『白痴』(1)光文社古典新訳文庫2018-12-21

2018-12-21 當山日出夫(とうやまひでお)

白痴(1)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『白痴』(1)(光文社古典新訳文庫).光文社.2015
http://www.kotensinyaku.jp/books/book219.html

『失われた時を求めて』(岩波文庫12巻、集英社文庫2巻)を読んで、次に読もうとおもったのが、ドストエフスキーの作品群。特に長編。ドストエフスキーについては、『失われた時を求めて』においても、言及されていたこともある。

若い時に、おおむね読んでいる。それから、折りにふれて読んできたりしてもいる。が、ここで、その作品をまとめて読んでおきたいという気になってきている。とりあえずは、文庫本で読める作品を読んでみようと思う。

まず、手をつけてみたのは『白痴』。これは、以前には、新潮文庫版などで読んだかと憶えている。

若い時のこと、学生のころ……文学作品の中に出てくる女性で、誰が最も魅力的であるか、というようなことを友達と話したことを憶えている。その中で出てきたのは、ナスターシヤであった。(その時、私は、何と答えていたのか憶えていない。三千代『それから』漱石、だったろうか。)

『白痴』という作品は、これまで二~三回は読んでいるのだが、特に、ナスターシヤに魅力を感じることはなかった。印象に残っているのは、冒頭の列車の中のシーン、それから、最後の場面である。

今回、光文社古典新訳文庫版の『白痴』で読んでみた。ようやく今年になって、この『白痴』も訳が完結したということもあって、この作品から手をつけてみた。実際のところ、こんなにも面白い人間ドラマであったのかと、思いを新たにした次第である。そして、ナスターシヤが、実に魅力的である。パーティのときに、炎の中に札束を投げ入れる場面など、思わず作品世界のなかにのめりこんでいく。

やはりこのように感じるというのは、『失われた時を求めて』を読み切ってみたということも関係しているのかもしれない。小説の中に人間の精神のドラマを読みとっていく、文学理解の新しい次元が見えてきたような気がする。

そして、この第一巻で印象に残るのは、死刑囚の心理。これは、ドストエフスキー自身の体験をふまえたものらしい。

次の第二巻以降を楽しみに読むことにしたい。

追記 2018-12-24
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月24日
『白痴』(2)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/24/9016553

『江戸漢詩』から(その三)2018-12-22

2018-12-22 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月9日
『江戸漢詩』から(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/09/9010092

『白痴』(ドストエフスキー)を読んでいる。その合間の本として、『江戸漢詩』(中村真一郎)を見ておきたい。

簾前棲鳥起
岸暗水光浮
側臥吹烟処
暁帆上枕頭

作者は前回と同じく、寺門静軒。

これを中村真一郎は、次のように読み下している。

簾前、棲鳥起チ、
岸暗クシテ、水光浮ブ。
側臥烟ヲ吹ク処、
暁帆枕頭ニ上ル。

評語は次のごとくである。

同じく川に沿った料亭の、今度は明方の風景。開け放した座敷の縁に簾が垂らしてあり、そのまえの砂地から水鳥が飛び立つ。(中略)まだ川岸は暗くて、そのなかに水が光って見える。詩人は寝床のなかで、覚めぎわの煙草をふかすと、その煙りの向うに白帆が見えてくる。

以上、pp.111-112。

江戸時代、川べりの料亭の朝の風景を、あざやかに切り取ている。叙景の詩であるが、このなかにはそこはかとない叙情性がある。

『まんぷく』あれこれ「絶対何とかなるから!」2018-12-23

2018-12-23 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月16日
『まんぷく』あれこれ「まんぺい印のダネイホン!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/16/9012387

この週は、萬平は牢屋にはいったままだった。だが、ドラマは大きく展開した。

いくら占領下にあった日本であるとはいえ、いきなり刑務所のシーンになっていた。控訴するとかできなかったのだろうか。まあ、このあたりは、歴史考証をふまえての脚本なんだろうと思うが。

それにしても、弁護士の東太一……優秀なのか、そうではないのか、今ひとつはっきりしない。が、福子や萬平たちのために尽力していることは理解できる。そして、その活躍も今のところは、うまくいっているようだ。

無事に会社を解散して、ダネイホンも別の会社で製造・販売が継続するようだ。これは、ある意味で萬平たちの夢が、つぶれずに残るということでもある。たちばな塩業が、たちばな栄養食品になって、その会社が無くなるとしても、その商品(ダネイホン)は生き続ける。

このドラマも、次週でこの年の最後になるのだが、萬平は牢屋に入ったままなのであろうか。ともあれ、インスタントラーメンの開発にいたるまでは、まだまだ山あり谷ありの展開のようである。

追記 2018-12-29
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月29日
『まんぷく』あれこれ「生きてさえいれば」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/29/9018409

『白痴』(2)光文社古典新訳文庫2018-12-24

2018-12-24 當山日出夫(とうやまひでお)

白痴(2)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『白痴』(2)(光文社古典新訳文庫).2017
http://www.kotensinyaku.jp/books/book247.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月21日
『白痴』(1)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/21/9015312

第二巻になって感じることは、次の二点。

第一には、キリスト教の信仰。特に、この第二巻の前半部分においては、キリスト教信仰についての言及が多い。これが、はっきり言ってよくわからない。だが、このような箇所を読むと、まさにドストエフスキーが語りたかったのは、ロシア的なキリスト教信仰であるのであろう……そのようなところが、何となくではあるが感じられる。

例えば、次のような箇所。

「つまり、神は生みの父親であるという考えや、父親が自分の生みの子を見るのと同じように、神が人間を見る喜びという考えさ――これってすべて、いちばん重要なキリスト教の思想じゃないのかい!」(p.109)

第二には、別荘地で繰り広げられる人間ドラマ。ここは特に波瀾万丈の活劇があるというのではないが、ムイシキン公爵を中心として、登場する様々な人間たち。そのやりとりのなかに、人間の精神のドラマを見ることができるだろう。

訳者の読書ガイドによると、この『白痴』第二巻は、あまり世評が高くないらしい。それは、そうかなと思うところがないではないが、第一巻から連続して読んでくると、ドストエフスキーの描こうとしている人間ドラマのなかに引きずり込まれるような感じになる。

この巻で、ナスターシヤはほとんど登場しない。前半部で、ロゴージンの台詞の中に間接的に登場する。ナスターシヤは語る。

「だってわたし、自分の運命は自分で決めたいもの。」(p.88)

このように語った女性の最後がどうなるのか、(これは既に知っていることではあるが)これからの物語の展開がどうなるか気になるところである。

次は、第三巻である。

追記 2018-12-25
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月25日
『白痴』(3)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/25/9017010

『白痴』(3)光文社古典新訳文庫2018-12-25

2018-12-25 當山日出夫(とうやまひでお)

白痴(3)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『白痴』(3)(光文社古典新訳文庫).2018
http://www.kotensinyaku.jp/books/book267.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月24日
『白痴』(2)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/24/9016553

『白痴』の第三巻を読んで感じるのは、相反する二つのこと。

第一には、『白痴』はこんなにも面白い人間ドラマであったのか、という再発見のようなものである。これまで、『白痴』は、何度か読んだことのある作品であるが、最後のナスターシヤの死の場面が強く印象に残っているというものの、それまでの人びとの言動などについては、あまり理解がおよばなかった。

だが、今回、亀山郁夫訳で読んでみて、その人間ドラマとしての面白さに引き込まれるようなところがあった。特に、中ででてくる、イッポリートの独白は、いったい何を意味しているのだろうか。いろいろ考えることはできようが、この告白の部分が興味深かった。

第二には、そうはいっても、では、この『白痴』という作品が、何を語っている小説なのかということになると、曖昧模糊としている。はっきりいってよくわからない。各巻の巻末にある「読書ガイド」を読んでみても、今ひとつ理解がおよばないところがある。

以上の二点……非常に面白い作品でありながら、いったい何を述べている小説なのか判然としない、これが、今回、『白痴』を久しぶりに読み返しての、いつわらざる感想でもある。この作品、ドストエフスキーの他の作品を読んで(再読)から、さらにもう一回読み返してみたい。

追記 2018-12-27
この続きは、
やまもも書斎記 2018年12月27日
『白痴』(4)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/27/9017726

メタセコイア2018-12-26

2018-12-26 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は、花の写真。今日は、樹木。メタセコイアである。

前回は、
やまもも書斎記 2018年12月19日
ヤツデ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/19/9014109

我が家から歩いて10分ほどのところに幾本かのメタセコイアの木が植えてある。散歩道でとおるところである。時々、カメラを手に散歩することもある。折りにふれて、この木の写真を写してみたものからである。

メタセコイアの歴史は、古く、また、新しい。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見ると、「メタセコイア」の語は、見出しとしては載っているのだが、用例がない。ここは、国語辞典としては、用例、出典を書いておいてほしいものである。無論、この木の名前は『言海』には載っていない。

ところで、うちの近所になるのだが、国立国会図書館(関西館)の前の道路の街路樹が、メタセコイアである。京都に行くとき(学校に行くとき)、この前の道を通る。あと十数年もすれば、立派なメタセコイア並木になるのだろう。落葉樹であるが、街路樹として植えられてみても、秋になって枝が伐採されるということがない。ここのメタセコイア並木が立派になるまで、元気でいられるだろうかと、時として思うこの頃である。

メタセコイア

メタセコイア

メタセコイア

メタセコイア

Nikon D7500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR

追記 2019-01-02
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月2日
雨に濡れた南天の実
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/02/9020187

『白痴』(4)光文社古典新訳文庫2018-12-27

2018-12-27 當山日出夫(とうやまひでお)

白痴(4)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『白痴』(4)(光文社古典新訳文庫).2018
http://www.kotensinyaku.jp/books/book285.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月25日
『白痴』(3)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/25/9017010

光文社古典新訳文庫版の『白痴』は、原作の構成にしたがって四冊につくってある。この四巻、ほとんど一気に読んでしまった。読み返すのは、一~二年ぶりぐらいになるだろうか。たしか、この前は、新潮文庫版で読んだように憶えている。(まだ、その時、この光文社古典新訳文庫版は完結していなかった。)

新しい訳で読んでみて、『白痴』というのは、こんなにもドラマチックな小説であったのかと、改めておどろいた。途中、少し、読むのに難渋するところがないではない。特に、波瀾万丈の事件が起こるということもない。だが、そこには、複雑で深淵な人間ドラマがある。この人間ドラマを読み取れるようになったというのが、今回の新しい訳で読み返した収穫と言っていいだろう。

だが、そのような人間ドラマがあることは理解できるのだが、そのせいもあって、より一層、この作品の謎がふかまったという印象もある。はっきり言って、この作品が、いったい何を語ろうとしている作品なのか、さらに分からなくなったというのが正直なところ。

ここは、ドストエフスキーの作品を一通り読み返してみてから、再度、この『白痴』にたちかえって、読み直してみたい気がしている。

そうはいっても、今回読み返してみても印象的なのは、やはり、最後のシーン。ナスターシヤの死体を前にしての、ムイシキン公爵とロゴージンの二人。おそらく、世界の文学の中でも、このシーンは、もっとも印象に残るひとつではないだろうか。

訳者(亀山郁夫)の「読書ガイド」を読んでも、今ひとつ理解ができないところがある。それほど、この『白痴』は謎に満ちた、しかし、魅力的な作品と言っていいだろう。ロシアにおけるキリスト教、それから、ドストエフスキーにおけるキリスト教というものへの理解が、不可欠であることは理解される。

だが、そのような知識がなくても、十分にこの作品は魅力的である。(といって、知らなくていいというのではないが。)

『白痴』の次に読みかけているのは、『罪と罰』。これも、読み返すのは、何度目になるだろうか。今年のうちには、読んでしまえると思っている。

『最後の読書』津野海太郎2018-12-28

2018-12-28 當山日出夫(とうやまひでお)

最後の読書

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

ドストエフスキーを読み返している間に、気楽に読める本と思って手にしたものである。

著者(津野海太郎)は、八〇歳をむかえるという。その老年の境遇にあっての読書をめぐる、様々な思いが綴られている。

人はいずれ年をとる。老年になって、どのような読書が可能だろうか。

私ももう老眼である。本を読むときには、眼鏡(近眼用)をはずさないと読めない。字の小さい本が、読むのがつらくなってきている。文庫本など、昔の岩波文庫とか新潮文庫、まだ持っているものもたくさんあるのだが、とても字が小さすぎて読む気になれない。

まあ、新潮文庫の場合、本によっては、同一内容で改版して字を大きくして出しているのがある。それがある場合には、新しく買って読むことにしている。

ドストエフスキーを読んでいる。新しい亀山郁夫訳である。光文社古典新訳文庫のシリーズである。ドストエフスキーは、私は、古い池田健太郎の訳が好みではあるのだが、古い文庫本は、もう字が小さくてつらいと感じる。新しい亀谷郁夫訳の本は、字がひとまわり大きい。また、訳文も悪いとは感じない。いや、現代的な文学的感性を感じる訳文である。

年をとって「硬い本」は読めなくなるという。私にとって、ドストエフスキーの作品、それから、この秋に読んだ『失われた時を求めて』(プルースト)などは、そう「硬い本」とは感じないでいる。小説である。気楽に楽しめばよいと思って読んでいる。そして、この年になって、これらの作品を読んで、あるいは、再読してみて、その文学的感銘を感じている。

この本、読みながら興味深く感じたところがいくつかある。ドストエフスキーの作品を読む合間に、そのことについて書いておきたいと思っている。

『まんぷく』あれこれ「生きてさえいれば」2018-12-29

2018-12-29 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第13週「生きてさえいれば」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index13_181224.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年12月23日
『まんぷく』あれこれ「絶対何とかなるから!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/23/9016063

結局、萬平は刑務所から出て自由になったのではあるが……だが、そもそも奨学金に対する課税が不当なものだったとすると、それについての追徴課税(10万円)は、どう考えても支払う必要のないものであるはず。ここは、もうちょっとねばれば、この10万円もどうにかなったのでないであろうか。

しかし、ともあれ、この週で描いたのは、萬平という人物像。この週もほとんど刑務所の中にはいったままであったが、その心の動きがドラマとしてうまく表現されていたように思う。訴訟を取り下げるつもりはない、この強固な意志、それから、やはり刑務所の外に出て、発明家として世の中の役にたつ仕事がしたい、このような萬平という人間のあり方が、うまく出ていたと感じる。

それにしても、ダネイホンの宣伝効果、あるいは、進駐軍につかまったことの新聞記事、いつのまにか、萬平は、社会の有名人になってしまっている。このことが、これからの萬平の人生にどうかかわっていくことになるのか、このところも気になるところである。

今年の放送は終わった。来年からどのような展開になるのだろうか。刑務所から出た萬平が、どのような活躍をみせるか、そして、インスタントラーメンの開発に向けてどのようにドラマが進んでいくことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-01-06
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月6日
『まんぷく』あれこれ「理事長!?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/06/9021926

『罪と罰』(1)光文社古典新訳文庫2018-12-30

2018-12-30 當山日出夫(とうやまひでお)

罪と罰(1)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『罪と罰』(1)(光文社古典新訳文庫).2008
http://www.kotensinyaku.jp/books/book67.html

『白痴』を読み終えて(何度目かになるのだが)、次に手にしたのが『罪と罰』。これも、これまでに何度か読んでいる。新潮文庫の本だったり、それから、中央公論社の池田健太郎訳であったりである。

池田健太郎訳の『罪と罰』については、以前にちょっとだけふれたことがある。

やまもも書斎記 2016年5月28日
池田健太郎訳『罪と罰』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/28/8097383

今回は、光文社古典新訳文庫のシリーズとして、新しい亀山郁夫訳で読むことにした。

読んでみると、この訳文も実にいい。ちょっとくだけすぎかなという印象が無いではないが、しかし、非常に平明な日本語文で、すんなりと小説の世界にはいっていける。

さて、『罪と罰』であるが、この作品も印象的なのは、ラストのシーンである。無論、事件・犯罪の場面とかもあるが。あまり頻繁に登場するということはないが、ソーニャが魅力的である。

第一巻から読み始めて、ふと気になったことがある。この小説、第三人称視点から描かれているのだが、基本的に、主人公・ラスコーリニコフによりそっている。第一巻の第一部、第二部を読む限りであるが、基本的に、ラスコーリニコフからそんなに離れることがない。

この小説の冒頭の部分で、そのラスコーリニコフの視点を、さらに小説の時間からすれば未来から回想しているところがある。

たとえば、次のような箇所。

「後にこのときのことを、この数日間に起こった一部始終を、一刻一刻を、一点一点を、一コマ一コマを思いおこすたびに、彼はいつも、あるひとつの事情に迷信じみたショックを覚えたものだった。その事情というのは、そのじつ、とりたてて変わったことではなかったが。あとからそれを考えると、いつも何かしら、自分の運命の予告のように思えてならなかった。」(p.146)

これは、この小説での事件・犯罪にいたる前の描写である。

その目で、読んでいくと、この第一巻(第一部、第二部)で、時々ではあるが、描写の視点がラスコーリニコフから離れるところがあることに気付く。気付いたところには付箋をつけてみた。十箇所以上になるだろうか。

この第一巻では、小説はまだ序盤。ラスコーリニコフは事件をおこすが、まだ、そのことに悔悟の念は生じていない。それよりも、自分のおかれた不条理な状況にまいってしまっているようである。第二巻以降、新たな登場人物も現れて、物語はラスコーリニコフの心情をめぐって展開していくことになる。新しい亀山郁夫訳で、続きを読むことにしよう。

追記 2019-01-03
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月3日
『罪と罰』(2)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/03/9020580