『源氏物語』(五)新潮日本古典集成2019-02-25

2019-02-25 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(五)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(五)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620822/

続きである。
やまもも書斎記 2019年2月23日
『源氏物語』(四)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/23/9039568

新潮日本古典集成の第五巻には、「若菜」の上・下をおさめる。昔、若い時……大学で国文科の学生だったころ……『源氏物語』は「若菜」の巻を読んでおく必要がある、あるいは、「若菜」の巻を中心にして、それまでのストーリーと、それからのストーリーが展開することになる、このようなことを習った記憶がある。

確かに、今になって読んで見ると……「若菜」の巻をきちんと読むのは、何十年ぶりかになるのだが……確かに、これまでに進んできたストーリー……これは、「紫上」系と、「玉鬘」系の二系統の物語が進行してきていることは読んで感じるところであるが……それが、「若菜」の巻にいたって、ようやく一緒になる。とはいえ、メインは「紫上」系の話しとなっている。

ここまで、「桐壺」から順番にページを繰ってきて、ようやく、小説的な面白さを感じると言っていいだろうか。あるいは、現代においても、「文学」として『源氏物語』が読まれるとするならば、その核心の部分に到達すると言ってもよい。

ここで描かれるのは、光源氏の栄華の絶頂であり、そのなかにしのびこんでくる、女三の宮の不倫である。これが、柏木の視点、夕霧の視点、さらには、女三の宮の視点を、たどるかたちで展開していく。その不義密通の場面は、まさにドマラチックであると言ってよい。といって、あからさまな描写があるというのではない。女三の宮と柏木との不倫が、実に濃厚な心理描写として描かれている。また、それを知ることになる光源氏の懊悩もある。

それに加えて、この物語を小説的に面白くしているのが、紫の上の心理描写である。女三の宮を迎えることになるいきさつを繞って、紫の上の心のうちに迫っていく。

平安朝文学が、現代の日本においてどのように読まれるのか、その受容のあり方をめぐっては、国文学という学問の成立とからんで、複雑な議論があることはわかる。だが、今は、そのような議論はさしおいて、読んで面白いかどうか……このところだけで考えてみるならば、『源氏物語』は面白い。去年から読んできた、プルースト『失われた時を求めて』や、ドストエフスキーの小説、これに続けて読んで見て、確かに、ここには「文学」があると確信する。

整理して考えて見るならば、次の三点になるだろうか。

第一には、その当時の平安王朝文学として読む立場である。このような立場からすれば、和歌の贈答や、叙述における引き歌の箇所などに注目して読むことになる。

第二には、広く平安時代の文学として、『今昔物語集』のような説話的要素を読みとる立場である。『源氏物語』として一つの作品になってはいるが、その中の話しのいくつかは、説話的な部分からなることが読んでいて感じることである。あるいは、また、『源氏物語』と漢詩文や音楽などとの関連をかんがえることもできる。

第三には、まさに現代の視点から、小説、それも心理小説として読む立場である。おそらく現代の読者が、『源氏物語』を読んで感じる文学的感銘があるとするならば、今においてもなお通用する心理描写においてである。

以上の三点ぐらいの立場に整理して、読むことができるだろうか。

新潮古典集成版の第五巻を終わって、のこるは、「宇治十帖」になる。どのような『源氏物語』の展開になるのか、期待して読むことにしよう。

追記 2019-02-28
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月28日
『源氏物語』(六)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/28/9041643