『西郷どん』あれこれ「将軍慶喜」2018-09-11

2018-09-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年9月9日、第34回「将軍慶喜」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/34/

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月4日
『西郷どん』あれこれ「糸の誓い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/04/8955923

ナショナリスト、西郷の誕生の回、といってよいだろう。この回のみどころは、次の二点。

第一に、幕末の政情。

幕府はフランスに接近する。一方、薩摩はイギリスの助力を得ようとする。このあたりは、学校の日本史の教科書にも書いてあったことだと記憶している。ともあれ、薩摩と幕府の争いが、英仏の代理戦争となりかねない状況であった。

また、倒幕の密勅。これには、岩倉具視がからんでいたようだが。そして、それに対する、幕府の対応策としての、大政奉還。このあたりのことも、幕末史の一般の流れに沿って話しが進行していた。

第二に、上述の幕末の政治状況の中にあっての西郷のナショナリズム。

西郷は、幕府にも、また、慶喜にも、見切りをつける。もはや幕府に日本の統治能力はないと判断する。こうなると、次には、討幕しかない。武力で、幕府を倒す決意をかためる。

その討幕の戦いにおいて、日本のことは日本で決めることである……このような意味のことを西郷は語っていた。英仏の代理戦争に巻き込まれることは、潔しとしない覚悟である。ナショナリストとしての西郷といってよい。

以上の二点が、この回の見どころかと思って見ていた。

ところで、討幕となるのはいいとしても、では、幕府を倒した後に、どのような日本を作ることになるのか、その計画のようなものが、西郷にはあるとは思えない。ただ、幕府を倒すことのみ考えているようだ。討幕後の日本の姿をイメージできていたのは、どうやら、坂本龍馬ぐらい、ということになるのだろうか。

次は、いよいよ、討幕の側が「錦旗」をかかげるところまでいくだろうか。そして、江戸討幕の戦いと、江戸城の開城……これからの一連の動きを、どのように描くことになるのだろうか。また、龍馬の最期のことも気になる。

ナショナリストとしての西郷が、これからの戊辰戦争をどのように戦うことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-09-18
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月18日
『西郷どん』あれこれ「戦の鬼」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/18/8961785

日曜劇場『この世界の片隅に』第八話2018-09-12

2018-09-11 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』第八話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v8.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月5日
日曜劇場『この世界の片隅に』第七話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/05/8956540

この週で、戦争が終わった。

玉音放送のシーン……これまで幾度となくドラマなどで描かれてきたところである。このドラマでも、一般にイメージしている(現代からのものになる)玉音放送のシーンをなぞるものであった。また、これは、ある意味では、原作(漫画)に忠実に描いたところでもある。

ここのあたりのところについては、以前にちょっとだけ考えてみたことがある。

やまもも書斎記 2016年10月13日
NHK朝ドラの戦争の描き方
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/13/8224597

台風のシーン、リンのいた遊郭のあとをたずねるシーンなど、これら、ほぼ原作(漫画)のとおりであった。基本的に、原作(漫画)に沿って描かれている。ただ、幼いころの思い出として、天井裏から忍び込んできた少女が、リンであった(かもしれない)、この部分はドラマでは無かった。

この週で、原作には無い場面としてあったのは、タキ(木野花)の子どものこと。この週の冒頭で登場した、原爆の被災者とおぼしき人物をめぐるエピソード。原爆の被災をどのように描くか、これはいろんな考え方があるのだろうと思う。
追記 2018-09-19
この箇所については、訂正がある。最終話の回を参照。

また、原作(漫画)にあって、ドラマであえて省いた、あるいは、描写を変えた部分もある。「この国から正義が飛び去ってゆく」というところのあたり。下巻、p.94。一コマであるが、原作にあって印象的なのは、太極旗。これが無かった(と思う)。原作(漫画)のこのあたりの描写は、ドラマ化するにおいても、難しい部分であったかと感じる。

ともあれ、戦争が終わって、生き残ってしまったすずの気持ちを、このドラマは、それなりに表現していた。

次回は、いよいよ最終回になる。戦後の広島で、すずがどのように生きることになるのか。また、現代の部分で出てきた女性は、いった誰なのか、明らかになるだろう。

追記 2018-09-19
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月19日
日曜劇場『この世界の片隅に』最終話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/19/8962127

ムラサキシキブの花2018-09-13

2018-09-13 當山日出夫(とうやまひでお)

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月6日
マンリョウの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/06/8956984

今週も木曜日に花の写真。ムラサキシキブの花である。これも、かなり以前に写しておいたもののストックからである。まだ、初夏といっていい間に写した。その後、この夏は暑かったので、散歩に出ることもなく過ぎてしまっていた。先日、久しぶりに歩いてみたら……天気予報で予想最高気温が久々に30℃以下だったので……小さな実がついていのを確認した。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見てみる。

クマツヅラ科の落葉低木。北海道南部、本州、四国、九州の山野に生え、庭木ともする。高さ一・五〜三メートル。

とあり、さらに説明がある。用例は、大和本草批正(1810頃)、日本植物名彙(1884)に見える。植物の名称としては、新しく用いられたものらしい。『言海』には、載っていない。ちなみに、『言海』を見ると、植物名として「ムラサキ」はある。また、人名での「紫式部」も不掲載である。

この花、写真に撮るのに苦労する。小さい花が、あちらこちらの方向に向いて咲くので、どこにピントを合わせればいいかなやんでしまう。この花を写すためだけに、何度か足を運んだものである。

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月20日
桔梗
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/20/8962495

『本居宣長』田中康二2018-09-14

2018-09-14 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長

田中康二.『本居宣長-文学と思想の巨人-』(中公新書).中央公論新社.2014
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/07/102276.html

やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701

やまもも書斎記 2018年9月3日
『本居宣長』子安宣邦
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/03/8955300

やまもも書斎記 2018年9月10日
『本居宣長』相良亨
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/10/8958519

『本居宣長』のタイトルの本を順次読んでいっている。この本も、『本居宣長』である。中公新書で、比較的最近に出た本。

著者は、近世文学の研究者であるので、非常に整理された形で、本居宣長の人生と仕事がまとめてある。

各章は、基本的に次のように整理して書いてある。

二十歳代 学問の出発
三十歳代 人生の転機
四十歳代 自省の歳月
五十歳代 論争の季節
六十歳代 学問の完成
七十歳代 鈴屋の行方

この本も、若い時の京都遊学の時期からはじめて、年代をおって、その時々の宣長の仕事を手際よく紹介してある。

この本を読んで感じたことを、書き留めておくならば、次の二点になる。

第一には、宣長の文献実証主義の方法論、これを、京都遊学の時に接した契沖の学問に由来するものであるとしている。これは、確かにそのとおりなのであろうが、ただ、これが、後年の『古事記伝』の仕事の基礎として、その学問的方法論にどう結びついているのか、ここのところについては、あまり踏み込んで記述されていない。

現在、宣長の仕事を振り返ったとき、神道論には共感するところがあまりないかもしれないが、しかし、『古事記』を読んでいった文献実証主義の方法論は、確実に現代の学問に受けつがれている。テクストを読んで、何を明らかにしたいかという究極の目標となるものと、そのための方法論は、密接に関係していると思うのだが、この本では、ここは、きれいに切り離して論じてある。

第二には、「もののあはれ」の論について、この本では、「もののあはれ」ではなく、「もののあはれ」を「しる」ということの意味について触れてある。ここのところの指摘は重要であると思う。

「宣長は「物のあはれを知る」ことをめぐって、感動という心の情的側面だけでなく、理解という心の知的側面を明確に指摘した。この学説を「物のあはれ」論ではなく、「物のあはれを知る」説と呼ばなければならない理由がここにある。」(p.91)

以上、二つの点が、この本を読んで思ったところである。

さらに付け加えるならば、宣長は真淵に師事したことは言うまでもないが、歌については、『万葉』風の歌を詠むことはなく、真淵とすれちがいに終わってしまっていることなど、興味深い。宣長にとって『万葉』の歌は、どのような意味をもっていたのであろうか……『古事記伝』において資料として使うのではなく、歌集として読んでどう思っていたのか……ここのところが、この本を読んでの気になるところである。

『春の戴冠』(四)辻邦生2018-09-15

2018-09-15 當山日出夫(とうやまひでお)

春の戴冠(四)

辻邦生.『春の戴冠』(中公文庫).中央公論新社.2008 (新潮社.1977)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2008/10/205063.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年9月7日
『春の戴冠』(三)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/07/8957339

この作品、三までは、いわば普通に辻邦生の作品を読むという感じであった。芸術への賛美が、サンドロを通して語られていた。だが、この文庫本で四冊目になると、がらりと変わる。もうほとんど、サンドロ(ボッティチェルリ)は、登場しない。ここに来て作者(辻邦生)が描きたかったのは、「歴史」ではないだろうか、そういう気がしてくる。

舞台はイタリアのフィオレンツァである。この街の栄枯盛衰が、古典学者である「私」の目を通して語られる。

終わりの方で、サンドロは、次のように語る。

「そしていつか人間はフィオレンツァで起った出来事のすべて――君やぼくが見聞した出来事のすべて――この花盛りだったフィオレンツァの春のすべて――が、永遠の劇場での出来事だったと思うときがあるかもしれない。『神曲』一巻のなかに人間の運命すべてが描かれているように、ぼくらはフィオレンツァの春に人間の宿命をすべて演技しつくしたのかもしれない」(p.450)

まさに、フィオレンツァという街とそこに生きる人びとの「歴史」の移り変わり、これこそ、この小説の最後で描き出したかったことのように思えてならない。だからこそ、ギリシア古典学者である「私」を語り手として設定してあるのだろう。ただ、サンドロ(ボッティチェルリ)を通して、芸術を描くためなら、語り手は不要でもある。だが、この作品で、「私」のような語り手を用意したというのは、実は、この小説の最後の部分を書きたかったためではないだろかと思われてならない。「歴史」の目撃者としての、ギリシア古典学者である「私」である。

この小説は、最後、「私」の娘のアンナの手紙で終わっている。サンドロの没後のことである。この手紙には、次のようにある。

「私たちが〈地上にいる〉ということだけで、すでに一切が成就している」(p.465)

フィオレンツァの街の興亡も、メディチ家の栄枯盛衰も、「歴史」がすぎさってしまえば、はかないものであるといえるのかもしれない。だが、その中にあって、生の充実ということがあるとするならば、まさにそれこそが、『春の戴冠』という、長大な小説で最終的に描きたかったことであるのだろうと思う。

既に書いたように、辻邦生の主な作品は、高校生のころまでに読んでいた。だが、『春の戴冠』は、私が大学生になってからの刊行である。この作品は、読まずにこれまできていた。去年から、辻邦生の作品を、今、手にはいるものを買って読み返している。初期の作品から、読んだ印象を述べるならば、この『春の戴冠』にきて、辻邦生は、「歴史」というものを描くようになったか、と感慨ぶかく感じるところがある。

その「歴史」は、ある意味で血なまぐさいものであるのかもしれない。しかし、その中にあって、芸術ということ、生きるということの意味を、高らかに歌い上げている作品であると思う。そういえば、最晩年の『西行花伝』も、歴史的背景は、戦乱にあけくれる時代であった。争乱の時代を背景にするからこそ、芸術……『西行花伝』の場合は、歌という文学……の持つ意味がきわだってくる。

やまもも書斎記 2017年7月8日
『西行花伝』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/08/8616269

さて、残る作品としては、初期の作品にかえって『廻廊にて』などになる。これも、順次、読んでいきたい(再読)と思っている。

『半分、青い。』あれこれ「風を知りたい!」2018-09-16

2018-09-16 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第24週「風を知りたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_24.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月9日
『半分、青い。』あれこれ「信じたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/09/8958133

この週の展開のポイントは、次の二点。

第一に、新しい扇風機。

鈴愛、律は、新しい会社……スパロウリズム……をたちあげて、扇風機の開発に乗り出す。まずは、風の計測という作業から。このあたりは、地道な研究開発の手順として、順当に道筋を歩んでいると感じさせる。

扇風機の風を壁にあてると、風が変わる……以前、百円ショップの大納言で店長が言っていたことを、鈴愛は思い出す。これをヒントにして、どうやら新製品の開発になるようだ。

第二に、母の病気。

晴の手術は無事に終わったが、がんの進行が思ったより進んでいたようだ。五年生存率が50%と診断される。それでも、鈴愛と晴は、めげることがない。晴が言っていた……病気になって、世の中が輝いて見えるようになると……このような意味のことを言っていたが、これは、病気を得た人間に、共通することかもしれない。自分の死を意識することで、今の生をより深く自覚するようになる。

以上の二点を軸にして、週の最後に登場していたのが、ボクテと裕子。秋風の元をさった鈴愛たちであるが、友情は変わらない。このドラマも最終に近い。そこで、ボクテと裕子の変わらない友情を描いていた。特に、看護師である裕子との会話には、病気の母がいる鈴愛にとって、はげみになるものであると感じさせるものであった。

ところで、ドラマの時間は、たしか今が2010年のはず。はたして、次の年の2011年3月のことまで描くことになるのだろうか。あるいは、日本という国が、一種の破局を迎えることになる、その手前のところで、終わることになるのか。

そろそろ最終である。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-09-23
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月23日
『半分、青い』あれこれ「君といたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/23/8963839

『ファーストラヴ』島本理生2018-09-17

2018-09-17 當山日出夫(とうやまひでお)

ファーストラヴ

島本理生.『ファーストラヴ』.文藝春秋.2018
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163908410

今年、第159回の直木賞作品である。買って読んでみることにした。

この小説は、二つの物語が絡んで進行する。二つの家族の物語である。

第一に、主人公「私」(真壁由紀)を中心とする物語。臨床心理士である。ある刑事事件の「犯人」について、取材することになる。その「私」を軸にした、家族の物語。その夫とのなれそめ。また、その義弟との関係。ここには、複雑に屈折した女性の心理がある。

第二に、「犯人」である聖山環菜をめぐる事件の謎。何故、彼女は、父を刺したのか。取り調べで、彼女はこういう……「動機はそちらで見つけてください」、と。その謎をとくために、「私」は調査を開始する。その結果得られたものは、画家を父にもつ環菜という女性の生いたちからの謎であった。

このような二つの物語が絡まって、小説は語られる。

そして、最後に明らかになる結末……これが、以外とあっけない(私には)。たぶん、ここが、「理由はそちらで見つけてください」に対応するものであったならば……おそらく、直木賞にはなっていなかったであろう。(むしろ、芥川賞になっていたかもしれない。)

とはいえ、この作品、若い女性の心理描写が巧みである。夫と義弟との間で揺れ動く「私」の心のうちが、ふかく印象的に描写されていく。また、犯人が犯行におよんだ動機の解明も、その心のうちに入り込んでいくことになる。この心理描写の巧さが、受賞につながっているのだと思う。

ただ、私の好みをいえば、最後に明らかになる犯行の動機、これは、不明のままでもよかったのではないかと感じる。ここを謎のまま残すという書き方もできたであろう。だが、臨床心理士を主人公にしたこの作品では、そこに解答をあたえることになっている。

これはこれで小説の書き方、作り方であるとは思うが、人間の心、また、犯罪というものを文学的に描くとなった場合、何か物足りない気分が残ってしまう。

ともあれ、この作品、直木賞という賞にふさわしい作品にしあがっているとは思う。

『西郷どん』あれこれ「戦の鬼」2018-09-18

2018-09-18 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年9月16日、第35回「戦の鬼」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/35/

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月11日
『西郷どん』あれこれ「将軍慶喜」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/11/8958883

いよいよ討幕である。が、ここにきてドラマの進行は、歴史のエピソードをナレーションでつなぐような感じになってきた。

その一つが、龍馬暗殺の一件。これまで、いくどとなく大河ドラマでは坂本龍馬、その暗殺のシーンは描かれてきている。今回の龍馬暗殺の場面も、毎回おなじみの状況で、という感じだった。そして、今回も、その犯人は誰か明らかにならないままで終わっていた。

また、この回から西郷は、人格が変わってしまったかのごとくである。その理由がいまひとつはっきりしないのが、もどかしい。たしかに、将軍慶喜への思いはあるのだろうが、どうして、ここまで西郷が、反幕府の立場になるのか、なぜ、執拗に慶喜の打倒を決意することになるのか、そころのところの理由が描ききれていなかったように思う。西郷は、討幕のためなら、陰謀、謀略も辞さない覚悟である。以前の西郷であれば、今回出てきたような謀略ではなく、正々堂々と正面からぶつかって決着をつけていたかと思われる。

今回の一連の動きは、薩摩の討幕の流れから、大政奉還、さらにそれをうけての王政復古にいたる一連の流れであった。その中に、龍馬暗殺の一件も描写されていた。ただ、幕末から明治維新への流れを、場面ごとにナレーションでつないでみせる……これはドラマの作り方からすれば、いたしかたないことなのかもしれない。このあたり、幕末、明治維新の時代のドラマの難しさというべきであろうか。

ただ、今のわれわれは歴史の結果を知っている。討幕は西郷のちからによるものであり、その西郷も、西南戦争で最期をとげる。一方、徳川慶喜は、明治の時代をいきのびることになる。次にくる明治の時代を、誰がどのように構想したことになるのであろうか。もはや、龍馬はいない。西郷は、どのようにして、明治の時代をきづくことになるのであろうか。また、そこに大久保たちはどのように影響することになるのだろうか。

討幕から明治維新への動きを、このドラマはどのように描くことになるのか。次回以降を楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-09-25
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月25日
『西郷どん』あれこれ「慶喜の首」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/25/8964800

日曜劇場『この世界の片隅に』最終話2018-09-19

2018-09-19 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』最終話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v9.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月12日
日曜劇場『この世界の片隅に』第八話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/12/8959228

最終回である。このドラマの最終回の作り方については、いろいろ意見のあるところだろうと思う。特に、「現代」をどう描くか、さまざまな見解があるだろう。

最後に出てくる少女(孤児)のことは、原作(漫画)では、ごくあっさりと、だが、どことなく幻想的に描かれているところである。ここの部分を膨らませて描いたのが、岡田惠和脚本の「現代」のところということになる。

この「現代」の部分をのぞけば、ほぼ原作(漫画)のとおりと言っていいかもしれない。戦後、進駐軍のやってきた街の様子は、ステレオタイプという感じがしないでもないが、ドラマに作るとなると、このようなものなのだろうとは思う。

ところで、前回に書いたことで、訂正がある。原爆投下後のこと。呉の街にたどりついた被災者について、これは、原作にはない部分であると思って書いたのだが、ドラマの進行にあわせて読んでいってみると、原作(漫画)に出てくる。下巻、p.124。

印象的なのは、やはり、広島の原爆ドームを前にしての、すずと周作の会話。原作(漫画)では、次のようなセリフになっている……「周作さん ありがとう この世界の片隅に うちを見つけてくれて ありがとう 周作さん」(下巻、p.140)。

このセリフのなかに、この作品……原作(漫画)も、また、ドラマも……のすべてが凝縮されてあるということになるのだろうと思う。「この世界の片隅に」……自分の居場所がある、それは、呉の北條の家であり、周作の側である。

最終話まで見たところで、全体をふりかえってみて感じるのは、岡田惠和脚本ならではの、日常生活のいとおしさ、というべきものである。このドラマは、原作(漫画)もそうであるが、戦争を、また、原爆を描いている。だからといって、直接的な反戦のメッセージがあるということはない。だが、全体を通じてつたわってくる日常生活のいとおしさというべきものからは、たしかなメッセージがあると感じる。

これは、かつての岡田惠和のNHKの朝ドラ『ちゅらさん』『おひさま』でも感じるところである。これらのドラマでは、沖縄を描き、戦争を描いていた。だが、ことさらに反戦のメッセージがあらわれているというストーリーではない。しかし、見ていると、そこはかとなくではあるが、しかし、確実に、日常生活のいとおしさを通して、普通に生きていることの意味を考えさえ、感じさせるものになっていた。

『この世界の片隅に』においても、同様である。キーワードとなるのは、ごく普通に生きていることであり、日常である。それを、原作(漫画)に、かなり忠実に作りながら、そして、最後の広島の孤児の少女のことを、現代にふくらませて、情感のあるドラマに作ってあった。私としては、このドラマは、きわめて上質なものであったと感じる次第である。

また、テレビドラマと漫画というメディアの表現の違いについて、いろいろ考えるところのある作品でもあった。どちらが優れているということもないのであるが、これまであまり漫画というものを読んでこなかった私としては(漫画にまで読書の範囲をひろげると、際限が無くなってしまう)、今回、各シーンの描き方はもとより、作品全体としてどのように構成してみせることになるのか、いろいろと考えるところがあった『この世界の片隅に』は、映画化されて話題になったとき、本を買って読んでいる。それを、今回、ドラマの進行にあわせて、再読してみた。今回のことをきっかけにして、こうの史代の作品など、さらに手にとってみようかと思っている。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353

桔梗2018-09-20

花の写真である。今日は桔梗。先月のうちに写しておいたストックからである。

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月13日
ムラサキシキブの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/13/8959704

我が家で夏に咲く。白い色の桔梗である。今年は去年よりも咲く時期が遅かったのでちょっと心配していたのだが、無事に咲いてくれた。紫色の花を咲かせるのもあるのだが、これは、ほとんど一輪ほど咲いたところで、終わってしまう。白い花の種類は、かなり長い時期、花を咲かせる。この花の時期は、朝起きて、まず、この花を写真に撮っていた。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。

キキョウ科の多年草。山野の日当たりのよい草地に生え、観賞用に栽培もされる。高さ〇・五〜一メートル。

とあり、さらに説明がある。

用例は、古くからある。村上御集(967頃)、源氏物語(1001〜14頃)、さらに、日葡辞書にもあるようだ。

『言海』にもある。

ききやう 名 桔梗 草ノ名、莖圓ク、高サ三五尺、葉ノ形、楕ニシテ、細カキ鋸齒アリ、互生、或ハ、對生ス、秋ノ初メ、莖ノ頭ニ、花ヲ開ク、筒瓣(ツツザキ)、五尖ノ單瓣(ヒトヘ)ニシテ、藍紫色ナリ、根ハ牛蒡ノ如シ。

どうやら、大槻文彦の書いている桔梗は、紫色の種類のもののようである。

桔梗

桔梗

桔梗

桔梗

桔梗

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-09-26
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月26日
雨の日の庭
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/26/8965160