『本居宣長』熊野純彦(外篇)2018-09-28

2018-09-28 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長

『本居宣長』というタイトルの本を読んでいる。これまでに読んだものは、次のとおり。

やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701

やまもも書斎記 2018年9月3日
『本居宣長』子安宣邦
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/03/8955300

やまもも書斎記 2018年9月10日
『本居宣長』相良亨
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/10/8958519

やまもも書斎記 2018年9月14日
『本居宣長』田中康二
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/14/8960094

そして、熊野純彦の『本居宣長』である。

熊野純彦.『本居宣長』.作品社.2018
http://www.sakuhinsha.com/philosophy/27051.html

ちょっと高い本であるが、熊野純彦の、それも、最新の本居宣長の本ということで、買って読むことにした。900ページ近い大冊である。「外篇」と「内篇」にわかれている。「外篇」の方は、近代になってからの本居宣長をめぐる言説について。そして、「内篇」で、本居宣長の著作そのものについて、というだいたいの構図になっている。

まずは、前半の「外篇」からである。「近代の宣長像」とある。

読んでみての印象としては、本居宣長研究としては、よく書けている、しかし、どこかもの足りない気がしてならない。それは、本居宣長をめぐる言説としては、主に、政治思想史の面からのとりくみを中心に記述してあるせいである。

近世、江戸時代、一八世紀のころに本居宣長は活躍した。その学問の系譜は、主に、平田篤胤に継承されることになり、近代の国学を経て、今にいたる。そのなかで、大きく、二つの筋道があることになる。

第一は、平田篤胤を経て継承され、発展することになった、皇国思想の淵源としての、本居宣長である。

第二は、その国学研究の文献研究の延長にあるものとしての、近代の、国文学・国語学という研究分野である。

これらのうち、この熊野純彦野の『本居宣長』では、第一の皇国思想の、その政治思想の面に、着目して論じてある。言い換えるならば、第二の、国文学・国語学の基礎をきずいたものとしての、本居宣長の研究の側面には、ほとんどふみこむことがない。

これは、これで一つの方針ではあると思う。しかし、若いころより国語学という分野で勉強してきた私としては、いささかものたりない気がしないではない。近代になってからの国文学・国語学という研究分野の成立と発展に、どのように本居宣長が寄与しているのか、何を継承し、また、何を継承していないのか、このあたりが、どうしても関心が向くことになる。私の立場としては、やはり国語学という勉強の視点から本居宣長を読むことになる。

そうはいっても、例えば、和辻哲郎、津田左右吉などの本居宣長論について、言及してある。これらの著作は、近代の、国文学という学問と無縁ではない。時枝誠記も出てくる。たしかに、近代になってから、日本の文化史、精神史、とでもいうべき分野になにがしかかかわろうとするならば、本居宣長の仕事は、避けて通ることのできないものにちがいない。また、これまでに私が読んだ、『本居宣長』……小林秀雄からはじまって、子安宣邦、相良亨などについても、ふれてある。

だが、正直にいって、「外篇」(前半部)を読んだ限りでは、一つの本居宣長のイメージがわいてこない。それは、やはり、この外篇において、本居宣長そのものではなく、それについての言説の歴史を読み解いていくということになっているせいだろう。いろんな本居宣長のイメージが錯綜して語られることになっているので、今ひとつ、明確な印象が残らなかったというのが、まず感じるところである。

たしかに、近代になってからの本居宣長についての言説を見るだけでも、価値のあることである。日本とは何であるのか、ということを考えようとすると、どうしても、本居宣長ぐらいまではさかのぼって論じる必要がある。この「外篇」の最後のところでは、1968年、大学紛争の時代……当時の研究者にとって、本居宣長を読むということがどういう意味であったのか検証されている。このあたりのことは、興味深い。

政治思想史の面にかたよっているという傾向はあるものの、近代になってからの本居宣長の研究史、受容史とでもいうべきものを、緻密にまとまあげてある本書は、重要な意味があると思う。ただし、この著者(熊野純彦)の意図としては、研究史ということではないようである。むしろ、本居宣長がどう読まれてきたかを通じて、近代の精神史を描きたかったのであろう。

であるならば、なおのこと、近代における本居宣長の読まれ方が、「国学」から「国文学」になり、さらには、現代においては「日本文学」になっているという状況の流れのなかに位置づけるということもあってよかったのではないだろうか。

追記 2018-09-29
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月29日
『本居宣長』熊野純彦(内篇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/29/8966263

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