『西郷どん』あれこれ「龍馬との約束」2018-08-21

2018-08-21 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年8月19日、第31回「龍馬との約束」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/31/

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月14日
『西郷どん』あれこれ「怪人 岩倉具視」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/14/8941460

今回の見どころは、薩長同盟のゆくえ、というところだろうか。

歴史的考証はともかくとして、このドラマでは、薩長同盟は、薩摩の、それも、西郷の発案にかかるものとして描いてある。これはこれとして歴史の見方である。では、薩長同盟において、坂本龍馬のはたした役割とは何か、ここのところが気になる。

亀山社中、いわば総合貿易商社のようなものなのだが、これをつかって、商いをする、その商いの対象として、長州に武器を売る、という役割のようだ。また、長州の桂小五郎と、西郷吉之助をひきあわせようと尽力する。ある意味では、坂本龍馬は、封建的身分秩序、幕反体制の外側にいるアウトローとして登場している。

だが、一橋慶喜の方も、そう簡単に幕府をつぶすようなことにはしない。徳川の世を担ってきた自負があるという描き方であった。

そのような西郷吉之助……薩長同盟をめぐってうまくいかない……を、陰で支えるのは、やはり、盟友となる大久保一蔵ということになっていた。薩長同盟の意義というよりも、西郷という人物に惚れ込んでの判断であるようである。

ところで、このドラマを見ていて気になることがいくつかある。それは、何故、薩長同盟ということになるのか、という根本の理由である。幕府には日本の統治能力が無いとして、見切りをつけるまではいい。だが、それにかわる次の日本の姿をどう構想するかとなると、ただ、薩長が手を組んで幕府を倒せばいい、ただ、それだけのように見える。

幕府を倒した後にどうするのか、今の時点で、次の時代が見えている登場人物はまだいないようである。これでは、幕府がたおれた後のどさくさまぎれに明治政府ができることになるかのごとくである。

歴史の先を見通していた人物としては、坂本龍馬とか、勝海舟とか、が思い浮かぶところであるが、どうも、このドラマでは、そのような役割は与えられていないようである。これからどのようないきさつで、幕府瓦解の後、明治新政府が樹立されることになるのか、ここをどう描くか気になる。

それから、気になるのは、武士の社会における秩序。一橋慶喜からすれば、西郷は、陪臣になる。直接、公式の場面で話しをするというのはどうなのだろうか。これが、品川の妓楼で話しをするのならわかるのだが。いや、普通の武士の身分秩序なら対等に話し合えない人びとが、交わることのできる場面として、品川の妓楼が設定されていたのではなかったのだろうか。

ともあれ、いよいよ次週、薩長同盟ということになるようである。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-28
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月28日
『西郷どん』あれこれ「薩長同盟」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/28/8951670

日曜劇場『この世界の片隅に』第六話2018-08-22

2018-08-22 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』第六話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v6.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月15日
日曜劇場『この世界の片隅に』第五話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/15/8942116

この回も、原作(漫画)に描いてあることを、かなり忠実になぞって脚本が書いてあった。漫画のドラマ化というよりも、原作(漫画)に描いてあるエピソードを、自在につなげて、場合によってはふくらませて、全体として一つのストーリーに作りあげてある。

なかで印象的なのは、花見のシーンだろう。花見に出かけて、すずは、リンと再会する。一緒に桜の木に登る。すずが茶碗を託した女性(テル)は、亡くなったと聞き、その遺品の口紅をもらう。これは、原作(漫画)でも、かなり丁寧に描いてあるところだが、ドラマでも、情感をこめて描いてあった。

はたして、リンは、周作の過去の女なのであろうか……このあたり、はっきりしないままで終わっていたが、これはこれでいいのだろう。

ただ、花見の弁当が、その当時としては、かなり豪勢な印象があったが、どうなのであろうか。このところがちょっと気になったところである。

空襲、防空壕などのシーンは、ドラマ化すると、ある意味でリアルにしか描けない。見ていて、ステレオタイプな印象があるのだが、これはいたしかたないだろう。このあたり、空襲については、漫画の方が、その恐怖を描くのに適しているように思える。漫画の方が、表現が自在である。

この回のキーワードは、「居場所」である。ドラマの脚本が独自に描いている、現代パートのなかで、「居場所」はどこにでもある、という意味のことが語られていた。語っていた女性は、すずの娘になるのだろうか。

ともあれ、『この世界の片隅に』という作品は、この世界のどこかに、自分の「居場所」がある、そんな確信、あるいは、希望のようなものを感じさせる。すずの人生は、決して幸福とはいえない人生であったのかもしれない。だが、戦時下という状況にあっても、どこかに自分の「居場所」を見つけて、生きている。どんな状況であっても、どこかに自分の「居場所」はあるのだ、というメッセージが、原作(漫画)からも、また、ドラマからも伝わってくるような気がしている。

そして、戦争によって失われるものとしての日常生活のいとおしさ、これがドラマでは情感豊かに表現されていたと見る。さりげない日常生活の細やかな描写が、それを破壊してしまう戦争というもののむごたらしさを、描くことにつながっている。このあたりは、岡田惠和脚本のうまさというべきであろう。

次回は、空襲後のすずの生活になる。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-09-05
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月5日
日曜劇場『この世界の片隅に』第七話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/05/8956540

山茱萸2018-08-23

2018-08-23 當山日出夫(とうやまひでお)

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月16日
ネジバナ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/16/8942883

我が家に一本の山茱萸の木がある。秋になると実が赤くなり、春先には黄色の花をさかせる。今は、まだ夏なので、実は青い。これから秋になって赤くなる。冬の間から、春、さらに夏にかけてと、いろいろと表情を変える木である。地味な木であるかもしれないが、写真に撮りながら観察しているといろいろ興味深い。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)をひいてみる。「山茱萸(さんしゅゆ)」の項目に、

ミズキ科の落葉小高木。朝鮮中部の原産で、日本へは享保年間(一七一六〜三六)に薬用植物として渡来、現在では観賞用に栽植される。

とあり、さらに説明がある。

用例は、大和本草(1709)、和漢三才図会(1712)、重訂本草綱目啓蒙(1847)にある。江戸時代から、用例の確認できる語である。『言海』にもあるよし。

『言海』を見る。

さんしゆゆ 名 山茱萸 イタチハジカミ。樹ノ名、葉ハゐのこづちニ似テ、毛ナク、對生ス、春分ノ頃ニ、一苞、数花ヲ生ズ、黄ニシテ三分許、四瓣ノ長キ蘂アリ、実ノ形、あをきノ如シ、薬用トス。

春先の黄色の花を愛でる記述である。秋になって赤く実の色づくことには言及がない。ここに掲載の写真は、先月のうちに写しておいたもののストックからである。この木の実が、赤く色づいたころにまた、写真におさめてみたいと思っている。

サンシュユ

サンシュユ

サンシュユ

サンシュユ

サンシュユ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-08-29
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月29日
ツユクサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/29/8952346

追記 2019-03-27
山茱萸の花については、
やまもも書斎記 2019年3月27日
山茱萸の花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/27/9051950

『桜の園』チェーホフ2018-08-24

2018-08-24 當山日出夫(とうやまひでお)

桜の園

チェーホフの戯曲を順番に読んでいる。

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月21日
『三人姉妹』チェーホフ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/21/8922202

いわゆるチェーホフの四大戯曲とされる作品のなかでは、これが最後になる。これも、若いころに読んだ記憶はあるのだが、もう今となっては覚えていない。いや、若い時には、チェーホフの戯曲の良さが分からなかったというのが、正直なところである。私の学生のころ、ロシア文学といえば、何よりもドストエフスキーという時代であったように思う。

今、再び、チェーホフを読んで感じることは、これらの作品が書かれた後、革命がおこりソ連が誕生する。そのソ連も崩壊してしまった。一世紀以上の時間をへだてて、ようやく、チェーホフの書こうとしたことが、二一世紀になって、感じ取れる。それは、混沌とした時代を経て後に、なおかつ未来への希望を語るとすれば、どのように語りうるか、ということであると思う。

『桜の園』であるが、この作品は、入り組んでいる。一読しただけではよくわからない。何度か読み返してみて、ようやく作品の輪郭がつかめるかといった感じである。この作品、一見したところ、ドタバタ喜劇のような印象がある。そのような喜劇的な描写を背景にして、零落していく過去の世代、それから、これからの未来に生きようとする世代、いろんな人びとの生き方が、舞台の上で交錯する。

二一世紀の混迷を深めている時代にあってこそ、一九世紀の世紀末に未来への希望を語ったチェーホフの作品が、世界の文学として読まれる時代がやってきたのだと思う。ソ連の崩壊という歴史的事件を経たのち、再度、若いときに読んだロシア文学の作品のいくつか……ドスエフスキーなどをふくめて……時間のゆるす限り読みなおしてみたいと思っている。

『春の戴冠』(一)辻邦生2018-08-25

2018-08-25 當山日出夫(とうやまひでお)

春の戴冠(一)

辻邦生.『春の戴冠』(一)(中公文庫).中央公論新社.2008
http://www.chuko.co.jp/bunko/2008/04/205016.html

辻邦生の主な作品は、高校生のころに読んでいた。『廻廊にて』『夏の砦』『嵯峨野明月記』『安土往還記』『西行花伝』そして『背教者ユリアヌス』も読んだ。

これまでに読んだ(再読であるが)については、書いてきた。

やまもも書斎記 2017年7月8日
『西行花伝』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/08/8616269

やまもも書斎記 2017年7月21日
『安土往還記』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/21/8624553

やまもも書斎記 2018年4月2日
『嵯峨野明月記』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/02/8816997

やまもも書斎記 2018年4月26日
『背教者ユリアヌス』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/26/8833495

『廻廊にて』『夏の砦』は、まだ読んで(再読)していない。この夏休み、時間のとれるときに大部な本を読んでおきたくなって、『春の戴冠』を読むことにした。中公文庫で、四冊、2000ページほどになろうか。

『春の戴冠』は未読であった作品である。高校生のころまで、辻邦生の世界に心酔するように読んでいたのだが、大学生になって、国文学、国語学……それも厳格な文献学的方法に基づく……を学ぶようになってから、辻邦生からは遠ざかってしまっていた。だが、この年になって(還暦をとうにすぎた)、もう国語学、日本語学という分野からは退いて自分の好きな本を読んで時間を使いたいと思うようになって、再度、辻邦生を読みなおしている次第である。

『春の戴冠』は、ヨーロッパのルネッサンスの時代、ボッティチェルリを主人公とした小説であることは知っていた。そして、ボッティチェルリといえば、ビーナスの誕生ぐらいしか作品が思い浮かばない。ほとんど予備知識の無い状態である。

が、これは文学、小説である。余計な予備知識は無くても、読んでみることにする。

第一冊目を読んでの印象は……やはりこれは、辻邦生の美学というか、芸術至上主義というか、他の辻邦生作品にみられた、芸術への讃仰が描かれている。といって、耽美的な芸術至上主義におちいってはいない。あくまでも、冷静、理知的である。きわめて静かな筆致で、芸術への理想が語られる。

読みながら付箋をいくつかつけたのだが、その中の一つを引用してみる。サンドロ(ボッティチェルリ)は、このように語っている。

「〈美〉とは〈悦ばしさ〉を経て〈不死〉へ通じているんだ、ぼくがアルノ河畔の桜草でもなくオルチェルラリの庭園の桜草でもはく〈不変の桜草の姿〉を追い求めていた理由がよくわかったよ。ぼくは時の変化や死や消滅がこわかったんんだ。だから必死で無変化や不死や永遠を求めていたのだ。(中略)だって〈悦ばしさ〉のなかに生きていると、もう死も消滅もこわくなくなるからだ。こういう〈美〉とは、フェデリゴ、永遠の虚無からぼくらを救いだす砦のようなものじゃないだろうか。」(p.176)

このような芸術への確信とでもいうべきものに、共感する人もいるだろうし、しない人もいるかもしれない。ここは、好みの分かれるところでもあろう。このあたりの感覚に共鳴できるかどうか、辻邦生の作品が好きになるかどうかのポイントであろう。

このような芸術への確信とでいいうべき感覚は、若いときか、さもなくば、(今の私のように)年取ってからでないと、共感できないものであるのかもしれないと思う。ともあれ、この作品、ルネッサンス時代のボッティチェルリという人物を通じて、芸術への確信とでもいうべき感覚を描き出すことになるのだろうと思う。

歴史考証の視点をもちこんでおくならば、中世、ヨーロッパにおけるギリシア哲学研究は、イスラム世界を経由して、再度もたらされたものであると認識している。このあたりのことは、井筒俊彦の著作によってであるが。直接、古代のローマ、ギリシアの時代から、ヨーロッパの学芸の世界が連続してあるのではないはずである。このようなことを心の片隅で思ってはみるものの、この小説の語り手である、フェデリゴという人物は、ギリシア古典語を勉強している。プラトンのイデア論などをふまえて、芸術というもの、美というものへについて、その本質を論ずるところがある。昔の大学の教養課程での哲学の講義のことなど、思い出しながら読んでいる。

そして、この第一冊目でただよっているのは、舞台となるフィオレンツァの町と、メディチ家の、繁栄の絶頂と、その陰に忍び寄る没落の気配なのだが、これからどうなるか。時代の栄枯盛衰のなかで、語り手のギリシア古典学者(フェデリゴ)、その友である画家サンドロ、それから、天才少年(レオ)の運命はどうなるのであろうか。また、〈仮面〉。これは何を意味しているのだろうか。人は〈仮面〉をつけることによってどう変わるのか、変わりうるのか、これも今後の伏線となるのであろうか。

次の第二冊目を読むことにしょう。

追記 2018-08-30
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月30日
『春の戴冠』(二)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/30/8952973

『半分、青い。』あれこれ「生きたい!」2018-08-26

2018-08-26 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第21週「生きたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_21.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月19日
『半分、青い。』あれこれ「始めたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/19/8945341

和子さんが死んでしまった。この週は、和子さんの週であったといってもよい。今週のポイントは、次の二点かと思う。

第一に、和子さんの病気と死。

余命いくばくもないという状態の和子さん。それを気遣う周囲の人びと。鈴愛も、鈴愛なりの立場で和子さんのことを思っている。その一つが、岐阜犬の声。岐阜犬の声を和子さんに頼むということは、鈴愛なりの和子さんへの思いなのであろう。

先週、仙吉さんが死んだのとは、また違った感じで、和子さんの死がじっくりと描いてあった。一週間をほとんど使ったといってもよい。〈死〉というよりも、〈死〉を目前にした、和子さんをめぐる周囲の人びとの心遣いを、丁寧に描いていたと見るべきである。

特に最後に近いところで、岐阜犬の向こうにいる和子さんと律の対話のシーンがよかった。面と向かって話すのではなく、岐阜犬を介しての間接的な会話であったが、それがよりいっそう、律の和子さんへの愛情を表現することになっていた。

第二に、鈴愛と律の関係。

和子さんが病気ということで、律は名古屋勤務ということになっていた。その律も、和子さんが死んでしまえば、大阪にもどることになる。再び、鈴愛と律は分かれることになる。

この鈴愛と律との関係は、何なのであろうか。ただの友達でもない。それ以上の何かのようである。だが、律は結婚して子どももいる。鈴愛も、離婚はしているが、カンちゃんがいる。それでも、昔からの幼なじみの関係は、続いている。

ところで、自らの死を感じた和子さんが、律の母子手帳、育児日記などを、託したのは、律の妻のより子ではなく、鈴愛の方にだった。和子さんにとっても、鈴愛は、律の特別の何かなのである。

以上の二点、和子さんの死と、律と鈴愛の関係、これをたくみにじっくりと描いた週であったと思う。

ただ、このドラマは、時代背景ということをあまり描かない。バブル崩壊後の時代、地方の商店街はシャッター通り化していてもおかしくない。ふくろう商店街は、大丈夫なのであろうか。また、写真館という仕事も無事に続けることができていたのだろうか。

次週、物語は大きく展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-09-02
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月2日
『半分、青い。』あれこれ「何とかしたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/02/8954703

『仏像と日本人』碧海寿広2018-08-27

2018-08-27 當山日出夫(とうやまひでお)

仏像と日本人

碧海寿広.『仏像と日本人-宗教と美の近現代-』(中公新書).中央公論新社.2018
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/07/102499.html

和辻哲郎の『初版 古寺巡礼』を読んで、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』を読んだ。

やまもも書斎記 2018年8月18日
『初版 古寺巡礼』和辻哲郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/18/8944613

やまもも書斎記 2018年8月20日
『大和古寺風物誌』亀井勝一郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/20/8946045

これらの本を読んだときに、ちょうどタイミングよく刊行になった本なので、これも読んでみることにした。

読んだ印象を一言で言えば……近現代における仏像鑑賞の歴史としてよくまとまっている、ということだろうか。明治のころ、フェノロサあたりのことからはじまり、国立の博物館の設立の経緯などを経て、和辻哲郎、亀井勝一郎、などに説き及ぶ。そして、仏像写真の代表として、土門拳、入江泰吉について書いてある。戦後では、白州正子が登場する。そして、最後は、いとうせいこう・みうらじゅんの『見仏記』についてふれてある(この本については、私は未読である。)それから、京都の古都税をめぐる一件についても、言及がある。

結局のところ、仏像は信仰の対象である、だが、その一方で、仏像の美を理解するということが、近代になってからの「教養」となってきた。少なくとも仏教美術史の概略は、教養の一科目として意識されるようになってきた歴史、このようにとらえていいのではないだろうか。

やや不満に感じたところを記すならば、和辻哲郎の『古寺巡礼』が、どのように読まれ、また、改訂されてきたかについて言及があってもよかったように思う。この本では、すこしだが亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』も、改訂の手が加わっていることが記されている。しかし、現行の新潮文庫版では、そのことがわからない。

これらの代表的な書物については、作者がどのような意図で書き、また、戦後になって改訂の手を加えていったものなのか、興味のあるところである。

現代、我々は、仏像を〈美〉の対象として見る感覚のなかにいる。教養である。だが、その一方で、〈信仰〉の対象でもある。このあたりの事情は、近年の博物館の仏像の展示方法の変化に見て取ることができるかもしれない。この本では、書かれていないことだが、東京国立博物館の仏像の展示など、近年になって大きく変わってきている。単なる〈美術品〉としてだけではなく、〈信仰〉の対象であるという側面に配慮するようになってきていると感じる。

和辻哲郎も亀井勝一郎も、歴史の中で仕事を残した人たちなのである。この歴史に今一歩踏み込んでもよかったのではないか。また、個人的な思いとしてであるが、土門拳と入江泰吉の写真には、微妙な違い……仏像をどのようなものとして見ているか……あるように感じているのだが、近代における仏像写真の歴史もまた興味深いところである。

この本では触れられていないが、さらに現代では、仏像の3Dデジタル画像、CTスキャンなど、最先端の技術をつかって、その姿にせまろうとする動きもある。文化財とデジタル技術の関係の今後を考えるうえでも、いろいろ考えるところがある。

ともあれ、今日の我々の仏像に対する見方というものも、歴史的な経緯があって形成されてきたものであるということを、再確認する意味では、この本は有益な内容になっていると感じる。このような歴史的経緯をわかったうえで、では、どのような態度で仏像に接することになるのか、いろいろ考えることになる。

『西郷どん』あれこれ「薩長同盟」2018-08-28

2018-08-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年8月26日、第32回「薩長同盟」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/32/

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月21日
『西郷どん』あれこれ「龍馬との約束」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/21/8946777

今回は、薩長同盟が成立する一件。

まず、よくわからないのが、なぜ、薩摩と長州がいがみあっているのだろうか、というそもそもの原因。まあ、禁門の変のことはでてきていたのだが、長州がなぜ、幕府と敵対することになったのか、なぜ長州征伐ということになったのか、このあたりの経緯が、描かれていないように感じる。(まあ、これは、私の歴史への予備知識が無いといえば、それまでなのであるが。)

一方、薩摩も、また幕府と敵対する立場をとる。これは、徳川の治世に見切りを付けたというところであろう。

ともあれ、薩長同盟ということにはなったのだが、何故、薩摩と長州がいがみあってきたのか、そして、なぜ、薩長同盟ということになったのか……このあたりのことが、今ひとつ具体的によくわからない展開であった。歴史の結果として、薩長同盟が倒幕への重要な局面であることは分かるのだが。

薩長同盟のところで興味深かったのは、西郷の台詞……薩摩とか長州とか言っている場合ではない、日本というものを考えるときである、異国からの侵略に対してどうして日本を守るか考えねばならない、と……このような意味のことを言っていた。確かに、徳川幕府に政権担当能力は無いという判断であるのかもしれないが、では、その徳川の世にかわって、どのような政治形態を作っていこうとしているのか、このあたりも曖昧である。

西郷の日本への思い……それをナショナリズムと言ってもいいかもしれないが……は、分かるのだが、なら、どのような日本の将来の姿をイメージしていたのか、はっきりしない。ただ、そのナショナリズムを描くところで、薩摩と長州の留学生のことを題材に出してきたあたりは、幕末ドラマとして、新機軸というべきだろうか。

薩長同盟の次のポイントは、おそらく、官軍として錦の御旗を得るにいたるところかと思う。そして、江戸城の無血開城、幕府の瓦解、戊辰戦争、といった流れになるのだろう。幕府を倒すという意思は伝わってくるのだが、その後、どうするのかがはっきりしない……ということで、明治維新をこのドラマは、どのように描くつもりなのであろうか。

このドラマ、西郷の純朴なナショナリストとしての側面をつよく打ち出す方針のようである。また、怜悧に時勢を判断しつつも、西郷の盟友として動くことになる大久保。この二人、それから、桂小五郎が、倒幕から明治維新という流れの中でどのように働いていくことになるのか、見ていきたいと思っている。

追記 2018-09-04
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月4日
『西郷どん』あれこれ「糸の誓い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/04/8955923

ツユクサ2018-08-29

2018-08-29 當山日出夫(とうやまひでお)

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月23日
山茱萸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948047

この夏、残暑も厳しい。ちょっと外にカメラを持って散歩に行こうという気分にならない。今日の写真も、以前に写しておいたものからである。

ツユクサである。我が家の近辺のところどころに花を咲かせる。一月ほど前、暑い日の、まだ、それほど日中の暑さにならないうちにと思って、朝のうちに撮影したものである。ツユクサの写真を撮るなら、どうしても午前中になる。それでも、これだけの写真を撮るので、汗がとまらなくなったものである。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見てみる。

ツユクサ科の一年草。各地のやや湿った路傍や小川の縁に群がって生える。

とあり、さらに説明がある。用例は、宇津保物語(970~999頃)、枕草子(10C終)、山家集(12C後)、から見える。平安の昔からあることばである。古辞書には、下学集など中世のものから掲載がある。『言海』にもある。

『言海』を見てみる。

「名 善ク露ヲタモテバイフ 原野ニ多シ、莖、幹、地ニ布(シ)キ、節毎ニ、葉ヲ互生ス、形、竹ノ葉ニ似テ厚シ、夏、枝梢ノ間毎ニ花ヲ生ジ、朝ニ開キ、午前ニ萎ム、深碧色ニシテ二瓣ナリ、形ニ因テ、帽子花、螢草、ノ名アリ。古名ヲつきくさトイフ、染料トス。」(以下略)

ツユクサ

ツユクサ

ツユクサ

ツユクサ

ツユクサ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-09-06
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月6日
マンリョウの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/06/8956984

『春の戴冠』(二)辻邦生2018-08-30

2018-08-30 當山日出夫(とうやまひでお)

春の戴冠(二)

辻邦生.『春の戴冠』(二)(中公文庫).中央公論新社.2008 (新潮社.1977)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2008/06/204994.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年8月25日
『春の戴冠』(一)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/25/8949384

この小説の登場人物は、あくまでも辻邦生という作家の作品の中の登場人物なのである。実在した、歴史上の誰か、と思ってはいけないのだろう。『春の戴冠』における、サンドロ(ボッティチェルリ)は、どこかで、『西行花伝』の西行に、『嵯峨野明月記』の本阿弥光悦などに、通じるところがある。いうならば、芸術への賛美者とでもいえようか。

読みながら付箋をつけた箇所を引用してみる。

「そうなのだ、神は地上をかくも愛し給うた。それゆえにこの春の微風を西から君たちに送り給うたのだ。雲も青空も季節もすべて神の愛が地上に形をとった姿なのだ。遠い町々を見給え。あそこに多くの人びとが住んでいる。喜んだり悲しんだりして彼らも日々を送っている。だが、それも神の愛なのだ。」(p.212)

「ぼくが肖像を描くのは、その人を描くんじゃない。その人の外貌を〈眼をそらさずに〉写すんじゃない。そうではなくて、そこに現れている〈神的なもの〉を描いているんだ。そこに語られる長い物語を描いているのだ」(p.302)

「私たちは個々人としては短い人生を蝋燭の火のように燃えつきて過ぎてゆくでしょう。〈神的なもの〉によって呼び出される〈快さ〉は実はこの〈永遠の人間の姿〉が私たち個々人のなかから現れたことを示すのです。ですから〈快さ〉が消えたとしても、それが私たちをこえてつねに生きていることには変わりがないのです」(p.336)

このようなことばは、例えば『嵯峨野明月記』に出てきてもおかしくない。これらの引用にみられるような芸術への永遠の確信とでもいうべきものに、この小説は満ちている。

ところで、この第二冊目で登場するは、ボッティチェルリの『春』という作品。今では、これは、インターネットによって簡単に確認することができる。(この『春の戴冠』の出た当時、私が、大学生のころのことになるが、そのころでは、図書館でしかるべき画集でも閲覧しないと見ることはかなわなかった。芸術作品をとりまく情報環境も、大きく変わったものである。)

そして、この第二冊で、フィオレンツァの町は繁栄の絶頂に達するようである。メディチ家の栄華も頂点に達している。騎馬祭の開催。そこに貴婦人として登場するシモネッタ。彼女の死で、この巻が終わっている。次の第三冊から、小説は後半に入ることになる。メディチ家の隆盛も、陰りがみえてくる予感がある。次を楽しみにして読むことにしよう。

追記 2018-09-07
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月7日
『春の戴冠』(三)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/07/8957339