「古典は本当に必要なのか」私見(その三)2019-02-16

2019-02-16 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月26日
「古典は本当に必要なのか」私見(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/26/9029000

シンポジウムをYouTubeで見ていて、ちょっと気になったことなので書いておくことにする。

古典肯定派からの意見として、「情理をつくしてとく」ということが言われていた。私は、これには深く同意するものである。『徒然草』を教材にして、「花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかは」のくだりに言及しての発言である。

確かに、ディベート技術といわれるものもこれからの国語教育では必要であろう。また、説明文などの技術的文書の書き方、読み方も必要であると思う。このこと自体には異存はない。

だが、それだけでいいのだろうか。

人と話しをして、特に自分とは異なる意見の持ち主に対して、ただ、論理的に論破すればいい、これだけでいいのだろうか。人と人とのコミュニケーションにおいて、最終的に、人間関係を構築するうえで重要なのは、「情理をつくしてとく」という姿勢にあるのではないか。

この意味においては、「古典」の教育は、意味のあるものでなければならないと思う。

そして、さらに言えば、現代文においても重要である。『山月記』『羅生門』『舞姫』『高瀬舟』……といった、定番の国語教材(近代文学作品)は、読んでいったい何の役にたつのか。私は、これは、最終的には、自分と異なる立場・意見のひとに接したとき、「情理をつくしてとく」ということにつながるのであると思う。そして、自分とは異なる立場・意見のひとのことばに、耳を傾けるという姿勢、これこそ、これからの時代において本当に必要になってくるものなのではないだろうか。

多様性の尊重ということが、今の時代、これからの時代には求められる。そのとき、異なる立場・意見のひとにどう対するべきか、これは、ただ、ディベートで勝てばよいという発想では対処しきれない問題があると思う。

私は、国語教育は、言語コミュニケーション教育を重視すべきであるという立場をこれまでとってきた。学生に文章の書き方を教えるときでも、基本的に、国語教育のうちの情操教育については、批判的な観点から話しをしてきた。

だが、ここにきて、国語教育のなかから、文学教育・情操教育という側面が、まさに否定されようとしているとき、あえて立ち止まって、このことの必要性を改めて考え直すことの意味を、強く感じるものである。

何故、私はこのように考えるのか、何故、あなたのように考えることはできないのか……考えて見ることの姿勢は、まさに今の時代にこそ必要とされるものであるにちがいない。そこには、相手の立場にたって考えてみる「想像力」が必要である。

このようなこと、かなり以前に、内田樹がどこかのエッセイで書いていたことと記憶している。まだ、そんなに有名ではない、評論家であったころの著作においてである。

情理つくしてとく……このことのためには、「文学的な想像力」の教育こそ不可欠であると、私は思う。この観点においても、「古典」の教育は、再度かえりみられなければならないと考える。

最後に付け加えて書いておきたいことがある。「古典は本当に必要なのか」をめぐっては、様々にWEB上で議論がある。それらを見て思うことがある。次のことは語ってはいけないことだと、自分自身への自省として思っていることである。

それは、
・高校の時のルサンチマンを語らない
・自分の今の専門への愛を語らない
この二つのことがらである。

このことをふまえたうえで、何故、古典は必要なのか、あるいは、必要でないのか。また、他の教科・教材についてはどうなのか、議論されるべきだと思うのである。