ナレーション自らが、自分の死を語っていた。が、仙吉の死については、一日をかけて、じっくりと描いていた。これまで朝ドラで、誰か登場人物の死を、これほどまでに丁寧に描いた作品は、あまりなかったかもしれない。

この時、ナレーション(廉子)が、岐阜方言になっていたのが印象的でもある。

第三には、新しい店。

生前の仙吉から、鈴愛は五平餅の特訓をうける。そして、念願のつくし食堂二号店を出す運びとなった。が、仙吉が考えたその店の名前は、カンちゃんだけが知っている。なんとか、カンちゃんから仙吉のことばを聞き出そうと苦労する、鈴愛たちである。

以上の三点ぐらいが、この週のみどころだろうか。

最後に、土曜日のラストで、律の妻、より子が登場してきた。鈴愛が、よりとまともに話すことになるのは、これが最初かもしれない。はるか以前に、大阪の家を訪ねていって、声を交わしたことがあったはずであるが、それ以来だろうか。

このより子をめぐって、これから律と鈴愛の関係はどうなるのだろうか。また、つくし食堂二号店の名前は。これは、次週の展開に待つことになるのだろう。

それから、脇役であるが、和子さんがよかった。病気である。これから先、長く生きられないかもしれない。一日一日を大事に生きている萩尾家の様子が心地よく描かれていた。

追記 2018-08-26
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月26日
『半分、青い。』あれこれ「生きたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/26/8950069

『大和古寺風物誌』亀井勝一郎2018-08-20

2018-08-20 當山日出夫(とうやまひでお)

大和古寺風物誌

亀井勝一郎.『大和古寺風物誌』(新潮文庫).新潮社.1953(2015.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/101301/

和辻哲郎の『初版 古寺巡礼』を読んで、次に読んでおきたくなって、手にした本である。再読、いや、再々々読ぐらいになるだろう。これまで何回か読み返した本である。

やまもも書斎記 2018年8月18日
『初版 古寺巡礼』和辻哲郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/18/8944613

亀井勝一郎は、私が学生のころ……今から40年以上も前になるが……現役で読まれていた評論家であった。今、亀井勝一郎で読めるのは、この新潮文庫の『大和古寺風物誌』がある。他に、数点は、今でも読める本があるようであるが、やはり、知名度からすれば、まずこの本になるだろう。そして、この本は、今でも読まれている本である。新潮文庫は、近年になって改版して、新しい版で刊行している。

若いころ、『古寺巡礼』(和辻哲郎、岩波文庫版)を読んで、大和の古仏について書かれたものとしては、こちらの『大和古寺風物誌』(亀井勝一郎)の方が、いいと感じていたものである。何よりも、仏像を信仰の対象として見る姿勢に、共感したものである。

今になって、何十年かぶりに読み返してみて、感じることは、次の二点だろうか。

第一には、この本に掲載の文章が書かれたのは、戦時中であったこと。太平洋戦争のさなかに書かれている。主に、昭和17年ごろの文章が中心である。

その時代背景をどことなく感じさせる文章である。特に戦意昂揚というようなことはないが、自国の過去の文化への礼賛の雰囲気がただよっている。それが、特に、いやになるということはないのであるが、読んでいて、その時代背景を感じながら読むことになる。

第二には、亀井勝一郎という評論家は、左翼からの転向者であった(通俗的な文学史の理解からすれば、このような表現になる)。このことを、若い時、学生の頃、亀井勝一郎という人物の書いたものを読んだりするときには、特に意識しなかった。

だが、そのような背景がある人物であること、また、戦時中に書かれた文章であること、これらを考えて読んで見ると、保守的な浪漫主義とでもいうべきものを感じる。

以上の二点ぐらいが、久々にこの本を読んで感じるところである。若いときに比べれば、かなり批判的な目で、文章に接するようになってきていることに気づく。

とはいえ、やはりこの作品を読んで感じるのは、仏像をあくまでも信仰の対象として見ようとする姿勢にある。この部分については、今でも、共感できるものとしてあると感じる。博物館、美術館で、陳列ケースのなかで、美術品として鑑賞するのではなく、寺院、それも奈良の古寺において、古代の信仰をうけついでいるものとしての仏像に接する。この基本姿勢は、今でも、通じるものがある。

ところで、この本も、戦後になって改訂の手が加わっているらしい。そのことは、

碧海寿広.『仏像と日本人-宗教と美の近現代-』(中公新書).中央公論新社.2018
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/07/102499.html

を読んで知った。この本のことについては、改めて書いてみたいと思っている。

追記 2018-08-27
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月27日
『仏像と日本人』碧海寿広
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/27/8950799