『なぜ古典を勉強するのか』前田雅之2018-09-21

2018-09-17 當山日出夫(とうやまひでお)

なぜ古典を勉強するのか

前田雅之.『なぜ古典を勉強するのか』.文学通信.2018
http://bungaku-report.com/blog/2018/05/post-167.html

いい本だとは思うのだが、どうもタイトルがどうかなという気がする。確かに、なぜ、今日において「古典」を勉強する価値があるのか、その必要があるのか、このような問いかけに、ある程度の答えは示されている。しかし、本書全体を通じては、この問いに正面から答えようとしているものではない。

タイトルの問いに答えようとして書いた本ではなく、著者(前田雅之)の近年に書いたものを集めて編集して一冊に作るときに、たまたまこのタイトルが選ばれたということの事情のようである。

表紙には、「近代を相対化しうる」……このようにあるのだが、このことに異論はない。確かに、「古典」を勉強することによって、「近代」というものを相対的に見る視座をきずくことにつながることは確かである。

だが、この本で述べられていることは、「近代」を相対化するために「古典」を学ぶということよりも、「近代」の学知としての「国文学」を、歴史の中で相対化して見る、このような方向にかたよっているように読める。

著者は、日本において「古典」として読まれてきた文学作品は、『古今』『伊勢』『源氏』それから『和漢朗詠集』であるという。それは、中世からこれらの作品について「注釈」を加えるという仕事が積み重ねられてきていることによる。そして、『万葉集』については、この意味の「古典」ではないとしている。

『万葉集』については、次の本について言及するにとどまっている。

品田悦一.『万葉集の発明-国民国家と文化装置としての古典-』.新曜社.2001
https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0746-3.htm

また、『古事記』が「古典」として読まれることについては、特に本居宣長に触れることもない。

その一方で、明治二三年……憲法発布の翌年……「国文学」という学問の領域が成立したことには、細かな考証がある。帝国大学に「国文学」という学問領域がうまれ、また、その時代は、江戸時代からつづく「国学」系の学問も、並行して、相まって「国文学」になってきた概略を述べる。

ここのところには、我が国における「国文学」の研究史として、興味深いところである。

しかし、その後、現在、「国文学」が「日本文学」になった。(ちなみに、国語学会という学会は、日本語学会に名称を変えている。)このところの現代における学知のあり方の問題には触れるところがない。

総じて、この本が、タイトルのような問いかけを積極的に読者に問いかけるというよりも、「国文学」「日本文学」という学問領域がどのように歴史的背景を持っているのか、そのことへの関心がある場合には、それなりに、考えるヒントを提供してくれる本である。この意味では、このような興味関心をもっている人にとっては、面白く読める本であると思う。

著者(前田雅之)は、最後の「あとがき」(何故かこの部分はとても文字が小さい)で、次のように記している。

「私も古典的公共圏を近代の論理と言葉で語りたいのである。それが古典を理解し、かつ、近代を相対化=批判することになるからである。」(p.334)

このことに私も異存はない。このような大きな目標にむけて、これからの、国文学、日本文学の研究はあるべき、このように言っていいであろう。

『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔2018-09-22

2018-09-22 當山日出夫(とうやまひでお)

台湾生まれ日本語育ち

温又柔.『台湾生まれ 日本語育ち』(白水Uブックス).白水社.2018 (白水社.2015 加筆)
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b373639.html

最初に出た時にかってあった本であるが、白水Uブックス版が出たので、こちらも買って読んでみることにした。前の本が出てからの文章がいくつか、増補してある。

著者は、台湾生まれの「台湾人」であるが、日本で育ったので、「日本語」が母語でもある。その著者のおいたちから、幼いときの思い出、家族のなかでのこと、それから、成長してからのことなど、いろいろ書き綴ったものを、編集したものである。

はっきり言って、この本を読んでいて、もどかしい感じになる。いったいこの著者のアイデンティティーは何なのか、母語は何語なのか、どこの国の人間と思っているのか……そのもどかしさ、それ自体が、いきつもどりつしながら、概ね著者の成長にあわせて、その時々のエピソードを交えながら記してある。国と国籍と言語のことについて、この本においては、だいたい次のようになる……生まれは台湾、国籍は台湾、育ったのは日本、生活しているのは日本、そして、母語とする言語は、日本語・台湾語・中国語、である……このようなところにおちつく。ここに自分が納得しておちつくまでの経緯が、様々なエピソードや、その時々に思ったこと感じていたことを織り交ぜながらつづってある。

結論をきっぱりと言い切るという趣旨の本ではなく、著者のような境遇に育った人間なら、誰しもが直面し、悩むことになるであろう、様々な国家の歴史と言語についての考察をまじえながら、多方面から語ってある。

この本から、読みとるべきことはいくつかあるが、私の場合、次の二点である。

第一には、日本にいて、日本語を使って生活している人びとの、その背景は様々であるということの確認である。単純に、日本=日本語、というわけにはいかない。様々な事情……歴史的な事情、あるいは、現代社会における国際情勢の影響……などによって、日本語を母語とする、日本生まれでなはい人びとがいる。あるいは、逆に、日本生まれであっても、日本語を母語としない人びともいる。その生まれ、育ち、と、帰属する国家、国籍の関係は、実に多様である。また、個人レベルでのアイデンティティーも、簡単に論じることはできない。

第二には、台湾という「国」の言語の複雑さ。台湾は中国語の国の一つであるが、中国語だけではない。かつては、日本語がつかわれていた(日本の統治下にあった時代)。その後、中国語が国語として、使われるようになった。そのなかで、台湾において、古くから使われてきた、台湾語がある。

著者の祖父祖母の世代は、日本語の時代である。父母の世代は、中国語が国語として普及した時代になる。そして、著者は、幼いときに日本にやってきたので、日本語のなかで育つことになった。著者は、日本における台湾人家庭のなかで、日本語・中国語・台湾語の三言語を母語として、育ったことになる。

言語について語るとき、母語、第一言語は何であるか、強引に決めてかかることはできない。

以上の二点が、私がこの本を読んで感じるところである。

私が大学で教えているのは「日本語史」(科目名としては)である。では、日本語という言語と、日本という国の関係はどうなのか、日本=日本人=日本語、という単純な図式では考えられない。(このあたりのことについては、現代の日本語学、国語学の常識的見解といってよいだろう。)

言語と国家の問題については、日本という国家のありかた、日本語の研究のあり方について、きわめて批判的にとらえて論じることが、えてしてある。それは、そのとおりだと思うのだが、これまでの日本語の世界、今の日本語の世界、これからの日本語の世界、これらを、総合して相互に相対化しながらも、自分なりの立場を確立することがもとめられる、と私は考えている。この意味において、この本の著者のような人生が、現実に今の日本であるということは、非常に参考になるところがある。

この本からは、次の箇所を引用しておきたい。

 台湾の「国語」事情に思いを馳せるとき、「国語」という思想を支える「国家」なるものの本質的な脆さを、わたしは感じずにはいられない。台湾で暮らす人々が、ときの政府の方針一つで、「大日本帝国」の「臣民」にも「中華民国」の「国民」にもさせられる……両親の、祖父母の辿った道を考えるとき、わたしはいつもの問いに立ち返る。
 「国」って何?
 「国語」って何?
 ――私の「国語」は日本語だった。しかしわたしは日本の「国民」だったことはない。
(p.176)

結局のところ、言語の問題は、個々人のアイデンティティーについて、相互に尊重するところにしか、これからの解決策はない……当たり前のことのようだが、このことの思いを強くする。

追記 この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月24日
『英語という選択』嶋田珠巳

『半分、青い』あれこれ「君といたい!」2018-09-23

2018-09-23 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第25週「君といたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_25.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月16日
『半分、青い。』あれこれ「風を知りたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/16/8960893

この週も、二つの軸をポイントに展開していた。

第一に、鈴愛と律の関係。

オフィスで、ある朝、鈴愛は律に接近する。しかし、その後、発展することなく過ぎて、もとにもどってしまう。仕事のパートナーという位置である。が、それとも微妙に違う感じでもある。やはり、律は鈴愛にとって、マグマ大使なのであろう。笛をふけば来てくれる、そばにいてくれる存在である。

第二に、そよ風の扇風機の開発。

これは、実際の商品の開発のストーリーがあるので、それを参考にしているようだ。様々に試行錯誤しながら、ようやくそよ風ファンが成功する。

この二つのことがらを軸にしてこの週は展開していた。

それにからんできているのが、津曲のこと。いったんは、扇風機を盗もうとするが、子どもからの電話でわれにかえる。鈴愛たちに協力するということになる。ここでの親子の情愛が細やかに描かれていたと思う。友達なんかいなくてもいい、そのような生き方しか出来ない人間もいる。

そよ風ファンの紹介影像を、鈴愛は、涼次に撮ってもらうことになった。その時、鈴愛は言っていた。涼次には才能がある、だが、自分には、漫画家の才能がなかった、と。このようにきっぱりと、創作・創造にかかわる人間の才能の有無を断定的に語っているのも、北川悦吏子脚本ならではの魅力だと思う。自分自身が、NHKの朝ドラの脚本を書いて、成功させたという自負があってのことと感じる。

で、気になっていることは、そよ風ファンの、特許は取ってあるのだろうか、ということ。まず、特許を取っておかないと、商品化するにあたって投資家からの出資は難しいだろうと思うが、どうだろうか。

この週の最後は、2011年3月11日で終わっていた。このシーンを見て、私などは、かつての朝ドラ『おしん』における関東大震災の時のことを思い出してしまった。

次週でこのドラマも終わりである。東日本大震災のことを、最後の週でどう描くことになるのか、また、最終的に鈴愛と律はどうなるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-09-30
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月30日
『半分、青い。』あれこれ「幸せになりたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/30/8966740

『英語という選択』嶋田珠巳2018-09-24

2018-09-24 當山日出夫

英語という選択

嶋田珠巳.『英語という選択-アイルランドの今-』.岩波書店.2016
https://www.iwanami.co.jp/book/b243721.html

以下の文章は、この本が出たときに買って読んで書いておいたものであるが、なんとなくそのままになってしまっていたものである。『台湾生まれ 日本語育ち』(温又柔)について、書いたので、思い出して取り出してみることにした。言語と国の問題は、様々な立場から、様々に考えることのできる問題である。

やまもも書斎記 2018年9月22日
『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/22/8963402

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アイルランドについての知識としては、私がこれまで読んだ本としては、高橋哲雄のものがある。(かなり以前のことなので、忘れてしまっている……)。

高橋哲雄.『アイルランド歴史紀行』(ちくまライブラリー).筑摩書房.1991
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480051653/

漠然と、イギリスのとなりにある、島……北アイルランドは英国の一部であり、かつて、飢饉にみまわれ、多くの移民が国外に移住していった。(ちなみに、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラの家系もアイルランド系である)。そして、言語としては、英語の国だと思っていた(正直な話し。)

だが、この本を読んで、その認識が誤っていたことを知った。アイルランドは、アイルランド語の国なのである。

この本については、すでにいろんなところで紹介されていると思うので、特に付け加えて記すほどのこともないと思う。イギリスの隣に位置している(かつては植民地)という関係から、英語がメインに使用されるのであるが、母語としてのアイルランド語に、国民国家のアイデンティティをつよくもっていることが、社会言語学のフィールドワークから描き出されている。

この本を読んでの率直な感想を記せば……かなり慎重にことばを選んで記述しているな、ということである。「国語」ということばが時々つかってある。アイルランドという国民国家の母語としての言語という意味においてである。今、一般に、言語研究者は、「国語」の語をもちいることは基本的にない。特に、日本語研究者は、意図的につかわないことが多いと思う。でなければ、それと意識してあえて「国語」という場合もある。

「国語」ということばもそうであるが、言語の問題を考えるときに、日本に事例をさがすような場合、方言と共通語の問題とか、英語の早期教育の問題とかが少しでてくるぐらいである。言語政策、言語交替ということであるならば、日本語として出てくるのは、かつての植民地であった、朝鮮半島や台湾における言語政策のことがある。このことについて、この本は、一切ふれていない。

また近隣諸国をみれば、現在の中国における、少数民族に対する言語政策が問題になるだろう。だが、このようなことには、まったく言及していない。

これは、意図的にであろうと思って読んだ。おそらく、この本を読むような読者のみなさんは、このような世界の歴史における言語の問題については、いろいろ関心があるでしょう。しかし、この本では、そのことに直接言及することはしません。その問題については、この本に書いてことを参照して、自分で考えてみてください……強いていえば、このようなメッセージが強く伝わってくる印象の本であった。一切、そのようなことには言及していないが故に、逆に、つよくその意図が強くなる、そのような記述・構成になっている。

近現代の日本語のあり方を考えるうえで、この本はいろんなヒントをふくんでいると思う。

『西郷どん』あれこれ「慶喜の首」2018-09-25

2018-09-25 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年9月23日、第36回「慶喜の首」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/36/

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月18日
『西郷どん』あれこれ「戦の鬼」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/18/8961785

正直にいえば、ほとんどこの番組を見ることから脱落しそうになっている。見ていてつまらない。だが、なんとか踏みとどまっているというところか。

なぜ、つまらないと感じるのだろう。幕末の歴史であるから、これまでいろんなドラマや小説に描かれてきている。西郷自身も、様々に描かれている。だから、ドラマとして次にどうなるのかは、すでに視聴者には分かっている。先が読めない、ということはない。

その中で、魅力的なドラマにしようとするならば、よほど、登場人物の描写が魅力的であるか、これまでとは違って斬新な視点から歴史を見るか、ということがもとめられよう。そのどちらにも、この『西郷どん』は、成功していないように思えてならない。

西郷吉之助……鈴木亮平……は、頑張っているとは感じるのだが、それが、西郷という人物の魅力につながっているかというと、そうでもない。何としてでも徳川幕府を倒し、慶喜を排除しなければならない、このように西郷は思いつめていることは、とにかく分かるのだが、しかし、何故、そのように思うに至ったのか、そこのところの理由の説明がない。よくわからないのである。説得力をもって描かれているとは感じられない。

また、幕末のドラマを、「官軍」の側から描くということとしては、自ずと、歴史の見方も決まったものになってしまう。だが、主軸はそこにあるとしても、薩長・官軍以外の別の視点をもちこんで、歴史を複眼的に描くことはできなかったものかと思う。

また、ナショナリズムというものをどう描くかということもある。結果的に日本は、欧米の侵略をうけることなく明治維新を迎えることになる。そのときの国際情勢と、日本国内における各立場のおもわく、そのなかにあって、日本のナショナリズムというべき動きをダイナミックに描くことに、どうもつながっていっていない。ただ、慶喜も日本の国の行く末を思っていた、ということが出てきていたのだが。

次週は、いよいよ江戸城無血開城……このドラマの後半の山場を迎えることになる。ともかくどのように、西郷や勝を描くことになるのか、見てみることにしよう。

追記 2018-10-09
この続きは、
やまもも書斎記 2018年10月9日
『西郷どん』あれこれ「江戸無血開城」

雨の日の庭2018-09-26

水曜日なので花の写真の日。今日は、花ではなくて、雨の日の庭の様子。

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月20日
桔梗
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/20/8962495

秋雨のシーズンである。雨の日が多い。降っているときに、無理して外に出ることもないが、雨が止んだときをみはからって、外に出て写真を写してみた。庭の樹木などの水滴がついている。接写で撮ると、肉眼で見るのとは違った様相を見せる。

晴れた日の花の写真ばかりではない、雨の日なりの写真の楽しみであると思っている。

雨

雨

雨

雨

雨

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-10-03
この続きは、
やまもも書斎記 2018年10月3日
彼岸花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/03/8968078

国語語彙史研究会(神戸大学)に行ってきた2018-09-27

2018-09-27 當山日出夫(とうやまひでお)

国語語彙史研究会が、神戸大学であったので行ってきた。9月22日。

我が家からだと、近鉄と阪神が乗り入れているので、比較的簡単に行ける。とはいえ、阪神の御影の駅には快速急行が止まらないので、手前の魚崎の駅でおりて、乗り換えないといけない。ちょっと早めに家を出た。まず、御影の駅ついて、バス停の確認。それから昼食。

この前、神戸大学に行ったのはいつのことだったか。たしか、日本語学会のシンポジウムで発表したとき以来ではないだろうか。もう何年も前のことになる。その時も、たしか、御影の駅の近辺で昼食を済ませてから、バスに乗って行ったのを憶えている。

そのバスは、始発からであるから、座って行けた。目的地の、神大の文学部のあるバス停までに、JRの駅、阪急の駅と、止まっていく。そのたびに乗客が増えて、目的地に着くころには満員になってしまった。でも下りる人も多くいたので、なんとかなった。

しかし、キャンパスについてから、研究会の看板を探したが見当たらない。一緒にバスを降りた知り合いの人と一緒に、キャンパスの案内図を見て、文学部の建物の方向をめざして行った。結局、ちょっと道に迷ったようだが、どうにか文学部の建物にたどりついた。研究会の開始、30分ほどまえについたことになるだろうか。

研究会は、いつものとおり三人の発表。語彙史研究会と言っているが、表記・文字の問題があったり、文法の問題があったり、資料論の発表があったりで、多彩な発表であった。質疑応答も、かなり活発だったと思う。

研究会が終わって、これもいつものように懇親会。これは、キャンパス内の学食を使ってであった。ちょっと人数が少なめかな、という印象。それから、今回は、あまり若い人がいなかったように感じた。

懇親会が終わって、駅まで歩いて下る。バスを待っていても、なかなか来そうにない。

多くの連れの人たちは、阪急に乗ったようだ。(その後、二次会に行ったかもしれないが、わからない。)私は、JRの駅まで歩いて下って、大阪から鶴橋に出て、そこから、近鉄に乗って帰った。

家についたら、10時半ごろになっていた。

翌日は、表記研究会が関西大学である。これは、午前中から行かないといけないので、とにかく寝た。次回は、12月に京都大学とのこと。12月は、漢字学会も京都大学であるので、連続して行くことになるかと思う。

『本居宣長』熊野純彦(外篇)2018-09-28

2018-09-28 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長

『本居宣長』というタイトルの本を読んでいる。これまでに読んだものは、次のとおり。

やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701

やまもも書斎記 2018年9月3日
『本居宣長』子安宣邦
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/03/8955300

やまもも書斎記 2018年9月10日
『本居宣長』相良亨
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/10/8958519

やまもも書斎記 2018年9月14日
『本居宣長』田中康二
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/14/8960094

そして、熊野純彦の『本居宣長』である。

熊野純彦.『本居宣長』.作品社.2018
http://www.sakuhinsha.com/philosophy/27051.html

ちょっと高い本であるが、熊野純彦の、それも、最新の本居宣長の本ということで、買って読むことにした。900ページ近い大冊である。「外篇」と「内篇」にわかれている。「外篇」の方は、近代になってからの本居宣長をめぐる言説について。そして、「内篇」で、本居宣長の著作そのものについて、というだいたいの構図になっている。

まずは、前半の「外篇」からである。「近代の宣長像」とある。

読んでみての印象としては、本居宣長研究としては、よく書けている、しかし、どこかもの足りない気がしてならない。それは、本居宣長をめぐる言説としては、主に、政治思想史の面からのとりくみを中心に記述してあるせいである。

近世、江戸時代、一八世紀のころに本居宣長は活躍した。その学問の系譜は、主に、平田篤胤に継承されることになり、近代の国学を経て、今にいたる。そのなかで、大きく、二つの筋道があることになる。

第一は、平田篤胤を経て継承され、発展することになった、皇国思想の淵源としての、本居宣長である。

第二は、その国学研究の文献研究の延長にあるものとしての、近代の、国文学・国語学という研究分野である。

これらのうち、この熊野純彦野の『本居宣長』では、第一の皇国思想の、その政治思想の面に、着目して論じてある。言い換えるならば、第二の、国文学・国語学の基礎をきずいたものとしての、本居宣長の研究の側面には、ほとんどふみこむことがない。

これは、これで一つの方針ではあると思う。しかし、若いころより国語学という分野で勉強してきた私としては、いささかものたりない気がしないではない。近代になってからの国文学・国語学という研究分野の成立と発展に、どのように本居宣長が寄与しているのか、何を継承し、また、何を継承していないのか、このあたりが、どうしても関心が向くことになる。私の立場としては、やはり国語学という勉強の視点から本居宣長を読むことになる。

そうはいっても、例えば、和辻哲郎、津田左右吉などの本居宣長論について、言及してある。これらの著作は、近代の、国文学という学問と無縁ではない。時枝誠記も出てくる。たしかに、近代になってから、日本の文化史、精神史、とでもいうべき分野になにがしかかかわろうとするならば、本居宣長の仕事は、避けて通ることのできないものにちがいない。また、これまでに私が読んだ、『本居宣長』……小林秀雄からはじまって、子安宣邦、相良亨などについても、ふれてある。

だが、正直にいって、「外篇」(前半部)を読んだ限りでは、一つの本居宣長のイメージがわいてこない。それは、やはり、この外篇において、本居宣長そのものではなく、それについての言説の歴史を読み解いていくということになっているせいだろう。いろんな本居宣長のイメージが錯綜して語られることになっているので、今ひとつ、明確な印象が残らなかったというのが、まず感じるところである。

たしかに、近代になってからの本居宣長についての言説を見るだけでも、価値のあることである。日本とは何であるのか、ということを考えようとすると、どうしても、本居宣長ぐらいまではさかのぼって論じる必要がある。この「外篇」の最後のところでは、1968年、大学紛争の時代……当時の研究者にとって、本居宣長を読むということがどういう意味であったのか検証されている。このあたりのことは、興味深い。

政治思想史の面にかたよっているという傾向はあるものの、近代になってからの本居宣長の研究史、受容史とでもいうべきものを、緻密にまとまあげてある本書は、重要な意味があると思う。ただし、この著者(熊野純彦)の意図としては、研究史ということではないようである。むしろ、本居宣長がどう読まれてきたかを通じて、近代の精神史を描きたかったのであろう。

であるならば、なおのこと、近代における本居宣長の読まれ方が、「国学」から「国文学」になり、さらには、現代においては「日本文学」になっているという状況の流れのなかに位置づけるということもあってよかったのではないだろうか。

追記 2018-09-29
この続きは、
やまもも書斎記 2018年9月29日
『本居宣長』熊野純彦(内篇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/29/8966263

『本居宣長』熊野純彦(内篇)2018-09-29

2018-09-29 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長

熊野純彦.『本居宣長』.作品社.2018
http://www.sakuhinsha.com/philosophy/27051.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年9月22日
『本居宣長』熊野純彦(外篇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/28/8965901

この本の後半、内篇になって、著者(熊野純彦)は、本居宣長の内側へとはいっていく。その著作を読み解きながら、その思考のあとをたどろうとしている。このとき、先行する本居宣長研究も膨大なものになる。この本の巻末には、そのリストが掲載になっている。

もちろん、本居宣長の著作も膨大な量になる。そして、それを論じようとするならば、『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』をはじめとして、古代から中世、あるいは、近世までの和歌の歴史に通暁しておく必要があるだろう。無論、『源氏物語』は必読である。そして、『古事記』と『古事記伝』がある。(おそらく、『古事記伝』を全巻にわたって精読したという仕事をした人は、ほとんどいないと言っていいかもしれない。近年のものとしては、神野志隆光の『本居宣長『古事記伝』を読む』全四巻がある。この本のことについては、追ってふれることにしたいと思っている。)

本居宣長の著作……『石上私淑言』『紫文要領』それから、『古事記伝』などについては、ひととおり知っておく必要がある。『玉かつま』も読むべきである。とにかく、本居宣長を論じるということは、大変な仕事であることは、国語学という学問の片隅で仕事をしてきた人間としては、実感する。

この意味で読んでみて、この本、熊野純彦の『本居宣長』は、そのあつかっているテキスト、資料の範囲についていえば、きちんと読み込んである、そのような印象をうける。

この内篇で、著者(熊野純彦)が描き出している本居宣長のイメージは、非常に平明で理性的である。古代の神道信仰について言及するときでも、本居宣長としては、それなりの理性的判断で、そう信じて、そう語っている、というように理解される。

内篇においても、一般の本居宣長の論をふまえて、まず、「もののあはれ」にふれる。それから、『古事記伝』における古代の信仰世界にはいっていく。ここのながれは、あくまでも、本居宣長の著作に即しながら、また、『源氏物語』などに言及しつつ、きわめて冷静な筆致で、その思想のあとをたどっている。これは、古代の神道においても、同様である。

が、読み進めていくと、最後の方にきて、『古事記伝』から踏み込んで『古事記』を読んでいく、というようになってくる。古代文学としての『古事記』の叙述そのものにふれるところが多くなってくる。ここは、やはり、『古事記伝』を読みながら『古事記』そのものの世界に入り込んでいるということになるのであろう。

きわめて、合理的で(今日の目からみれば、そうではないところもあるかもしれないが)、明晰な、本居宣長のイメージが、この本では展開される。そして、その一方で、文献の解読にのめり込んでいく研究者としての本居宣長の心情にふれるにいたる。ここは、人文学にかかわる研究者として、共感できるものとしての、本居宣長ということになる。たぶん、この『本居宣長』を読んで、今日の読者が感じるものとしては、研究者としての熊野純彦が、本居宣長に共感し、共鳴していく部分においてであろう。そして、それは、きわめて理性的に読めるものとして叙述されている。

だが、最後にきて、研究者の情念とでもいうべき部分にふれることになる。『うひ山ぶみ』の一節を引用したあとで、このようにある。

「この一文から本居の静寂主義しか読みとることのできない読者がいたとすれば、その者はしょせん本居の思考と無縁なままにとどまる。一節をむすぶことばに震撼されることがないのなら、その者はおよそ宣長に典型をみる、学知のいとなみの無償な立ちようとは所縁がないままでありつづけることだろう。」(p.871)

そして、最後、この本は、本尾宣長の遺言でふいに終わっている。小林秀雄の『本居宣長』を意識してのことだと思われる。

追記 2018-10-01
この続きの「本居宣長」は、
やまもも書斎記 2018年10月1日
『本居宣長』芳賀登
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/01/8967240

『半分、青い。』あれこれ「幸せになりたい!」2018-09-30

2018-09-30 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』最終週「幸せになりたい」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_26.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月23日
『半分、青い』あれこれ「君といたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/23/8963839

ともあれ、このドラマも「完」である。

最終週については、いろいろ意見のあるところかと思う。特に、2011年3月の震災の描写は、賛否両論あるだろう。

私の立場としては、強いて、祐子の震災死は描く必要があったとは思えない。そして、描くなら、もうちょっとリアルに描いてもよかったのではないか。

震災があって一ヶ月も立たないうちである。あんなにきれいに家の中が片付いていて、祭壇にまつってあるということが、不自然である。また、海岸の描写が出てきたが、あそこは仙台という設定なのだろうか。とするならば、津波の影響をまったく感じさせない美しい海岸もまた不自然である。それに、まだ、東京から仙台まで交通機関も十分に復旧してはいなかったはず。そう簡単に、気軽に思い立って行って帰ってこれるということもなかったであろう。さらにいえば、携帯電話に残されていた遺言メッセージも、状況を考えると不自然である。

震災における祐子の死ということはあってもよかったかもしれないが、もうちょっと間接的な描写でも、十分にその意図は伝わったと思う。そこを、無理に、仙台まで行って来るというような設定にしてしまったので、どこか破綻した印象になってしまっていた。

このドラマ、もし後、一週間あったならば、このあたりも自然な状況で描くことができ、また、そよ風ファンの開発から商品化の問題……震災後の状況の中で、どのように部品を調達し、製造にいたったのか……さらには、津曲の父と子のことも、律の家庭のことも、娘のカンちゃんのいじめの問題も、それぞれに決着をつけて、最後にもってくることができただろう。

どうもこのドラマ、最初のうちはゆっくりと話しが進んでいたが……秋風羽織のところでのことなど……じっくりと描いていたように思う。それが、100円ショップ、大納言につとめるようになってから、進行が早くなってきているように感じる。

最後まで見て思うこととしては、ドラマとしては、完結を見たことになっているが、NHKの朝ドラとしてはどうだろうか。あまり朝ドラらしくない展開であったと感じるところがある。いや、そのように感じさせる作り方というのが、このドラマの脚本、北川悦吏子の目論んだところであったのかもしれないが。