『悪霊』(2)光文社古典新訳文庫2019-01-21

2019-01-21 當山日出夫(とうやまひでお)

悪霊(2)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『悪霊』(2)(光文社古典新訳文庫).光文社.2011
http://www.kotensinyaku.jp/books/book126.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月19日
『悪霊』(1)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/19/9026594

第二巻も、ほぼ一気に読み終えてしまった。まだ、この巻では、最後の破局的な「事件」はおこらない。概して、ロシアの地方都市での人びとの生活がつづられる。

だが、今回、この作品を読んでみて(再読)、最初に読んだ時には気付かなかったところがある。それは、ひとことで言えば、登場人物たちのおりなす人間のドラマである。

この作品、『悪霊』は、スタヴローギンを中心とした結社のおこした事件を軸に語られることが多いと思う。たぶん、この作品の読み方としては、それが、普通の読み方なのであろう。

しかし、それだけではない。この『悪霊』を読んでいくと、思わずに、作品世界の中に入り込んで読みふけってしまうようなところがいくつかある。特に、幾組かの男女の物語が魅力的である。(これは、昔、若かったころに読んだときには、気付かなかったところでもある。)

それから、この光文社古典新訳文庫版の第二巻で注目しておくべきことは、第8章と第9章との間に「チーホンのもとで――スタヴローギンの告白」の章がはいっていること。これは、作者(ドストエフスキー)の判断で、書物になるときに削除された章であるとのこと。また、この部分については、各種のテキストがあり、本文校訂上、大きな問題があること、がある。

この章については、『悪霊』の「別巻」として、さらにとりあげて訳と解説がある。詳しくは、そちらを読んでからのことにしたい。

が、ここで、第二巻を読んだときの印象として思ったことを書いておくならば、この『悪霊』において、「チーホンのもとで」は、かなり異質な印象をうける。これまで、『悪霊』は、語り手であるヴェルホヴェンスキーの視点から、大きく離れることがなかった。時として、語り手の視点を越えて、登場人物の心の中にはいっていくことがあるが、しかし、そうそれが気になるということはなかった。

しかし、「チーホンのもとで」になると、これは完全に、語り手のヴェルホヴェンスキーの視点を超越したとことで語られる。スタヴローギンの心の中にはいっていくことになる。

スタヴローギンを軸に展開する小説『悪霊』としては、この章の持つ意味は決して軽いものではない。

とはいえ、小説のなかの種々の登場人物のおりなす物語として読んでいく立場からすると、何かしらこの章には異質なものを感じるところがあることも確かである。このことについては、「別巻」を読んでから、さらに考えてみることにしたい。

追記 2019-01-24
このつづきは、
やまもも書斎記 『悪霊』(3)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/24/9028389

『いだてん』あれこれ「冒険世界」2019-01-22

2019-01-22 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』2019年1月20日、第3回「冒険世界」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/003/

前回は、
やまもも書斎記 2019年1月15日
『いだてん』あれこれ「坊っちゃん」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/15/9025210

自転車で走る列車をおいかけるシーンは、どうしても「あまちゃん」(宮藤官九郎の脚本である)を思い出してしまうのだが、どうだろうか。

時代は明治の終わりである。「一等国」になった日本において、教育などの諸制度が整ってきたころになる。その時代の若者を描いた作品としては、『三四郎』(夏目漱石)がある。今回の放送でも、作中に夏目漱石の名前が出てきていた。

『三四郎』では、まさに四三と同じく、熊本(五高)を卒業した三四郎は、九州から東京に向かう列車に乗る。途中、名古屋で下りて一泊。そして、その後の列車の中で、広田先生(偉大なる暗闇)と出会うシーンになる。ここで、広田先生は、「日本はほろびるね」という意味のことを言って、三四郎がおどろく。

さて、『いだてん』であるが……四三には、三四郎のようにこれから東京に出て、天下国家を論じるという気概はないようだ。まあ、文科の三四郎にそのような気概はなかったかもしれないが、日本の首都である東京に出て、これから勉学にいそしもうという気持ちは強くもっている。しかし、四三は、まさに「赤ゲット」であって、青雲の志があるようには描かれていない。また、それを冷ややかにみる広田先生のような存在も出てこない。

このドラマで、もっとも時代の流れから超然としたところにいるのが、志ん生である。まだ、落語に興味をもったばかりの若者として登場してきている。このような志ん生の視点から四三を見ると……東京高等師範学校という、これからの日本国の教育を担う人材養成機関には興味は無いようである。また、スポーツにも、これといった関心もしめすようでもない。

このような視点を設定することによって、「坂の上の雲」のような国家に枢要の人間たるべきという悲壮感のようなものが、中和されてしまうことになる。

これはこれで、今後の展開を考えると必要な路線と感じる。ストックホルム大会に日本がはじめてオリンピックに出場することを描いた後にでてくるのは、ベルリンの「民族の祭典」、それから「前畑、がんばれ」のアナウンス。そして、幻におわった1940(昭和15)年の、東京オリンピックになるはずである。

このあたりのところをどう描くか……過度にナショナリズムにうったえるのではなく、個々の選手として、人間として、どうオリンピックにかかわることになったのか、だが、どうしようもなく覆い被さってくるであろう「国家」というもの、ここを軽やかに描ききるには、明治の今の時点において、軽快なスピード感で描写していくことになるのだろうと思っている。

ところで、『三四郎』(漱石)と、このドラマはほぼ同時代。明治の終わりごろ。この当時、大学は、秋から新学期がスタートしていた。では、高等師範学校はどうだったのだろうか。ドラマを見ていると、春に新学期がはじまって上京して、夏休みに故郷の熊本に帰ってくるように読み取れたのであるが、このあたりはどうなのだろうか、ちょっと気になった。

追記 2019-01-29
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月29日
『いだてん』あれこれ「小便小僧」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/29/9030061

マンリョウの実2019-01-23

2019-01-23 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は、マンリョウの実である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年1月16日
仙人草の花のあと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/16/9025594

庭のマンリョウの花の咲いたのを写したのは、去年のことになる。

やまもも書斎記 2018年9月6日
マンリョウの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/06/8956984

その花がおわって、青い実をつけて、それが赤くなっている。その実も、鳥が食べるようで、すでに無くなっているものもある。朝、カメラを持って外にでると、マンリョウの木の下から鳥が飛び立つことがある。実をついばんでいるのであろう。

今年になってから、Facebookにほぼ毎日その朝に撮ったマンリョウの実の写真を掲載してきた。今の季節、花がない。庭のセンリョウの実も、ほとんど鳥が食べてしまっている。マンリョウの赤い実が目につく。

ここに掲載の写真は、Facebookに掲載したのとは別に、改めて撮り直してみたものである。

庭に出てみると、木瓜の花の冬芽がそろそろ赤くなりはじめている。梅の木も花が咲きそうな気配を感じるようになってきた。冬の間、花には乏しいが、冬ならではの植物、草花の様子を写真に撮っている。

マンリョウ

マンリョウ

マンリョウ

マンリョウ

マンリョウ

Nikon D7500
AF-S VR Micro-NIKKOR 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-01-30
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月30日
雑木林の冬
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/30/9030377

『悪霊』(3)光文社古典新訳文庫2019-01-24

2019-01-24 當山日出夫(とうやまひでお)

悪霊(3)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『悪霊』(3)(光文社古典新訳文庫).光文社.2011
http://www.kotensinyaku.jp/books/book139.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月21日
『悪霊』(2)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/21/9027341

この作品は、帝政ロシアにおいても(ドストエフスキーの同時代)、また、その後のソ連の時代においても、政治的にいろいろ問題のあった作品である。その後、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の崩壊というできごとを経て、ようやくこの作品を、作品に即して素直に読むことのできる時代になった、このようにいえるだろう。

私が、この作品をはじめて読んだのは、たしか学生の時だったと覚えている。その時代は、まさに東西冷戦のまっただ中の時代であった。どうしても、ある種の政治的バイアスのかかった読み方をしてしまったものだと、今になって思う。というよりも、複雑な人間関係、登場人物、よくわからないロシア語の人名、というようなこともあって、熟読、味読するという感じではなかった。それが、新しい光文社の亀山郁夫訳で再度読んでみて、ようやくこの作品の端緒を感じ取れたような気がする。

はっきりいって、まだ、端緒である。『悪霊』の描き出した世界は、深く広く暗い……これから、機会をみつけて、再々度、再々々度、読み返してみたいとは思っている。

第三巻になって、ようやく「事件」がおこる。何人もの人が死ぬ。そして、最後のシーンにいたる。

この最後のシーンは確かに印象的なのだが、今回読んでみて心にのこったのが、その前の、ヴェルホヴェンスキー氏のところ。ここで、福音書を売る女性が登場する。この田舎町での描写が、印象深い。

『悪霊』は陰鬱な作品というイメージがあるのだが……そして、たしかに、陰惨な場面もあるのだが……それを描き出すのと併行して語られるいくつかのドラマ……男と女の物語であり、親と子どもの物語であり……その人間ドラマの心情の機微というものを感じる。いくつかの人間のドラマを感じ取りながら読むことができたのが、今回の読書ということになるであろうか。

『悪霊』に必要以上に政治性を持ち込まず、人間のドラマとして読むのが、これからのこの作品の読み方なのかもしれない。

追記 2019-01-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月25日
『悪霊』(別巻)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/25/9028715

『悪霊』(別巻)光文社古典新訳文庫2019-01-25

2019-01-25 當山日出夫(とうやまひでお)

悪霊(別巻)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『悪霊 別巻』(光文社古典新訳文庫).光文社.2012
http://www.kotensinyaku.jp/books/book143.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月24日
『悪霊』(3)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/24/9028389

『悪霊』を、光文社古典新訳文庫(亀山郁夫訳)で読んでいって、この巻が別巻としてある。これは、異例のことである。ここに収めてあるのは、「チーホンのもとで」の三つの異本のそれぞれの訳である。

本来、この章は、『悪霊』の中の一つの章として書かれながらも、当時の社会的な事情……検閲……ということを配慮して、刊行されなかったものである。それが、後になって、各種の異本(校正原稿、清書原稿など)がみつかった。それも、三種類ある。どれが、本当に著者、ドストエフスキーの意図した原稿になるのか、簡単には定めがたい。

このようなこと、文学作品における異文、異本ということは、日本文学などの研究においても問題となる。私などは、このようなことを考えるのは、どちらかといえば好きな方である。というよりも、異本、異文ということを考えることを、これまでの勉強の主な柱としてきたといってもよい。

だが、この年になって、楽しみのために本を読むということをしたくなった。この時、異文、異本ということは気にならないではないが、かつてのように、そう重視することがなくなったというのが本心でもある。異文、異本があり得るということを念頭においたうえで、とりあえず、全体として通読できるテキストがあればいい。

これは、昨年『失われた時を求めて』を読んだときにも感じたことである。

「チーホンのもとで」であるが、これについては、先に書いたように、『悪霊』全体を通読するなかで、何かしら異質なものを感じる。簡単にいえば、この小説の語り手として登場してきている、ヴェルホヴェンスキー氏の視点を完全に離れて、スタヴローギンの心の中にはいっていってしまっているのである。スタヴローギンを中心とした小説として『悪霊』を読むならば、ある意味で最も重要な章ということになる。

この章、それから異本については、これから、再々度、『悪霊』を読み返す……そのような機会をこれからも作っていきたい……その時に、改めて、もう一度たちかえって考えてみたい。

ともあれ、日本語訳の文庫本ということでありながらも、異なるテキストを訳して収録してある、光文社古典新訳文庫版の仕事は、貴重なものだと思う。

「古典は本当に必要なのか」私見(その二)2019-01-26

2019-01-26 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

「古典」を現代語訳で読んではいけないのだろうか。そんな質問が当日あった。実は、これについては、答えるのがむずかしい。

「原文」主義をとるならば……「原文」で読んでこそ、そのニュアンスが理解されることもある。特に詩歌についてはそうである。また、現代日本語を母語としている人間にとって、「古典」を「原文」で読む、そのハードルが非常に低いということを自覚することもできる。千数百年以上にわたる日本語の歴史の連続性があってのことである。

実際、『万葉集』の歌のいくつかなどは、ほとんど注釈なしに現代日本語で理解できるものもある。(これは、原典の理解としては問題が無いということではないが。)

だが、「原文」ということについても、いろいろ問題が無いではない。

まず、「古典」の「原文」とは何か、ということがある。いわゆる「原文」とされるものは、現代の文字(活字)になおしたものである。仮名文には適宜漢字をあててある。句読点も付加してある。また、『万葉集』『古事記』のようなものは、漢字仮名交じりに書き下したものを使うことになる。もとの漢字だけの表記ではでてこない。また、無論のこと、変体仮名・くずし字などもでてこない。いわゆる現代における校注テキストである。

現代語訳で「古典」は教えられないのか、という趣旨の発言がいくつかあった。これについては、現に、河出書房新社の出している次のシリーズがある。

池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 全30巻
http://www.kawade.co.jp/nihon_bungaku_zenshu/

この全集を、今回のシンポジウムのテーマとの関連で見るならば、次のことが注目すべきことになる。

「古典」については、現代語訳でいれていることである。「原文」主義ではない。また、その訳のほとんどはこのシリーズのための新訳である。例外的なのが、『万葉集』が折口信夫の「口訳万葉集」をつかっていること。また『今昔物語』が福永武彦訳をつかっている。これらをのぞけば、他の作品は、現代の作家・文学者による新訳である。

この現代語訳の日本文学全集については、次の本でも肯定的にとらえている。

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

シンポジウムでの「古典」を現代語訳で教えていいのではないか、という指摘はもっともなことである。だが、現実の出版・書物の方では、それを既に先取りしているのである。「古典」は、現代にふさわしい新しい現代語訳で読めばよいのである。

このような意味において……確認するならば、現代日本語訳で「古典」を読む……河出の日本文学全集は、先見の明のある仕事をしているといえないだろうか。「古典は本当に必要なのか」という問題設定のあり方自体が、すでに陳腐化しているともいえる。

また、さらに付け加えるならば、この全集の第30巻『日本語のために』には、アイヌ語とその現代日本語訳、琉球語『おもろさうし』などが、収録してある。これは、「日本文学」が、狭義の「国語=日本語」の範囲にとどまらないことをしめしている。これも卓見というべきであろう。

かりに「古典」についての知識・理解が、中等教育(高校)で必須であるとしても、では、それは、「国語」という科目のなかで「古文」という枠を設定することによってしか教えることはできないものなのであろうか。「古典」教育における「原文」主義、また、「古典文法」、これらについては、現代の知見から再定義の必要があるように思う。

なお、最近出た本として、次の本がある。

河内昭浩(編).『新しい古典・言語文化の授業-コーパスを活用した実践と研究-』.朝倉書店.2019
http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-51061-4/?fbclid=IwAR1NO3-znJ9Nk4WjgT5r-f_lC-n7lc_-lvWyo9rsPd9rEtPnREuPc0Khx00

「古典」が必要であるからといって、その教材・教授法が昔のままでいいというわけではない。従来の「国語」「古文」の枠のなかで教えるとしても、さらに改善の必要がある。また、他の教科、たとえば、「歴史」のような科目のなかで、「日本」のことをどう教えるのか、このような観点も「古典」の教育において必要になるにちがいない。

最後に書いておくならば、「古典」の教育が必要であるからといって、それが、偏狭なナショナリズム教育になってはいけないと思う。この観点からは、「古典」の教育は、「国語」という科目の中にとどめておくのが、無難であるのかもしれない。これは杞憂かもしれないが。

追記 2019年2月16日
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月16日
「古典は本当に必要なのか」私見(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/16/9036658

『まんぷく』あれこれ「ラーメンだ!福子!」2019-01-27

2019-01-27 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第17週「ラーメンだ!福子!」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/

前回は、
やまもも書斎記 2019年1月20日
『まんぷく』あれこれ「あとは登るだけです!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/20/9026938

萬平は、いよいよ本格的にインスタントラーメン(即席ラーメン)の開発にのりだす。

今の我々は、すでにインスタントラーメン……チキンラーメンはもちろんのこと、カップヌードルも知っている。だから、それがどのようなものかイメージできる。

だが、それがまだ無かった時代、お湯をかければラーメンができるというのは、想像の範囲を超えていたことなのであろう。

そういえば、私が子どもの頃は、ちょうどインスタント食品が世に登場してきた時代でもあった。インスタントラーメンは、ものごころついた時には、すでにあったように憶えている。それから、やはり、画期的だと思うのは、レトルトのカレーである。これも、インスタントラーメンにおとらず、日本人の食生活を大きく変えたことになる。

土曜日になって、萬平は、福子の畑をつぶして研究所を建設することになっていた。確か、史実のうえでも、チキンラーメンの開発は、ほとんどバラックのような小屋でなされたはずである。このあたりは、歴史をなぞってドラマは展開するようだ。

しかし、どのような商品か……お湯をかければできるラーメン……ということのイメージは固まったものの、肝心の製品の開発はまだまだこれからである。これから、様々に試行錯誤の道のりが待っているにちがいない。

ところで、この週で、ひさしぶりに「ルンペン」ということばを耳にした。最近ではまったく使わなくなったことばである。昭和の三〇年代を感じさせることばであった。

次週以降、萬平の研究開発の試行錯誤をどうドラマチックに描いていくことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-02-03
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月3日
『まんぷく』あれこれ「完成はもうすぐ!?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/03/9031798

『地下室の手記』光文社古典新訳文庫2019-01-28

2019-01-28 當山日出夫(とうやまひでお)

地下室の手記

ドストエフスキー.安岡治子(訳).『地下室の手記』(光文社古典新訳文庫).2007
http://www.kotensinyaku.jp/books/book28.html

光文社の古典新訳文庫版でドストエフスキーの長編……『白痴』『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』……を読んで、次に何を読もうかとおもって、ふと読んでみたのだが、読み始めて思わずに作品世界の中に没入してしまっている自分に気付いた。なんと魅力的な文学世界であろうか。

特に、その「Ⅰ」の「地下室」にひかれる。

世界から疎外された人間の孤独感と苦痛……特に精神的な苦痛を感じていることに、逆説的に快楽を感じてしまう、屈折した人間心理をえぐりだしている。これまでドストエフスキーは長編作品を主に読んできた。この作品、実は未読の本であった。長編のいくつかを何度か繰り返し読んでみた後で読んだせいかもしれないが、新たなドストエフスキーの魅力が分かったような気がする。

「Ⅰ」の「地下室」が、苦痛に快楽を感じてしまう人間の心理を描写したものとして、「Ⅱ」の「ぼた雪に寄せて」は、そのような人間を、さらに突き放して、諧謔的に描き出している。

ここに、私は、ドストエフスキーの文学者としての天分を見る。ここまで人間というものの本質を見つめる文学は、他に類を見ないのではないだろうか。全部で200ページほどの短い作品であるが、その作品世界の中に魅入られてしまうような感覚を感じる。

文学が人間というものを描くとするならば、『地下室の手記』は、その到達点に位置する作品である。

現代、この世界においては……スマホ(あるいはパソコン)とインターネットで世界とつながっていながら、同時に、世界から疎外されている人間のあり方というものがある……この作品は、十九世紀に書かれたものであるが、二十一世紀の今日の世界の黙示録のようではないか。

『いだてん』あれこれ「小便小僧」2019-01-29

2019-01-29 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年1月27日、第4回「小便小僧」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/004/

前回は、
やまもも書斎記 2019年1月22日
『いだてん』あれこれ「冒険世界」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/22/9027685

私の見るところ、日本人というのは、オリンピックとノーベル賞が大好きなのである・・・

そのオリンピックを、スラップスティック(ドタバタ)で描こうという今回の企画には、賛否両論あるにちがいない。

明治の終わり、これからの日本の教育を背負ってたつべき東京高等師範学校の学生には、なんらそのような気負いは感じられない。まあ、スポーツのドラマだから、では、これからの日本のスポーツを担うべき人材になろうとしているかというと、また、それとも少し違うような気がする。いったい、彼らは、何のためにスポーツに熱中し、はては、マラソンを走ろうとしているのか。ただ、好きだから、ということでもないようだ。

このあたりの人びとと社会の機微、それをスラップスティックで描き出そうとしているのが、このドラマの目論みと感じる。

ところで、ドラマを見ていて気になっているのが、四三の熊本方言。東京に出てきて寮生活をしているのだが、いっこうに熊本方言がなおっていない。これは、近代の教育機関の中軸たる人材養成を目的とする高等師範学校の学生としては、ちょっとどうかなと思う。

国語史、日本語史の観点から見ても、明治の終わりごろになれば、いわゆる標準的な日本語、国語というものが形成されてきた時期になる。

たとえば、『三四郎』(夏目漱石)、この作品で、九州の五高(熊本)を出て東京の帝大に入学する小川三四郎は、熊本方言を一切使っていない。これは、漱石が意図的に、そのように描いているからである。明治の終わりのころであれば、少なくとも『三四郎』が連載された「朝日新聞」の購読者にあっては、東京で使われるべき標準的な日本語というものが、意識されていたことを示している。

だが、四三は、熊本方言のままである。そして、その方言をただすべきものとしても意識していないようである。これは、故郷の熊本というリージョナリズムの表現ととらえておくべき、ドラマの作り方なのであろう。熊本出身の四三という人物像は、このドラマにおいては、必須の要素ということになる。

次週は、マラソンになって、このドラマの初回へとつながっていく展開のようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-02-05
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月5日
『いだてん』あれこれ「雨ニモマケズ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/05/9032595

雑木林の冬2019-01-30

2019-01-30 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は、家の周囲の雑木林を歩いて、木々の冬芽を写してみた。

前回は、
やまもも書斎記 2019年1月23日
マンリョウの実
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/23/9028046

残念ながら、その木々の名前がわからない。

これが、漢字とかことばであるならば、たとえ大漢和辞典や日本国語大辞典に載っていないようなものが出てきても、なんとか対応できる……わからないなりにそのとりあつかいができるのだが、あいにく植物については、知識がない。

だが、わからないならわからないなりに、写真に撮って楽しむことはできる。使ってみたのは、NikonのD500とマイクロの105ミリである。これからも、身近な植物、草花や木々の写真を撮っていこうとおもって、この組み合わせで使ってみている。使ってみると、被写体と距離をとれるのがいい。このような小さい木の冬芽を写そうと思うと、思いっきり寄らないといけない。そのとき、焦点距離の短いレンズだと、周りの枝などにひっかかってしまうことになる。

今年は、去年の冬にくらべて比較的あたたかい。極端に寒い日がまだない。池の水が凍りつくということもまだない。梅の木の冬芽も見ていると、かなり色づいてきているようだ。木瓜の花が咲くのももうじきかもしれない。

冬芽

冬芽

冬芽

冬芽

冬芽

冬芽

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-02-06
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月6日
梅の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/06/9032947