『うたげと孤心』大岡信2018-09-01

2018-09-01 當山日出夫(とうやまひでお)

うたげと孤心

大岡信.『うたげと孤心』(岩波文庫).岩波書店.2017 (集英社.1978)
https://www.iwanami.co.jp/book/b309286.html

この本、1978年に最初の版が出て、その後、岩波の同時代ライブラリー版などでも出ている。1978年というと、私が、ちょうど慶應の国文の学生であったころになる。その後のこともふくめて、なぜかこの本は未読であった本である。

読んでみての感想めいたものを述べておくならば……まず、この本の内容は、1970年代までの国文学の研究成果を踏まえた内容になっているということはあるだろう。その後の、国文学、日本文学での研究の動向ということはあるにはあるのだろうが、これはこれで、その時点での研究水準を把握した内容になっていると感じる。

そのうえで、読んで思ったこととしては次の二点になるだろうか。

第一には、この本の主題……〈うたげ〉と〈孤心〉であるが……これは、折口信夫の言っていることに近い。これは、たまたま私が、慶應の国文というところで、折口信夫の影響の強い環境で勉強したせいもあってのことかもしれない。その点を割り引いて考えるとしても、この本で、大岡信の語っていることは、基本的に、折口信夫が述べていることだと感じるのである。

第二には、(これはこの本そのものということではないのだが)、文庫本の解題を書いているのは、三浦雅士である。その解題につぎのようにあるのが、目についた。

「しかし、芭蕉と道元を引き比べた論はほとんどないと私は思う。」(p.386)

唐木順三がいるのではないだろうかと思った。その『日本人の心の歴史』『無常』『無用者の系譜』などの一連の著作では、道元に触れ、また、芭蕉にも言及してある。

やまもも書斎記 2017年8月7日
『日本人の心の歴史』唐木順三
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/07/8641546

ただ、唐木順三のことを知らなかっただけなのか、あるいは、もう唐木順三は忘れられてしまった人になってしまっているのか。

以上の二点が、岩波文庫版の『うたげと孤心』を読んで感じるところである。

読みながら付箋をつけた箇所を一箇所だけ引用しておくと、

(古今集の恋の歌にふれて)「驚くに足ることのひとつは、これだけの量の歌を収めながら、ここにはおよそ恋の歓喜を歌いあげた歌が見当たらないことである。」(p.97)

何が書かれているか、何が歌に詠まれているかは、読みさえすればわかることである。だが、何が書かれていないか、歌に詠まれていないかということに気づくことは、きわめて貴重な発見である。今日の、和歌研究の分野で、この大岡信の指摘が、どのように考えられているのか、その分野にうとい私にはわからない。

ところで、この本を読んでみて思うことは……近年では、日本の古典文学を現代の視点から評論して論じるという人が少なくなった、という思いである。かつては、唐木順三とか、山本健吉とか、古典文学を、現代の視点から読み解いて、解説する書き手がいたものである。このような人が、いなくなってしまっている。いや、いるにはいるのかもしれないが、存在感のあるものとして、私の読書の範囲に入ってこないのである。

この意味では、笠間書院が近年出した、「日本歌人選」のシリーズは貴重なものといえるかもしれない。

笠間書院 日本歌人選
http://kasamashoin.jp/2011/02/post_1689.html

『半分、青い。』あれこれ「何とかしたい!」2018-09-02

2018-09-02 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第22週「何とかしたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_22.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月26日
『半分、青い。』あれこれ「生きたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/26/8950069

このドラマもあと一ヶ月ほどとなった。終盤にむけて、どのような展開にになるのだろうか、と思ってみていると……どうやら、鈴愛は、一人メーカーを立ち上げるということになりそうだ。これはこれで面白そうなのだが、はたして無事に成功するだろうか。

ところで、鈴愛が、東京に行くきっかけにのそもそもは、娘(カンちゃん)のスケートの夢をかなえるためであったはずだが、それが、東京のオフィス(廃校になった学校の再利用)に行って、グリーングリーングリーンの加藤恵子に刺激されて、どうやら考え方が変わってきたようだ。無論、カンちゃんのスケートのことはあるとしても、それよりも、自分で自立したくなった鈴愛であった。

この自分でメーカーを立ち上げるところが、これからの一ヶ月ほどで、どのような実を結ぶことになるのか、ここが、これからの見どころの中心になるのだろう。

そして、故郷のふくろう町の人びとの様子が、この週もしんみりと描かれていた。和子さんを失った萩尾家の人びと。それから、律とより子の関係。

そのなかにあって、鈴愛と律の関係はいったい何なのであろうか。単なる友達でもない。かといって、恋人でもない(律には妻子があり、鈴愛にも子どもがいる)。幼なじみであったにはちがいないが、この二人の間には、ただそれだけではない、何か、強く相手を意識するところがあるようだ。このドラマ、鈴愛の人生の物語(漫画家をめざし、挫折し、百円ショップで働き、結婚して、これも失敗におわる、そして、次のステップをめざす)であると同時に、律と鈴愛の、二人の揺れ動く関係の物語でもあった。

鈴愛の人生の側には、かならず、律の存在があったといってよい。このドラマに描かれたような、鈴愛と律との関係……幼なじみからの関係……これが、このドラマを魅力的なものにしていたことに気づく。朝ドラの定番である、女性の半生を描く、ここから一歩踏み出したところが、このドラマにあるとしたら、鈴愛と律との関係を描いたところにあると言ってよいだろう。

追記 2018-09-09
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月9日
『半分、青い。』あれこれ「信じたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/09/8958133

『本居宣長』子安宣邦2018-09-03

2018-09-03 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長(子安宣邦)


子安宣邦.『本居宣長』(岩波現代文庫).岩波書店.2001(岩波書店.1992 加筆)
https://www.iwanami.co.jp/book/b255689.html

本居宣長を読みたいと思っている。私ももう還暦をとうにすぎた。これから、新規な本を読むよりも、古典を読んで時間をつかいたい。『源氏』『万葉』を、古典として読んでおきたい、そのように強く感じるようになってきている。

今日、〈古典〉を、国語学、国文学という立場から読むとすると、どうしても、国学の伝統、なかでも、本居宣長という存在を避けてとおることはできない。

今年、明治150年ということで、明治維新関係の本を読んでみようかと思い、『夜明け前』(島崎藤村)を読んだ。それから、『本居宣長』(小林秀雄)、『やちまた』(足立巻一)などを読んでみた。

やまもも書斎記 2018年2月23日
『夜明け前』(第一部)(上)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/23/8792791

やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701

やまもも書斎記 2018年3月19日
『やちまた』足立巻一
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/19/8806507

本居宣長は全集(筑摩版)は持っている。その他、思想大系とか、岩波文庫とか、いくつか本がある。本格的に本居宣長について読む前に、今、出ている本で、本居宣長について、その概要を読んでおきたいと思った。小林秀雄の本は読んだ。次に、読んでみようと手にしたのが、子安宣邦の『本居宣長』である。

何故、私は、本居宣長にひかれるのだろう。その学問の目標としたところ、いにしえの心を明らかにするということ、これについては、現代の立場からは、かなり批判的な眼で見るということになっている。学問の究極の目的については、もはや現代において共感するところはないといってよい。

だが、しかし、本居宣長という人物は魅力的である。その没後の門人であり、幕末から明治にかけて多大な影響があった、平田篤胤については、あまり読もうという気はおこらないでいる。(近年、その再評価の動きがあることは承知しているつもりでいるが。)

今の自分をかえりみて、考えることは次の二点。

第一には、その究極のところに共感できないかもしれないが、しかし、その考えたことは、たどってみたいという魅力がある。それは、いにしえの心であり、もののあわれ、である。

とはいえ、今、『古事記』を読んで、そこにいにしえの心を読みとるような読み方は、できない。現代からは、もっと批判的な読み方をすることになる。だが、その宣長の古事記の「よみ」の文献実証主義とでもいうべきものは、今日においても、継承しうるものである。

また、『源氏』などを読んで、〈もののあわれ〉を感じるように読んでみたい、という気持ちがある。無論、現代では、『源氏』のコーパスの利用というようなことも念頭においてということではあるが。

第二には、上記にもふれたことだが、私の学んできた、国語学における文献実証主義という学問的方法論は、宣長が『古事記』などを読んだ方法と、非常に親和性がよい。だからこそ、近代の国語学、国文学という学問分野が、近世の国学の延長線上に位置し得ているということがある。

文献実証主義という方法論を自覚した上で、では宣長が実際にどのように考えてきたのか、たどってみたいという気がしている。

以上の二点が、今、心にうかぶことである。

『本居宣長』(子安宣邦)は、主に『古事記伝』の方法論について論じた本である。『古事記』には古代の正しい清い心が書かれている。それは『古事記』が、古代の正しい清い心の時代に生まれた本だからである。この同語反復的な価値観のなかに、『古事記伝』という偉大な業績がなりたっている。

この本では、特に近代になってからの文献学的な国語学の成立との関係については、言及がない。しかし、今の私の立場から読解してみるならが、近代的な文献実証主義に耐えるもの、あるいは、その出発点、さらには、その到達点としての、『古事記伝』という仕事をイメージすることになる。

『古事記伝』は、自分の目で読んでおきたい本の一つとしてある。

追記 2018-09-10
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月10日
『本居宣長』相良亨
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/10/8958519

『西郷どん』あれこれ「糸の誓い」2018-09-04

2018-09-04 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年9月2日、第33回「糸の誓い」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/33/

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月28日
『西郷どん』あれこれ「薩長同盟」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/28/8951670

このドラマ、西郷隆盛という人物の、表の仕事(倒幕から明治維新)と同時に、個人としてのプライベートな側面を、きちんと描く方針である。この回は、妻、糸との関係。

見どころは、次の二点だろうか。

第一には、妻、糸との関係。それが、龍馬の妻(お龍)とのからみのなかで、丁寧に描かれていた。表だっての仕事ではないところでの、家庭人というべき側面を見せる西郷ということであろうか。

他の登場人物についても、このドラマは、表の顔と、個人的なプライベートな場面とを、うまくつかいわけているようである。以前の、一橋慶喜の品川の妓楼のシーンも、そのように見ることができようか。無論、坂本龍馬と、その妻、お龍の話しは、幕末ドラマとしては、定番の題材でもある。なお、寺田屋での事件、お龍の入浴のシーンからであったのは、幕末ドラマの約束とでもいうべきであろう。

第二、英国のパークスとの交渉。ここで、西郷は、具体的に薩摩と英国との間の交渉をしたというようには描かれていなかった。ただ、自分を信じてくれ。自分は薩摩を代表しているのであるから、ということであった。まあ、英国人とであっても、腹をわってはなせば話しが通じるということであろうか。

このような交渉術……これまでも、このドラマで描いてきた西郷のイメージである。長州征伐を収拾したした時の交渉もそうであったし、前回の、薩長同盟もそうであった。このような西郷のイメージの積み重ねの延長に、次回以降に出てくるであろう、倒幕から、江戸城無血開城の流れになるのだろう。

以上の二点が、今回の見どころかと思ったところである。

そして、ちょっと気になったのは、ナマコ。はたして、本当に、パークスをもてなす祝宴に出されたのであろうか。それにしても、ナマコをまるのままで料理してということもないだろうにとは、思ったのだが。

この時の英国の通訳をしていたのは、サトウであったかと思う。『遠い崖』を読んでしまおうと思いながら、まだ果たせていない。

次回は、いよいよ倒幕へと動くことになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-09-11
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月11日
『西郷どん』あれこれ「将軍慶喜」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/11/8958883

日曜劇場『この世界の片隅に』第七話2018-09-05

2018-09-05 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』第七話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v7.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月22日
日曜劇場『この世界の片隅に』第六話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/22/8947407

この週のキーワードは、やはり「居場所」ということになるのだろう。

晴美を死なせることになってしまい、自らも右手を負傷したすずは、呉の北條の家で、いったい自分の居場所がどこにあるのだろうかと悩むことになる。広島に帰ろうかとする。しかし、悩みながらも、結局は、周作のいる呉の家が、自分の居場所であると、思うようになる。

この世の不条理に直面したすずは、「歪んでいる」と感じる。このあたり、原作(漫画)でも、丁寧に描かれているところであるが、ドラマでも、この「歪んでいる」と感じているすずの感情を、うまく描いてあったと思う。

そんなすずが、広島に行こうとしていたのが、8月6日であった。

結果的には、すずは広島には行かず、呉にいたので助かった……ということにはなっている。

この回では、どうにかして自分の居場所を探し求めるすずの姿が、情感を込めて描かれていたように思える。また、そのすずを見守る、周囲の人びとの様子が、それぞれにたくみに描写されていた。特に、晴美を亡くした径子、その感情のやり場のなさを、うまく描いていた。

ところで、この週に出てきた、現代の部分。老女(香川京子)は、すずの娘ということでいいのだろうか。現代の目から見て、戦時中のことをどう思い感じることになるのか、このあたり、これからどう描いていくか見ていきたいと思う。

次回は、広島の原爆投下から、玉音放送にかけてのことになるらしい。玉音放送のシーンは、これまで幾多のドラマで描かれてきている。岡田惠和は、NHK『おひさま』でも、描いていたかと思う。すずは、どのような思いで玉音放送を聞くことになるのであろうか、これもどうなるか気になるところである。

追記 2018-09-12
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月12日
日曜劇場『この世界の片隅に』第八話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/12/8959228

マンリョウの花2018-09-06

2018-09-06 當山日出夫(とうやまひでお)

今週は、『この世界の片隅に』が日曜日に放送だったので、花の写真が木曜日になっている。

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月29日
ツユクサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/29/8952346

今日は、マンリョウの花の写真である。これも、以前に撮影しておいたストックからである。九月になったとはいえ、カメラを持って散歩に出て写真を撮るという気にはなれないでいる。

我が家にかなりの数のマンリョウの木がある。そのうちの、いくつかを観察するようにしている。これは、それが花をつけている時期のものである。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見てみる。

ヤブコウジ科の常緑低木。本州の関東以南、四国、九州の山林中に生え、観賞用に庭木、鉢植、切り花などとされる。

とありさらに説明がある。

用例は、物品識名(1809)、日本植物名彙(1884)などにみえるが、表記が漢名「硃砂根」である。これは、誤用であると、日本国語大辞典には説明がある。「万両」の表記が見えるのは、虞美人草(1907)からになる。漱石からということのようだ。

『言海』にもある。

まんりやう 名 萬両 草の名、茎、高サ一尺許、葉ハ百両金(カラタチバナ)ニ似テ短ク、辺ニ尖ラヌ鋸歯アリ、茎ノ端ニ蔟リテ互生スルコト、傘ノ如シ、数百ノ円キ実、葉ノ下ニ垂ル、冬、春、紅熟シテ観ルに堪フ。約メテ、マンリョ。硃砂根。

日本国語大辞典にも、『言海』にも、その花のことについては言及がない。この写した花も、今では、青い実になっている。これから冬になると、赤くなっていく。身近にあって季節の移り変わりを感じさせる植物である。

マンリョウの花

マンリョウの花

マンリョウの花

マンリョウの花

マンリョウの花

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-09-13
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月13日
ムラサキシキブの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/13/8959704

『春の戴冠』(三)辻邦生2018-09-07

2018-09-07 當山日出夫(とうやまひでお)

春の戴冠(三)

辻邦生.『春の戴冠』(三)(中公文庫).中央公論新社.2008 (新潮社.1977)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2008/08/205043.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年8月30日
『春の戴冠』(二)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/30/8952973

中公文庫の三冊目になる。

フィオレンツァの街を舞台にした、メディチ家と、パッツィ家の血みどろの抗争。凄惨な事件を背景にして、ボッティチェルリの代表作『ヴィーナスの誕生』が描かれる。

この三冊目を読みながら思ったことは、この小説は、ギリシア古典学者である「私」を語り手として、サンドロ(ボッティチェルリ)のことを主に描く……が、本当の主題とでもいうべきは、フィオレンツァの街なのではないだろうか。その街の栄光(と、その予感される衰退)が、この作品を読みながら、行間から伝わってくる。

たとえば、次のような箇所。

「どこの都市(まち)にもましてフィオレンツァの家並が美しく、塔や円屋根が家々の屋根と調和を保っているのは、フィオレンツァの人々が夢中になって都市の外観(すがた)を磨き上げようと努めているからだ。花の都(フィオレンツァ)においてだけ、住むことが、同時に美しさの実現となる」(p.215)

このような箇所を読むと、フィオレンツァの街そのものが、この小説の主題であるかのような印象をうける。

読みながら付箋をつけた箇所、かなりあるが、一箇所だけ引用しておく。

(サンドロの語ることとして)「〈神的なもの〉――時の力によっては滅びない〈永遠の姿〉――〈この桜草、あの桜草〉ではなく〈桜草の永遠の原型〉――を見つめ描いてゆくのが、ぼくらの仕事だとすれば、それは、時の中に盛衰する〈この世〉を高貴な不変の姿に高める行為(おこない)によって、新しい〈この世〉に結びつくことになるんだ。〈この世〉を切り棄てながら、別の形で〈この世〉と結びつく――それが画匠(マエストロ)の道だし、炎に焼かれながら新たに鋳直された技芸家(アルチスタ)の道なんだ。」(p.388)

他にいくつか、このような芸術を賛美する文言を、この作品には見いだすことができる。この引用のような芸術館、これこそ、辻邦生的な芸術の世界である。ヨーロッパ中世、ルネッサンスの時代に時代設定してはあるが、ここに見られるのは、まぎれもなく現代の辻邦生の芸術観である。このような芸術観に共感できるかどうかが、この作品を読めるかどうかということになるのだろうと思う。

追記
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月15日
『春の戴冠』(四)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/15/8960535

『送り火』高橋弘希2018-09-08

2018-09-08 當山日出夫(とうやまひでお)

送り火

高橋弘希.『送り火』.文藝春秋.2018
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163908731

第159回の芥川賞の作品である。

芥川賞だからといって本を買って読むことは、これまであまりしてこなかった。「文壇」とはあまり関係のない生活であった。が、ここにきて、芥川賞は買って読んでみようかという気になってきている。

それは、今、文学の世界で……それは「文壇」という狭い世界をふくんで、さらにその外側にひろがる領域をも考えてのことだが……何が、今、文学として読まれることになっているのか、その一端なりとも把握しておきたいと感じるようになったからである。何を文学として読むか、これは、今、自分がどのような時代に生きているかの確認につながることである、そう思うわけである。

『送り火』であるが……このような作品が、芥川賞を取る時代に今のわれわれはいるのか、というのが、読後の率直に感じたことである。そして、強いていうならば、私は、この作品は、評価しない。

何よりも文章が硬い、読んでいってすぐに情景や感情の流れが頭にはいってこない。まあ、「純文学」の文体とはこんなものだといわれればそれまでであるのだろうが。

思ったことなど書けば次の二点になるだろうか。

第一には、中学生の感情が十分に描ききれているとはいいがたいと感じる。親の転勤で、地方……東北……の中学に転校してきた主人公の気持ちに、どうも共感するところがない。描き方が、今ひとつ、説得力が無いという印象である。

都会育ちの転勤の子ども(中学生)と、地元の中学生の、感情の行き違い、また、交流といったものが、もっと心情深く描くことはできなかったのだろうか。描写が表面的にすぎるという印象である。

第二には、最後のクライマックスになる、暴力のシーンが、今一つ、何がどうなっているのかわからない。人物関係と感情の行き違いが、よく理解できないのである。暴力とは何時であっても理不尽なものであると思うのだが、その理不尽さが、よく伝わってこなかった。理不尽を描くためには、その対極に、その理不尽を見つめる冷静な視点があってよいように思うのだが、それが見えなかった。

以上の二点になるだろうか。この作品、世評は高いようなのだが、私は、共感するところがあまりない。

それから、付け加えて言うならば、「方言小説」……舞台は東北……としての魅力に欠ける。都市ではない地方ということで、どうして、東北になるのだろうか。そのあたりの事情が、説得力をもって描けていないと感じる。ただ、地方の代表として、ただ東北が選ばれたというだけのことのようにしか書かれていない。その地方を舞台に選んだ、その確固たる理由のようなものが見えてこなかった。

『半分、青い。』あれこれ「信じたい!」2018-09-09

2018-09-09 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第23週「信じたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_23.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月2日
『半分、青い。』あれこれ「何とかしたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/02/8954703

この週は大きく話しが動いた。

第一に、鈴愛の起業(といっていいだろう)。

月曜日に、五平餅の屋台で登場したときには、これから鈴愛は、五平餅屋になるのかと思ったのだが、そうはならなかった。

どうにかこうにかして、シェアオフィスで、自分なりに独立して起業することになったようだ。だが、その開発する商品が、どれも売れない。今一つヒットする商品を出せないでいる。(個人的には、「ま~あかん袋」などは、かなり面白いと思うのだが、これも売れないようだ。)

そこに現れる、正人と律。この週は、この正人と律、それと、鈴愛の、再会の週でもあった。かなり時間をおいての再会であるが、この三人、微妙にお互いの距離を保ちながら、うまくつきあっているように見える。

第二に、母、晴の病気。まあ、たぶん、この病気は大丈夫なのであろうが……しかし、病気の母を気遣う鈴愛の気持ちが、情感をこめて描かれていたように思う。また、晴と宇太郎の関係も、しみじみとしたものだった。

以上の二点が、この週で印象に残っているところである。

ところで、鈴愛と律との関係は、これかどうなるのであろうか。律の、元の妻、より子は再婚することになったようだ。これで、何の問題もなく、鈴愛と律はつきあっていけるかと思うとそうでもない。律は、鈴愛とは距離をおいておきたいと感じている。小さいころからの幼なじみだからこそ、誰よりも、お互いの気持ちを分かりあえるのかもしれない。だからこそ、お互いに距離をおいておきたくもある。そんな律の気持ちが、最後に表現されていたかと思う。

さて、次週は、鈴愛が新たな商品を開発することになるらしい。このドラマも、残りわずかである。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-09-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月16日
『半分、青い。』あれこれ「風を知りたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/16/8960893

『本居宣長』相良亨2018-09-10

2018-09-08 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長(相良亨)

相良亨.『本居宣長』(講談社学術文庫).講談社.2011 (東京大学出版会.1978)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211536

本居宣長そのものを読むべきなのだが、その周辺を読んでいる。「本居宣長」のタイトルをもつ本である。この本も、タイトルは、『本居宣長』になっている。

やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701

やまもも書斎記 2018年9月3日
『本居宣長』子安宣邦
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/03/8955300

読んでの印象は……これはこれで、ひとつの宣長論になっている、ということ。本書の基軸としてあるのは、〈もののあはれ〉と〈神道論〉である。

一般に、宣長について論じるときの課題となることは、この二つ……〈もののあはれ〉と〈神道論〉である。それに、それに近づくための、実証的な文献学的方法論、となるであろうか。

この本では、宣長の学問的方法論、文献実証主義について触れるとろこはない。そのかわり、若い時の〈もののあはれ〉論が、どのようにして、後年の〈神道論〉につながっていくのか、そのつながりを論じてある。

どちらかといえば、かなり理性的に宣長の思想というものが捉えられている。宣長を絶賛するでもないし、特に否定的な立場にたつわけでもない。その人生の歩み、京都遊学のころから説きおこして、〈もののあはれ〉とは何であるか、そして、それを論じることが、どのようなプロセスで、『古事記伝』に見られる、後年の〈神道論〉につながっていっているのか、順番にテキストを解読する方法で、論じてある。

先に結論を示して、なぜこのように考えることになるのか、という論じ方ではなく、順番にテキストを読んでいくことで、読み解いてあるので、読んでいって、ややまどろしくある。が、読み終わって、なるほど、〈もののあはれ〉を論じること……人間のこころの素直な状態を理想化すると言っていいだろうか……が、〈神道論〉につながっていくことが、よく理解される。

では、そのような思想の形成が、どのような学問的方法論に支えられていたのか……今日の目からは、このところが気になることであるが、この本では、そこのところには踏み込んでいない。あえてふれることを避けているかのごとくである。が、これは、これとして、一つの方針であろう。

読みながら付箋をつけた箇所を一つ引用しておくと、

「後年の彼が強調したところの、ミチなどというものもただ嘗ては道路の意のみであり、道徳、道義、天道、人道、心道、道理などという意味はなかったのだという主張も、すでにこの『石上私淑言』に現れている。道々しきものもなく、「物のあはれ」をしる人々が穏しく生きた世界、それが神代であったのである。」(p.142)

本書に言わんとするところは、ここに端的に示されている。

それから、次のような箇所、

「われわれにとってとって、したがって、問題なのは、宣長における漢意の否定という仕方における「理」の否定である。西洋近代思想の知識を輸入して、それによってこの宣長を批判することは容易であるが、単なる知識ではなく、真にわれわれの内面に、宣長的思想の洗礼あるいはわれわれの内にある宣長的発想の資質をこえて、「理」に対する把握を真に確立しえないかぎり、宣長を軽々に批判することはできないであろう。宣長にとどまることはできないが、超えることは今日においてなお容易なことではない。」(p.216)

宣長の魅力、そして、それを超えることの難しさ……これは、小林秀雄の『本居宣長』に十分に書き尽くされていることだと思う。宣長を考えることは、現代のわれわれの古代研究の方法論、それが、近代的な文献実証主義であるとしても、それを自覚的に再確認していく仕事になるはずである。この意味では、宣長の学問の方法論について、考えてみる必要がある。

残る『本居宣長』は、田中康二(中公新書)、熊野純彦、そして、村岡典嗣、である。

追記 2018-09-14
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月14日
『本居宣長』田中康二
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/14/8960094