『悪霊』(2)光文社古典新訳文庫2019-01-21

2019-01-21 當山日出夫(とうやまひでお)

悪霊(2)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『悪霊』(2)(光文社古典新訳文庫).光文社.2011
http://www.kotensinyaku.jp/books/book126.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月19日
『悪霊』(1)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/19/9026594

第二巻も、ほぼ一気に読み終えてしまった。まだ、この巻では、最後の破局的な「事件」はおこらない。概して、ロシアの地方都市での人びとの生活がつづられる。

だが、今回、この作品を読んでみて(再読)、最初に読んだ時には気付かなかったところがある。それは、ひとことで言えば、登場人物たちのおりなす人間のドラマである。

この作品、『悪霊』は、スタヴローギンを中心とした結社のおこした事件を軸に語られることが多いと思う。たぶん、この作品の読み方としては、それが、普通の読み方なのであろう。

しかし、それだけではない。この『悪霊』を読んでいくと、思わずに、作品世界の中に入り込んで読みふけってしまうようなところがいくつかある。特に、幾組かの男女の物語が魅力的である。(これは、昔、若かったころに読んだときには、気付かなかったところでもある。)

それから、この光文社古典新訳文庫版の第二巻で注目しておくべきことは、第8章と第9章との間に「チーホンのもとで――スタヴローギンの告白」の章がはいっていること。これは、作者(ドストエフスキー)の判断で、書物になるときに削除された章であるとのこと。また、この部分については、各種のテキストがあり、本文校訂上、大きな問題があること、がある。

この章については、『悪霊』の「別巻」として、さらにとりあげて訳と解説がある。詳しくは、そちらを読んでからのことにしたい。

が、ここで、第二巻を読んだときの印象として思ったことを書いておくならば、この『悪霊』において、「チーホンのもとで」は、かなり異質な印象をうける。これまで、『悪霊』は、語り手であるヴェルホヴェンスキーの視点から、大きく離れることがなかった。時として、語り手の視点を越えて、登場人物の心の中にはいっていくことがあるが、しかし、そうそれが気になるということはなかった。

しかし、「チーホンのもとで」になると、これは完全に、語り手のヴェルホヴェンスキーの視点を超越したとことで語られる。スタヴローギンの心の中にはいっていくことになる。

スタヴローギンを軸に展開する小説『悪霊』としては、この章の持つ意味は決して軽いものではない。

とはいえ、小説のなかの種々の登場人物のおりなす物語として読んでいく立場からすると、何かしらこの章には異質なものを感じるところがあることも確かである。このことについては、「別巻」を読んでから、さらに考えてみることにしたい。

追記 2019-01-24
このつづきは、
やまもも書斎記 『悪霊』(3)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/24/9028389