『唐牛伝』佐野眞一 ― 2018-11-16
2018-11-16 當山日出夫(とうやまひでお)

佐野眞一.『唐牛伝-敗者の戦後漂流-』(小学館文庫).小学館.2018 (小学館.2016 加筆)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09406579
文庫版になって、かなり加筆してある。今、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいる(岩波文庫版)。これを読んでいると、他の小説類を読もうという気がおこらなくなる。買ってはある作品はあるのだが、それはあとまわしにする。そして、『失われた時を求めて』を読む合間に、ノンフィクションということで、手にしたものである。
唐牛健太郎、60年安保闘争の時の、全学連委員長である。この作品は、その出自から、北海道大学への進学、60年安保とのかかわり、そして、メインは、その後の彼の人生のゆくすえと、それにまつわる幾多の人びとの足取りである。
私がこの本を読んで感じるところは次の二点。
第一には、60年安保の持つ意味である。安保闘争に参加した側も、また、逆に、岸信介の側にも、それぞれのよってたつところがある。が、それに通底するものして、ナショナリズムがある。アメリカからの、あるいは、ソ連、および、共産党からの、自立……この視点にたって考えてみるならば、双方ともに、ある種のナショナリズムを共有していたというべきかもしれない。
だが、この本では、ここのところこにはあまり踏み込んで記述がない。それよりも、60年安保闘争を戦った人びとのその後の人生をおっている。
第二に、印象的なのは、彼らのその後の人生である。
主人公である唐牛健太郎にしても、その後の人生にかかわりをもった人物としては、田中清玄、田岡一雄、徳田虎雄などがいる。唐牛自身も、様々な職をわたりあるく。居酒屋、オフコンのセールスマン、北海の漁師、などなど。
以上の二点が、印象に残るところである。
唐牛の人生をたどりながら、筆者(佐野眞一)は、60年安保の意味を問いかけている。そして名前の出てくるのは、丸山眞男であり、吉本隆明でもある。(が、ここのところに踏み込んではいないのだが。)
結局は、60年安保の意義について、きちんと歴史的に位置づけることをしてこなかった、そのつけが、現在の政治と政権の無残な状況につながっていく、このように言いたいように感じる。60年安保を起点として、その後の日本の社会、政治を考えようとするとき、唐牛健太郎という人物にいきつくのかもしれない。その後、決して社会の表面に出て活躍しようとはしなかったが、その人生をたどると、おのずと、日本の歩んできた道、そのゆがみのようなものが浮き上がってくる。
さて、次には、西部邁の『六〇年安保』を読んでおこうかと思っている。なお、この文庫版の解説を書いているのは川本三郎。
https://www.shogakukan.co.jp/books/09406579
文庫版になって、かなり加筆してある。今、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいる(岩波文庫版)。これを読んでいると、他の小説類を読もうという気がおこらなくなる。買ってはある作品はあるのだが、それはあとまわしにする。そして、『失われた時を求めて』を読む合間に、ノンフィクションということで、手にしたものである。
唐牛健太郎、60年安保闘争の時の、全学連委員長である。この作品は、その出自から、北海道大学への進学、60年安保とのかかわり、そして、メインは、その後の彼の人生のゆくすえと、それにまつわる幾多の人びとの足取りである。
私がこの本を読んで感じるところは次の二点。
第一には、60年安保の持つ意味である。安保闘争に参加した側も、また、逆に、岸信介の側にも、それぞれのよってたつところがある。が、それに通底するものして、ナショナリズムがある。アメリカからの、あるいは、ソ連、および、共産党からの、自立……この視点にたって考えてみるならば、双方ともに、ある種のナショナリズムを共有していたというべきかもしれない。
だが、この本では、ここのところこにはあまり踏み込んで記述がない。それよりも、60年安保闘争を戦った人びとのその後の人生をおっている。
第二に、印象的なのは、彼らのその後の人生である。
主人公である唐牛健太郎にしても、その後の人生にかかわりをもった人物としては、田中清玄、田岡一雄、徳田虎雄などがいる。唐牛自身も、様々な職をわたりあるく。居酒屋、オフコンのセールスマン、北海の漁師、などなど。
以上の二点が、印象に残るところである。
唐牛の人生をたどりながら、筆者(佐野眞一)は、60年安保の意味を問いかけている。そして名前の出てくるのは、丸山眞男であり、吉本隆明でもある。(が、ここのところに踏み込んではいないのだが。)
結局は、60年安保の意義について、きちんと歴史的に位置づけることをしてこなかった、そのつけが、現在の政治と政権の無残な状況につながっていく、このように言いたいように感じる。60年安保を起点として、その後の日本の社会、政治を考えようとするとき、唐牛健太郎という人物にいきつくのかもしれない。その後、決して社会の表面に出て活躍しようとはしなかったが、その人生をたどると、おのずと、日本の歩んできた道、そのゆがみのようなものが浮き上がってくる。
さて、次には、西部邁の『六〇年安保』を読んでおこうかと思っている。なお、この文庫版の解説を書いているのは川本三郎。
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