『いだてん』あれこれ「小便小僧」2019-01-29

2019-01-29 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年1月27日、第4回「小便小僧」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/004/

前回は、
やまもも書斎記 2019年1月22日
『いだてん』あれこれ「冒険世界」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/22/9027685

私の見るところ、日本人というのは、オリンピックとノーベル賞が大好きなのである・・・

そのオリンピックを、スラップスティック(ドタバタ)で描こうという今回の企画には、賛否両論あるにちがいない。

明治の終わり、これからの日本の教育を背負ってたつべき東京高等師範学校の学生には、なんらそのような気負いは感じられない。まあ、スポーツのドラマだから、では、これからの日本のスポーツを担うべき人材になろうとしているかというと、また、それとも少し違うような気がする。いったい、彼らは、何のためにスポーツに熱中し、はては、マラソンを走ろうとしているのか。ただ、好きだから、ということでもないようだ。

このあたりの人びとと社会の機微、それをスラップスティックで描き出そうとしているのが、このドラマの目論みと感じる。

ところで、ドラマを見ていて気になっているのが、四三の熊本方言。東京に出てきて寮生活をしているのだが、いっこうに熊本方言がなおっていない。これは、近代の教育機関の中軸たる人材養成を目的とする高等師範学校の学生としては、ちょっとどうかなと思う。

国語史、日本語史の観点から見ても、明治の終わりごろになれば、いわゆる標準的な日本語、国語というものが形成されてきた時期になる。

たとえば、『三四郎』(夏目漱石)、この作品で、九州の五高(熊本)を出て東京の帝大に入学する小川三四郎は、熊本方言を一切使っていない。これは、漱石が意図的に、そのように描いているからである。明治の終わりのころであれば、少なくとも『三四郎』が連載された「朝日新聞」の購読者にあっては、東京で使われるべき標準的な日本語というものが、意識されていたことを示している。

だが、四三は、熊本方言のままである。そして、その方言をただすべきものとしても意識していないようである。これは、故郷の熊本というリージョナリズムの表現ととらえておくべき、ドラマの作り方なのであろう。熊本出身の四三という人物像は、このドラマにおいては、必須の要素ということになる。

次週は、マラソンになって、このドラマの初回へとつながっていく展開のようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-02-05
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月5日
『いだてん』あれこれ「雨ニモマケズ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/05/9032595