『ボヴァリー夫人』フロベール2019-02-08

2019-02-08 當山日出夫(とうやまひでお)

ボヴァリー夫人

フロベール.山田𣝣(訳).『ボヴァリー夫人』(「世界の文学」15).中央公論社.1965

『感情教育』を新しい訳で読んで、次に手にしてみたのが、『ボヴァリー夫人』である。

やまもも書斎記 2019年2月7日
『感情教育』フローベール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/07/9033293

『ボヴァリー夫人』は、以前に新潮文庫の訳で読んでいる。

やまもも書斎記 2017年6月16日
『ボヴァリー夫人』フローベール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/16/8598263

二年前に読んだことになる。今回は、古い訳になるが、中央公論社の「世界の文学」を古書で買って読むことにした。訳が変わるとまた印象も変わるかと思って。

この古い訳で読んでみてであるが、ようやく『ボヴァリー夫人』という小説が、世界文学のなかで、特に十九世紀フランスの自然主義文学のなかで、特に評価の高い理由がわかったような気がする。

なるほど、ボヴァリー夫人(エンマ)とは、こんなふうに考える女性であったのかと、どうにか、その心情によりそう形で、小説が読めたように思う。といって、エンマの気持ちが十分に理解できたというのではない。が、少なくとも、小説を読んでいって、その心理の動きをたどることができた。フランスの自然主義文学ということである。ここは、とにかく主人公の心理の流れを自分のなかに感じ取らないでは読んだことにならないだろう。

はっきり言って、『感情教育』は読んでよく分からなかった。その主人公の心理についていけなかったと言ってよい。だが、今回、『ボヴァリー夫人』については、どうにか、主人公のエンマの気持ちの動きに、読んでいってついていけたように感じる。(といって、エンマの行為に賛成するということではないが。)

読んでいて、ふと小説中のエンマの心のうちによりそってしまっていることに気付くことがあった。こういうのを自然主義文学というのだなと得心する。

この作品、また時間をおいて再々度、読み返してみたい作品である。登場人物の心のうちによりそって読むことこそ、文学を読む楽しみである。