『最後の読書』津野海太郎(その二)2019-01-05

2019-01-05 當山日出夫(とうやまひでお)

最後の読書

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月28日
『最後の読書』津野海太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/28/9018078

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

読みながら付箋をつけた箇所がいくつかある。そのうちのひとつが、電子書籍についての箇所。

第7章「蔵書との別れ」の106~107ページのあたり。

ちょっと引用してみると、

「でも、いまになってわかる。私たちがあんなに元気によくしゃべることができたのは、そこに、いま私はこんなことをやっている、この先はこうやっていくつもりだ、という実践の裏付けがあったからなのだ。」(p.107)

書籍とコンピュータの未来について語った箇所である。また、紀田順一郎が、なぜ、蔵書を処分するという段階になって、電子書籍のことについて語っていないのか、ということに思いをはせての部分である。

ここには、私は、半分は同意する。

私は、かつて、パソコンが世の中に登場しはじめてころから使ってきている。そこには、引用したような、「実践」ということがあった。私のつくってみた『和漢朗詠集漢字索引』なども、その「実践」のひとつの形であると言えるかもしれない。

だが、しかし、今は、半分は違った思いがある。

今の、電子書籍……その周縁には、人文情報学というような新しい学問分野を想定することもできる……が、ある程度実現してみて……たとえば、Kindleがそうである……こんなはずではなかったのに、という思いがある。かつて「電子書籍」は「夢」であった。こんなことができたらすばらしい、みんなは、そこに「夢」を語っていた。

しかし、今、実現している電子書籍はどうであろうか。かつての「夢」を実現してくれているであろうか。

私の答えは「否」である。

とはいえ、電子書籍、人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズの将来に悲観しているというのともちょっとちがう。そこに、将来の希望を見てはいる。しかし、もはや、自分が実践的にそこにかかわろうとは思わなくなってしまった。(年をとったからだと言われればそれまでである。)

私は、紙の本にもどっている。本を、古典を、文学を、読んで時間をつかいたいと思う。

「夏目漱石」は、Kindle版に全集がはいっている。それは、外出するときは持ち歩くことにしている。今は「芥川龍之介」を読むことにしている。

しかし、本当に本を読んでいると感じるのは、やはり、自分の部屋の自分の机において、紙の本を読むときである。これからの「実践」は、若い人たちにまかせたいと思うようになってきている。私は、それを眺めながら、自分で好きな「古典」を読んでおきたいのである。

追記 2019-01-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月17日
『最後の読書』津野海太郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/17/9025947