『失われた時を求めて』岩波文庫(12)2018-11-29

2018-11-29 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(12)

プルースト.吉川一義(訳).『失われた時を求めて 12』消え去ったアルベルチーヌ(岩波文庫).岩波書店.2018
https://www.iwanami.co.jp/book/b358699.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年11月26日
『失われた時を求めて』岩波文庫(11)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/26/9003391

岩波文庫版で既刊はこの一二巻までである。ようやくここまでたどりついた。

この巻で描こうとしたのは何なのであろうか。アルベルチーヌの失踪、それをめぐっての「私」の様々な思い。恋人の「不在」と「死」とはどのように違うのであろうか。また、それを思う「私」の気持ちの推移。いなくなったアルベチーヌを悲しむ思いが、時がたつにしたがって、「忘却」へと変わってしまう。この心の変化は、何を意味しているのか。

(こんなことはたぶん常識的なことなのであろうが)この小説は、心理小説ではないことに気付く。少なくとも、一九世紀的な自然主義リアリズムにもとづく心理小説とはなっていない。アルベルチーヌに対する「私」の心理は確かに描写されているが、それを記述しているさらに別次元の「私」の存在がある。その別次元の「私」が、アルベルチーヌを失った「私」の心の変化を、詳細に記述し、分析しているのである。

この巻の読みどころとしては、「私」の心の変化の分析にあると、私は読んだのだが、どうであろうか。

そして、それは、やはり、「時間」を必要とする。この、岩波文庫版での一二巻のほとんどをついやして、その記述と分析につかっている。読者は、それを読む「時間」を強いられる、いや、その読書の「時間」の経過とともに、「私」の心の変化を記述する、別次元の「私」の視点に同化していくことになる。

この作品は、あらすじを追うだけの読み方ではなく、それを読む読書の「時間」を読者自身がどのように体験するか、そこのところに眼目がある。読むのに難渋するところがないではないが、しかし、読む「時間」を体験する価値はある。

ところで、この「消え去ったアルベルチーヌ」の巻は、本文校訂にきわめて大きな問題があるらしい。このことについては、「訳者あとがき」でふれられている。私自身の専門領域からしても、この本文校訂の問題は、非常に興味のあるところである。

だが、岩波文庫版として一般の読者に提供される訳本としては、そこに踏み込むことはしていない。『失われた時を求めて』の新しい訳としては、集英社文庫版の鈴木道彦訳がある。これは、岩波文庫とは異なるテキストによっている。タイトルも「逃げ去った女」になっている。光文社古典新訳文庫版は、まだこの巻のところまですすんでいない。

とりあえず、この続きは、集英社文庫版の鈴木道彦訳で読むことにしようかと思う。そして、(できることなら)光文社古典新訳文庫版も、既刊分については読んでおこうかと思う。

追記 2018-12-01
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月1日
『失われた時を求めて』集英社文庫(12)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/01/9005459