日曜劇場『この世界の片隅に』最終話2018-09-19

2018-09-19 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』最終話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v9.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月12日
日曜劇場『この世界の片隅に』第八話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/12/8959228

最終回である。このドラマの最終回の作り方については、いろいろ意見のあるところだろうと思う。特に、「現代」をどう描くか、さまざまな見解があるだろう。

最後に出てくる少女(孤児)のことは、原作(漫画)では、ごくあっさりと、だが、どことなく幻想的に描かれているところである。ここの部分を膨らませて描いたのが、岡田惠和脚本の「現代」のところということになる。

この「現代」の部分をのぞけば、ほぼ原作(漫画)のとおりと言っていいかもしれない。戦後、進駐軍のやってきた街の様子は、ステレオタイプという感じがしないでもないが、ドラマに作るとなると、このようなものなのだろうとは思う。

ところで、前回に書いたことで、訂正がある。原爆投下後のこと。呉の街にたどりついた被災者について、これは、原作にはない部分であると思って書いたのだが、ドラマの進行にあわせて読んでいってみると、原作(漫画)に出てくる。下巻、p.124。

印象的なのは、やはり、広島の原爆ドームを前にしての、すずと周作の会話。原作(漫画)では、次のようなセリフになっている……「周作さん ありがとう この世界の片隅に うちを見つけてくれて ありがとう 周作さん」(下巻、p.140)。

このセリフのなかに、この作品……原作(漫画)も、また、ドラマも……のすべてが凝縮されてあるということになるのだろうと思う。「この世界の片隅に」……自分の居場所がある、それは、呉の北條の家であり、周作の側である。

最終話まで見たところで、全体をふりかえってみて感じるのは、岡田惠和脚本ならではの、日常生活のいとおしさ、というべきものである。このドラマは、原作(漫画)もそうであるが、戦争を、また、原爆を描いている。だからといって、直接的な反戦のメッセージがあるということはない。だが、全体を通じてつたわってくる日常生活のいとおしさというべきものからは、たしかなメッセージがあると感じる。

これは、かつての岡田惠和のNHKの朝ドラ『ちゅらさん』『おひさま』でも感じるところである。これらのドラマでは、沖縄を描き、戦争を描いていた。だが、ことさらに反戦のメッセージがあらわれているというストーリーではない。しかし、見ていると、そこはかとなくではあるが、しかし、確実に、日常生活のいとおしさを通して、普通に生きていることの意味を考えさえ、感じさせるものになっていた。

『この世界の片隅に』においても、同様である。キーワードとなるのは、ごく普通に生きていることであり、日常である。それを、原作(漫画)に、かなり忠実に作りながら、そして、最後の広島の孤児の少女のことを、現代にふくらませて、情感のあるドラマに作ってあった。私としては、このドラマは、きわめて上質なものであったと感じる次第である。

また、テレビドラマと漫画というメディアの表現の違いについて、いろいろ考えるところのある作品でもあった。どちらが優れているということもないのであるが、これまであまり漫画というものを読んでこなかった私としては(漫画にまで読書の範囲をひろげると、際限が無くなってしまう)、今回、各シーンの描き方はもとより、作品全体としてどのように構成してみせることになるのか、いろいろと考えるところがあった『この世界の片隅に』は、映画化されて話題になったとき、本を買って読んでいる。それを、今回、ドラマの進行にあわせて、再読してみた。今回のことをきっかけにして、こうの史代の作品など、さらに手にとってみようかと思っている。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353