『最後の読書』津野海太郎(その三)2019-01-17

2019-01-17 當山日出夫(とうやまひでお)

最後の読書

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月5日
『最後の読書』津野海太郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/05/9021484

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

この本を読んで付箋をつけた箇所について、さらにすこし。
 
この本の第10章が「古典が読めない!」となっている。

『古事記伝』のことが出てくる。孫引きになるが引用してみる。堀田善衛と臼井吉見の対談である。

……臼井[吉見]氏と本居宣長の話をしていたとき、私はまだ[本居宣長の]『古事記伝』なるものをのぞいたこともなかった。それでこの著作について臼井氏に訊ねた。
「まだ読んでいないの。それは惜しい。あれは探偵小説のように面白いよ。是非読んでみたまえよ。」
 と臼井氏が言ってくれた。(略、ママ)かくて私は、その一言につられて、『古事記伝』を読んだ。
pp.141-142

そして、著者(津野海太郎)は、こう記す。

「堀田にかぎらず、かれの身近な友人たち……たとえば敗戦の二年後、『1946 文学的考察』で華々しく登場した加藤周一、中村真一郎、福永武彦の『三秀才』(と冗談で呼ばれた)も、日本の古典に、ある点では専門の学者以上に深くつうじていた。」(p.145)

さらに、この本の第11章が「現代語訳を軽く見るなかれ」となっている。日本の古典文学を、現代の作家が現代語訳することの意義について論じてある。

そういえば、ここのところに出てくる『説経節』などは、昔、学生のころに手にしたことを覚えている。(これは探せば若い時に読んだ本がまだ残って、持っているはずである。)

『古事記伝』は、私は持っている。本居宣長全集(筑摩版)を揃えて持っている。また、岩波文庫の『古事記伝』も、復刊になったものを買ってある。

去年、本居宣長関係の書物……「本居宣長」をタイトルにする本……をいくつか読んでみた。だが、まだ『古事記伝』にとりかかるにいたっていない。これは、是非とも読んでおきたいと思う。

私は、慶應義塾大学の文学部で国文学を学んだ。だからということもないが、日本の古典なら読める。普通の校注本であれば問題はない。影印本として、変体仮名、くずし字で書かれたものであっても、読める。

だが、国語学という分野で勉強してきて、これまで、日本の古典文学を、書物として、文学作品として通読するということがあまりなかった。たしかに、『古事記』も『万葉集』も『古今和歌集』も『源氏物語』も『平家物語』も、ほとんどのページをめくったことはあるのだが、最初から順番に書物として、文学作品として読むということがなかった。

もう還暦をすぎて……楽しみで日本の古典を読みたいと思うようになってきた。去年は、『失われた時を求めて』を全巻読んだ。また、年末からはドストエフスキーを読んでいる。読んでおくべきと思う世界文学の名作は他にもある。が、その他に、日本の古典をきちんと書物として自分の目で読んでおきたいと強く思う次第である。

ところで、以上の文章を書いて保存しておいてからのことになるが、2019年1月14日に、明星大学で、「古典は本当に必要なのか」というシンポジウムがあった。これについて思うところがないではない。追って書いてみたい。

これは、YouTubeで公開されている。

https://www.youtube.com/watch?v=_P6Yx5rp9IU

追記 2019-01-18
「古典は本当に必要なのか」については、
やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278