『いだてん』あれこれ「おかしな二人」2019-02-19

2019-02-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』第7回「おかしな二人」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/007/

前回は、
やまもも書斎記 2019年2月12日
『いだてん』あれこれ「お江戸日本橋」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/12/9035214

今回は、オリンピックとお金の話し。

ストックホルムに行けることになった四三には、そのお金がない。一方、お金持ち三島弥彦には、家(三島家)としてオリンピックには、関心がないようだ。

オリンピックにはお金がつきまとう。今もそうだし、昔もそうだったようだ。

かつて、日本におけるオリンピックは、アマチュアリズムが非常に強く意識されていた。1964年の東京オリンピックの時は、まさにそのような時代であった。この時代にあって、国家の保護のもとに選手の養成がなされている、東側……この時代まだ東西冷戦の時代でもあった……の国、特にソ連とか東ドイツとか、いろいろとりざたされたのを記憶している。

だが、今は、オリンピックは商業主義のもとにある。その開催をめぐっては、多額の金銭が動く。そこには、様々な企業の利権がからんでいる。その一方で、現場で出場する選手に、公的に金銭補助があるかといえば、必ずしもそうではないようである。

このようなオリンピックとお金の話しは、かつてのストックホルム大会のときから、なにがしか存在していたということになる。まあ、少なくとも、オリンピック開催や出場にまつわる、利権がらみの金銭の話しはなかったようであるが。

明治のころなら……優秀だが貧乏な学生に、素封家が学資など援助するということがあったかと思うが、四三の場合、特にそのような縁にはめぐまれていなかったらしい。

ここにきても、四三は、「一等国」となった日本を代表してという意識はそんなに持っていない。何のために走るのかも特に意識していないようだ。ただ、走るのが好きだから走っているように描かれている。また、かたや、三島弥彦についても、「国」というものへの意識がほとんどない。

このあたり、明治の終わりの日本の若者を描きながら、ナショナリズムの心情をまったくといっていいほど描かない。これは、このドラマの脚本の意図なのであろうとは思う。

私は、ナショナリズムを悪いものだとは思っていない。だが、その後のオリンピックの歴史を描くときに、どうしてもナショナリズムは避けてとおるできないものとしてある。そのことは分かったうえで、あえて、このドラマにおいては、ナショナリズムを吹き飛ばした脚本になっているのだと理解している。

しかし、それにしても、四三の熊本方言はあいかわらずである。高等師範学校でいったい何を学んでいるのだろう。四三の本分は学生として教師になる勉強をすることにあるのではないのだろうか。ここのところが、まったくといっていいほど出てこないのが、少し気になっている。

追記 2019-02-26
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月26日
『いだてん』あれこれ「敵は幾万」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/26/9040869