『本居宣長』芳賀登 ― 2018-10-01
2018-10-01 當山日出夫(とうやまひでお)

かなり以前に出た本の再刊である。これも「本居宣長」のタイトルで刊行されたもの。
なぜ、私が、今になって「本居宣長」を読んでいるかというと……近代になってからの国文学、国語学という研究分野の成立に、本居宣長が深く関与しているということを、確認したいためである。あるいは、逆説的にいえば、今、本居宣長を論じる、その方法論が、まさにかつて本居宣長が、『源氏物語』を読み、『古事記』を読んだ、その方法論によっている、このことの確認でもある。それほどまでに、国文学、国語学、さらには、現代の日本文学、日本語学の研究領域において、本居宣長の影響は及んでいると感じる。
さて、この芳賀登の『本居宣長』であるが、これは、歴史学者が書いた本居宣長の評伝であり、近世における国学という学問の成立過程を論じてある。
付箋をつけた箇所を引用しておく。
「文献学はその意味で幽玄不可思議な神道の存在を前提に考えられたのである。」(p.51)
「ただ今日、宣長学の本質を古道学に求めるか、それとも主情主義文芸に求めるかという形で問題をたてる人がいるが、これは両者がはじめから統一するもののない双曲線として位置づけるものであるだけに、かかる見解をとることはできない。」(p.54)
この本は、上述の引用のように、かなり割り切った考え方で本居宣長の学問をみている。
とはいえ、今日、二一世紀の現代において、本居宣長を論じようとするならば、その神道論と、文献実証主義の方法論と、さらには、「もののあはれ」の文芸論、これらを、総合的にとらえるには、どうすればよいか、ということになる。あるいは、今日の学問において、これらのうち、何を継承していて、何を継承していないか……無論、神道論を継承していないことになるのだが……ここのところにふみこんで考えることが必要になる。少なくとも、国文学、国語学という研究分野のことについて考えて見るならば、このような自覚的反省の視点が必要になってくるだろう。
さらに、本居宣長についての本、そして、本居宣長の書いたものを、読んでいきたいと思っている。
なぜ、私が、今になって「本居宣長」を読んでいるかというと……近代になってからの国文学、国語学という研究分野の成立に、本居宣長が深く関与しているということを、確認したいためである。あるいは、逆説的にいえば、今、本居宣長を論じる、その方法論が、まさにかつて本居宣長が、『源氏物語』を読み、『古事記』を読んだ、その方法論によっている、このことの確認でもある。それほどまでに、国文学、国語学、さらには、現代の日本文学、日本語学の研究領域において、本居宣長の影響は及んでいると感じる。
さて、この芳賀登の『本居宣長』であるが、これは、歴史学者が書いた本居宣長の評伝であり、近世における国学という学問の成立過程を論じてある。
付箋をつけた箇所を引用しておく。
「文献学はその意味で幽玄不可思議な神道の存在を前提に考えられたのである。」(p.51)
「ただ今日、宣長学の本質を古道学に求めるか、それとも主情主義文芸に求めるかという形で問題をたてる人がいるが、これは両者がはじめから統一するもののない双曲線として位置づけるものであるだけに、かかる見解をとることはできない。」(p.54)
この本は、上述の引用のように、かなり割り切った考え方で本居宣長の学問をみている。
とはいえ、今日、二一世紀の現代において、本居宣長を論じようとするならば、その神道論と、文献実証主義の方法論と、さらには、「もののあはれ」の文芸論、これらを、総合的にとらえるには、どうすればよいか、ということになる。あるいは、今日の学問において、これらのうち、何を継承していて、何を継承していないか……無論、神道論を継承していないことになるのだが……ここのところにふみこんで考えることが必要になる。少なくとも、国文学、国語学という研究分野のことについて考えて見るならば、このような自覚的反省の視点が必要になってくるだろう。
さらに、本居宣長についての本、そして、本居宣長の書いたものを、読んでいきたいと思っている。
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