『失われた時を求めて』集英社文庫(12)2018-12-01

2018-12-01 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(12)

マルセル・プルースト.鈴木道彦(訳).『失われた時を求めて』(12)見出された時Ⅰ
http://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-761031-4

前回は、
やまもも書斎記 2018年11月29日
『失われた時を求めて』岩波文庫(12)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/29/9004723

『失われた時を求めて』は、岩波文庫では一四巻に編集してあるが、集英社文庫では一三巻につくってある。そのため、この集英社文庫版の一二が、岩波文庫の一二の続きということになる。岩波文庫では、一二までしか出ていないので、続きは集英社文庫の鈴木道彦訳で読むことにした。

この巻を読んで印象に残っているのは、次の二点。

第一に、戦争。

この作品、これまで、ほとんど戦争というものを描かずにきている。『失われた時を求めて』の刊行は、1913年から27にかけてである。第一次世界大戦は、1914年から1918年である。つまり、プルーストは、第一次世界大戦の始まる前にこの作品を書き始め、戦争が終わってから、この作品の終結……プルーストの死は、1922年……ということになる。

これまで、この作品を読んできて、作者は、戦争(第一次世界大戦)のことをどう思っていたのだろうか、ということが常に気になっていた。戦争は、作者に何をもたらし、また、作者は戦争をどう描くことになったのであろうか。

第七編「見出された時」では、その第一次世界大戦のことが描かれている。そのため、作品のなかの時間も、いっきにとんで戦争中のことになる。この前の巻までは、まだ、二〇世紀初頭あたりが時代的背景であった。

「見出された時」のⅠを読んで感じるのは、まさに、『失われた時を求めて』が、戦争文学であるということである。未曾有の世界戦争を、冷静に文学的に見つめている。なかで、私が着目して付箋をつけたのは……プルーストは、戦争を描くとき、ワルキューレをイメージしている。これは、今日の感覚からすれば、この連想は普通のことかもしれない。しかし、第一次世界大戦のさなかにあって、戦争にワルキューレを連想するのは、並大抵の文学的想像力・創造力ではないと感じる。

それから、次のような箇所。

「フランスという今なお生き残る歴史と芸術との混合物は、ことごとく壊されました。」(p.217)

プルーストは、戦争による破壊、文化の喪失を、身をもって体験している。ということは、作者が、これまでの巻で描いてきた、貴族の、ブルジョアの生活というものは、戦争によって喪失することになってしまったものを、懐古的に描いたことになるのかもしれない。一九世紀末のフランスを舞台にした小説を書いているとき、そのフランスは、第一次世界大戦による破壊の最中、また、その後のことになる。

第二には、この巻の後半の部分。

芸術に関する思索が延々とつづく。ここで、作者は、これまで書いてきた小説をふりかえって、それを総括しているかのように思える。

例えば、次のような箇所。

「本当の楽園とは失われた楽園にのほかならないからだ。」(p.373)

「ただひとり、この存在のみが私をして、昔の日々を、失われた時を――それを前にして私の記憶や知性の努力が常に失敗を繰り返してきたこれらのものを――ふたたび見出させる力を持っていたのだ。」(P.375)

「ドレフェース事件であれ、戦争であれ、一つひとつの出来事が作家たちに、正義の勝利を確立したい、国民の精神的な統一を取り戻したい、と考えていて、文学を思う余裕がなかったのだ。けれどもそんなことは言訳にすぎない。」(p.391)

「それゆえ、ただ「物を描写する」だけで満足したり、物の線や面の貧弱なリストを作るだけでよしとするような文学は写実主義(レアリズム)と呼ばれてはいても、現実(レアリテ)から最も遠い文学であり、私たちを何にもまして貧しくし、悲しませる文学である。」(p.402)

このような箇所を読むと、作者が、ここまでの膨大な小説を書いてきた意図は何であったのか、かえりみずにはいられない。『失われた時を求めて』という小説は、まさに失ってしまった「時」、その喪失感に満ちた作品であることが理解される。そして、それは、表面的なリアリズムでは決して表現できないものでもある。

以上の二点が、集英社文庫版の一二を読んで感じるところである。

残りは、いよいよ最後の一三巻(集英社文庫版)ということになる。ここまできたら、最後まで読んでしまおうと思う。

追記 2018-12-03
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月3日
『失われた時を求めて』集英社文庫(13)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/03/9006277

『まんぷく』あれこれ「違うわ、萬平さん」2018-12-02

2018-12-02 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第9週「違うわ、萬平さん」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index09_181126.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年11月25日
『まんぷく』あれこれ「新しい冒険!?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/25/9003012

この週のみどころは、やはり萬平の会社での役割ということになるだろうか。

新しい商品、ダネイホンの開発にむけて萬平はとりくむ。しかし、その過程で、新商品開発の社員と、塩作りの社員の間の反目が生じていることに気付いていない。そのことに福子は気付くのだが、なんともできないでいる。そこに、故・咲の夫の真一が登場する。新しく社員として加わることで、会社の体制も変わる。たぶん、これからは、萬平は発明家として生きていくことになるのだろう。

ダネイホンを病院に売り込むというアイデアは、すぐれていると思う。

……と、順風満帆に行くようにみせておいて、まさかのMPの捜査である。魚をとるのつかった手榴弾のことが発覚したらしい。

この週も、松坂慶子がいい感じであった。会社の仕事にたずさわるのが、好きなような、いやなような、微妙な雰囲気をうまく出していた。

次週、萬平たちはどうなるのだろうか。最終的にインスタントラーメンの発明にいたるまでに、波瀾万丈の人生が続くことになるのだろう。次週以降も楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-12-10
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月10日
『まんぷく』あれこれ「私は武士の娘の娘!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/10/9010418

『失われた時を求めて』集英社文庫(13)2018-12-03

2018-12-03 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(13)

マルセル・プルースト.鈴木道彦(訳).『失われた時を求めて』(13)見出された時Ⅱ
http://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-761032-1

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月1日
『失われた時を求めて』集英社文庫(12)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/01/9005459

ようやく読み終わった。『失われた時を求めて』をふとおもいたって、読み始めた。第一巻(岩波文庫版)について書いたのが、11月1日である。それから、二日か三日に一冊の割合で読んでいって、岩波文庫版の既刊(一二巻)を読み終えて、続きを集英社文庫版で読んだ。集英社文庫版の最終巻(一三巻)を読み終えたのが。11月29日のこと。ほぼ、一ヶ月かかったことになる。この間、学校に教えに出かけるなどの用事があるときをのぞいて、本を読める時間のほとんどを使って読んだ。

途中で、読んだ別の本となると、『唐牛伝』(佐野眞一、小学館文庫)があるが、これは、『失われた時を求めて』を順番に買っていって、たまたま本がとどくのが遅れて、時間がちょっと空いてしまったので、手元に読もうと思って買ってあったのを読んだというような事情になる。

この作品、『失われた時を求めて』は、それを読むのについやす時間があってこそ、はじめてその作品の意味が分かってくると言ってもいいだろう。ただ、ストーリーのあらすじを追っているだけでは、この作品を読んだことにはならない。

最終巻「見出された時」の後半である。

ここでは、ゲルマント大公夫人のところでの仮装パーティーからはじまる。そこで、描かれるのは、「老い」と「死」である。この巻のパーティーには、かつての晩餐会やサロンでの会話のような面白さはない。登場人物は、みな年取って老いている。その「老い」の醜さを、残酷なまでに冷静な筆致で描き出している。

そして、「時」の流れがこの巻のテーマとなる。たとえば、次のような箇所。

「しかしながら、それよりいっそう真実なのは、人生がいろいろな人間や事件のあいだに神秘の糸を張りめぐらせ、その糸を交差させ、それを何重にもよりあわせて太い横糸を作りあげていることで、それゆえ私たちの過去のごく微細な一点も、ほかの点とのあいだに豊かな思い出の網目を持っており、ただそのなかのどれを選んでもコミュニケーションをするか、ということが残されるだけなのだ。」(p.243)

「時」の流れのなかにある、あまたの人間の姿……それを漏らさず描いてきたのが、この小説のこれまでの膨大な叙述ということになる。

そして、最後、

「空間のなかで人間にわりあてられた場所はごく狭いものだが、人間はまた歳月のなかにはまりこんだ巨人族のようなもので、同時にさまざまな時期にふれており、彼らの生きてきたそれらの時期は互いにかけ離れていて、そのあいだに多くの日々が入りこんでいるのだから、人間の占める場所はどこまでも際限なく伸びているのだ――〈時〉のなかに。」(pp.280-281)

「時間」の中における存在として人間……最終的にここのところにたどりつく。

『失われた時を求めて』を頂点として、それ以前の一九世紀までの文学、思想について読んでいくこともできようし、また、これからさらに現代にいたるまでの、二〇世紀の文学、思想をたどることもできよう。ともあれ、この作品を通読することによって、一つの展望を手に入れることができたとは言えるだろう。

『西郷どん』あれこれ「西郷立つ」2018-12-04

2018-12-04 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年12月2日、第45回「西郷立つ」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/45/

前回は、
やまもも書斎記 2018年11月27日
『西郷どん』あれこれ「士族たちの動乱」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/27/9003784

結局、西郷は、何を考えていたのだろうか……そこのところがわからない。しかし、これは、わからないように描いている、そう理解した方がいいだろう。

私学校にもぐりこんだ密偵の件が露見する。そのことによって、ついに私学校の士族たちが暴発することになる。それをひきいて、西郷は東京をめざす。ここで、西郷は、戦争になることを予見していたのだろうか、ここのところも曖昧である。

このあたり、例えば『翔ぶが如く』(司馬遼太郎)においても、結局はわからない、ただ、わかっているのは、その歴史の結果として、西南戦争がおこり、西郷は敗れることになる……あくまでも、結果から見て描いていたように憶えている。

だが、やはり、歴史というものがこのドラマからは見えてこない。歴史上のエピソードの各場面を、ナレーションで繋いで見せている、そのような印象はどうしても残る。とはいえ、出演の役者たちの熱演の雰囲気は伝わってくる。このドラマ、役者の頑張りでなんとかもっているという感じがする。歴史を舞台にしたドラマではある。しかし、歴史というものが見えてこない、そのうらみは残る。

次回、西南戦争になる。さて、このドラマ、西郷の最期は描くとして、大久保の最期まで描くことになるのだろうか。そのあたりが、気になるところでもある。

追記 2018-12-11
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月11日
『西郷どん』あれこれ「西南戦争」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/11/9010741

センリョウ2018-12-05

2018-12-05 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は、センリョウの実である。

前回は、
やまもも書斎記 2018年11月28日
ナンテンの実
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/28/9004160

秋になって、庭のセンリョウの実が色づいてきている。この実、去年は、たしか写真に撮ろうと思った頃には、(鳥が食べてしまったのか)ほとんど見当たらなかったのを憶えている。今年は、おそくまで実をつけているのが観察される。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。

せんりょう「千両」の項目の(4)に、

(「仙蓼」とも)センリョウ科の常緑小低木。本州の伊豆・東海道・近畿地方、四国、九州の湿った山間に生える。

とあり、さらに説明がある。用例は、古いもので、俳諧・増山の井(1663)、和漢三才図会(1712)ぐらいからある。近世になってから用例の見られる語である。

『言海』にもある、

名  實、百兩金ニ勝レバ名トスト云  草ノ名、山林中ニ生ズ、性、日ヲ畏ル、一株ヨリ叢生シテ、莖、高サ二三尺、深靑ニシテ泡節(フクレブシ)アリ、葉ハ對生シテ橘ノ葉ニ似タリ、夏、小白花ヲ開キ、秋冬、紅實、累累トシテ麗シク、南天燭(ナンテン)ノ如ク、又珊瑚珠ニ似タリ。

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

Nikon D7500
AF-S VR Micro-NIKKOR 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2018-12-12
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月12日
紅葉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/12/9011051

日本漢字学会に行ってきた2018-12-06

2018-12-06 當山日出夫(とうやまひでお)

2018年12月1日、2日と、日本漢字学会があったので行ってきた。京都大学。

日本漢字学会
https://jsccc.org/

第1回研究大会
https://jsccc.org/convention/detail/1/

第1日目は、午後からなので、10時前に家を出た。いつものように、近鉄と京阪を乗り継ぐ。ちょっと早めについた。

この学会、今年の春の設立総会、シンポジウムの時も出てみた。その時の印象としては、無事に「学会」という形でなりたつのかどうか、少し不安に思うところがないではなかった。漢字、文字、というものを、学問的に研究する分野はある。しかし、それが、「学会」として自立することができるかどうかは、微妙なところかもしれないと思っていた。

第1回の研究会に参加した限りでは、どうやら無事に「学会」としての体をなして、運営することができそうな印象であった。

ただ、漢字というものを学問的に研究するとなると、その方法論については、まだまだ未開拓な領域であると感じるところがある。無論、これまでの、膨大な漢字研究……その多くは、中国学の分野の一つ、国語学、日本語学の中の分野の一つとして……があることは承知している。だが、それをふまえて、それを継承しつつ、新たに独立した研究分野を「学会」として作っていくことは、また別の問題点、課題がある。

第一には、漢字というのが、ある意味で自明なものである、ということがある。漢字は誰がみても漢字である、という側面がある。そのため、改めて漢字とは何であるかを定義しようとすると、難しい問題がある。

第二には、そのような漢字を研究するとなると、これからは、まさに学際的ないろんな研究分野にまたがった領域として展開せざるをえない。これを漢字ということをキーにしてどうまとめていくか、これも難しいかもしれない。

以上の二点を考えてはみているものの、ともあれ、第1回の研究会は、成功であったといっていいだろう。私の聞いていた発表は、それなりに漢字についてのものであったし、質疑応答もかなり充実していたと感じる。

研究会が終わって、懇親会。予定されていたお店ではなく、神宮丸太町近辺のお店。ここははじめてである。参加者も多かった。

どういうわけだかしらないが……懇親会の終わりの挨拶を急にさせられることになった。

終わって、これはいつものようなメンバー……訓点語学会など国語学、日本語学関係の人たちと一緒に二次会。タクシーで、四条まで。木屋町あたりの適当なお店で、軽く飲みながら、雑談。

家に帰ったら11時ぐらいになっていた。翌日は、午前中からであるので、とにかく風呂だけはいってすぐに寝てしまった。

翌日は、シンポジウムと講演である。(続く)。

追記 2018-12-07
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月7日
日本漢字学会に行ってきた(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/07/9008565

日本漢字学会に行ってきた(その二)2018-12-07

2018-12-07 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月6日
日本漢字学会に行ってきた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/06/9007758

漢字学会の二日目は、会場を変えてシンポジウムと講演。

シンポジウムのタイトルは「電子版漢和辞典のいま―漢和辞典はここまで来た!」であった。

電子化と漢和辞典ということで、角川、学研、三省堂、大修館、この四つの会社の辞書編集部、営業のひとがでてきて話し。

このシンポジウム、私は、黙ってきいていた。私としても、いろいろ言いたいことはあるのだが、それはあえて言わずに、発表者、それから、フロアからの質疑などを聞いていることにした。

印象に残っていることを書けば、漢和辞典の編纂という仕事は絶滅危惧種であるという意味の発言があった。そして、全体の流れとしては、将来になにがしかの展望を見出すとするならば、電子化ということになる。

だが、このような流れのなかで、話題に出なかった、誰も発言しなかったことが、いくつかある。私としては、この話題にならなかったことの方が気になってしかたがない。三点ほど書いておく。

第一には、ユニコードの問題である。漢和辞典の電子化ということと、ユニコード漢字とは、一体のものだと思うのだが、誰も、ユニコードのことについて、発言しなかった。

第二には、漢和辞典の電子化ということで話題になっていたのは、スマホのアプリの開発であった。だが、普通に人が文章を書いているのは、パソコンだろう。であるならば、パソコンのソフト(具体的には、ワープロでありエディタである)との連携ということが、必要になるはず。

現に、私は、ワープロは主に一太郎とATOKを使っている人間であるが、ワープロやエディタで文章を書きながら、変換候補とともに表示される辞書を見ることが多い。ここで、提供されているのは、国語辞典である。では、なぜ、漢和辞典のWindows版(あるいは、Mac版)が、利用されるようにならないのであろうか。

小さなスマホのアプリで漢和辞典を見て、それを見ながらパソコンの画面で入力する……これは、なんともまどろっこしいことである。(それとも、これからの日本語の文書作成は、パソコンではなく、スマホでということを言いたいのだろうか。そんなことはないと思うのだが。)

第三に、これは、最近のことであるが、ジャパンナレッジに『新選漢和辞典』がはいった。このことによって、一つの検索窓から、国語辞典と漢和辞典が同時に検索できるようになっている。これは、ある意味で画期的なことである。しかし、このことについての言及は一切なかった。

以上の三点が、漢和辞典の電子化をテーマとしたシンポジウムでありながら、話題にならなかったことである。やはり上記のようなことについては、誰かがなにがしか発言するようにもっていけなかったものかと思う。(あるいは、今になって思えば、私が、フロアから言ってもよかったことなのかもしれない。)

学会の最後は、講演会。記念講演「漢字明朝体の来た道」樺山紘一氏(印刷博物館長)である。

聞いていて、大きな流れとしては問題はないのだろうが……細かなことを言えば、明朝体の印刷字体が誕生するにあたって、宋版などについての言及がまったくなかったことが気になる。いきなり明の時代になって、一切経とともに明朝体が誕生したかのごとくであった。中国の印刷史の流れのなかで、明朝体を考える視点があってもよかったのではないだろうか。

ともあれ、日本漢字学会の第一回の学会は、無事に終了した。参加者も、かなり多かったのではないだろうか。成功したといってよい。来年は、11月30日、12月1日に、東京大学(駒場)で開催とのことであった。

『許されざる者』レイフ・GW・ペーション2018-12-08

2018-12-08 當山日出夫(とうやまひでお)

許されざる者

年末になってミステリのシーズンである。今年も、買うだけは買っておいて積んだままになっている本がかなりある。そんな中の一冊。この作品、「ミステリが読みたい!」では、八位のようだ。

レイフ・GW・ペーション.久山葉子(訳).『許されざる者』(創元推理文庫).東京創元社.2018
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488192051

文庫本の帯を見ると……「CWA賞、ガラスの鍵賞 5冠獲得」とある。期待して読んでみた。

主人公は元警官のヨハンソン。脳梗塞でたおれて病院に入院する。その主治医がかたる。牧師だった父が、ある少女誘拐殺人事件の犯人について懺悔で知っていたという。だが、その事件は、すでに法律的には時効を迎えている。さて、どうすべきか。

この作品、一つには、北欧警察小説である。元警官が主人公とはいえ、その元の部下などが捜査に協力する。

さらには、時効となった犯罪をどのように裁くことになるのか、ということがある。この点については、この作品はそれなりに説得力のある終わり方になっている。

この作品の著者、海外ではかなり有名らしい。だが、日本には未紹介であった。この作品の主人公・ヨハンソンのシリーズもあるとのこと。北欧警察小説ということで、これから、この著者の作品が、順次翻訳されていくことになるだろう。これは楽しみであもある。

ただ、私の場合、たまたまであるが、この作品を読むとき……読み始めたところで、ふと思い立って、『失われた時を求めて』を読み始めたということがある。途中、一ヶ月ほどの中断があって読んだ。やはり、このての作品は、いっきに読んでしまった方がいい。

北欧警察小説の佳品というべきであろう。

『江戸漢詩』から(その二)2018-12-09

続きである。
やまもも書斎記 2018年11月23日
『江戸漢詩』から
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/23/9002137

このところしばらく『失われた時を求めて』を読みふけっていた。そのせいもあって、また、日本漢字学会があったりもして、あまり他の本が読めていない。ちょっと前に書いたことの続きということで、済ませておきたい。この週末は、東京に行って来る用事もある。(文章は事前に書いておいて、東京の宿から朝にアップロードである。)

中村真一郎.『古典を読む 江戸漢詩』(同時代ライブラリー).岩波書店.1998 (岩波書店.1985)
https://www.iwanami.co.jp/book/b270253.html

中村真一郎の『江戸漢詩』という本は、とても興味深い。近代的な詩情というものについて、明治以降になってからではなく、古く江戸時代に淵源を求めることができる。それを断絶したものとして書かれているのが、一般の日本近代文学史であるのかもしれない。

適当にページをひらいて、目のついたところか引用してみる。「都市生活」という章立てのところからである。作者は、寺門静軒。

一架吟樓枕墨陀
黄頭郎自雨中過
雨於渠惡於儂好
簔笠衝烟趣更多

中村真一郎は、次のように読み下している。

一架ノ吟楼、墨陀(スミダ)ニ枕(ノゾ)ム
黄頭楼ハ雨中ヨリ過グ
雨ハカレニオイテハ悪ク、ワレニオイテハ好シ
簔笠烟ヲ衝キ更ニ多シ

評語は次のごとくである。

川べりに突き出している料亭の座敷から、雨のなかを舟を操って行く、簔笠姿の船頭を眺めている。広重の絵のような趣きである。

以上、p.111。

広重の浮世絵に近代につながる詩情を感じるとするならば、同様に、この詩においても心の感じるところがある。『失われた時を求めて』のような西欧の長大で重厚な作品を読んでいると、ふと、このような漢詩文の世界にこころひかれる。これもまた読書の楽しみである。

追記 2018-12-22
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月22日
『江戸漢詩』から(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/22/9015697

『まんぷく』あれこれ「私は武士の娘の娘!」2018-12-10

2018-12-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第10週「私は武士の娘の娘!」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index10_181203.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年12月2日
『まんぷく』あれこれ「違うわ、萬平さん」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/02/9005821

いつもは日曜日にアップロードするのであるが、先週末は、用事があって東京に行っていた。月曜日のアップロードである。日曜日に家にかえってから、土曜日の放送の録画を見た。

最後になって、土曜日の終わりになってやっと釈放された。よかった。

この週、ほとんど萬平たちは、牢屋に入れられるか、取り調べをうけているか、であったが、飽きない展開だった。

ここで描いてみせたのは、萬平という人物の人柄であろう。社員のことを思い、また、社会の人の役にたちたいと思う、また家族のことも大事に思っている、その人柄というものを、じっくりと描くことになっていた。

また、その萬平を思う、周囲の人びと。三田村会長、それから、加治谷も。それなりの立場で、萬平のことを援護する。このように多くの人びとにしたわれる存在としての、萬平の人柄であり、それを基盤にしての、これからのビジネスの展開ということになるのだろう。

手榴弾が見つかったのは、いたしかたないのかもしれない。が、どうやら、積極的に無実であるという証拠があったということではないようだ。手榴弾でも魚がとれるということは、確かめることにはなっていたが。

次週は、萬平のビジネスも大きく展開することになるようだ。どのようにダネイホンを売ることになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-12-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月16日
『まんぷく』あれこれ「まんぺい印のダネイホン!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/16/9012387