『ある詐欺師の告白』トーマス・マン2019-02-11

2019-02-11 當山日出夫(とうやまひでお)

トーマス・マン

トーマス・マン.高橋義孝(訳).『ある詐欺師の告白』(「世界の文学」35).中央公論社.1965年

この本も古本で買った。「世界の文学」(中央公論社)のトーマス・マンの巻におさめるのは、
「ある詐欺師の告白-フェリクス・クルルの回想録-」
「トニオ・クレーゲル」
「ヴェニスに死す」
である。

このうち、「ある詐欺師の告白」は、光文社古典新訳文庫でも出ているのだが、あいにくと上下巻のうち下巻が品切れになってしまっている。古書で買うと、なぜだか高い。Kindleでも読めるのだが、私は、あまりKindleで本を読むのが好きではない。古書で「世界の文学」で読むことにした。

読んで思うことは次の二点だろうか。

第一に、抜群に面白い小説であること。読み始め、やや難渋するところが無いではない。だが、我慢して読んでいって、主人公「おれ」が、フランスに移ってくるあたりから、俄然面白くなる。こんな面白い小説はめったにないと感じさせるほどである。

第二に、その面白いストーリーの中に語られる、人生や芸術についての様々な知見。まさにトーマス・マンならではの小説と感じるところである。それが、『魔の山』ではやや退屈な印象を持って読んでしまったのだが、この小説になると、そのような部分はストーリーの中に溶け込んで語られるので、すんなりと読んでいける。

以上の二点が、この小説を読んで思うことである。

この小説は未完に終わっている。1922に初稿が出版され、1954年に決定第三稿の刊行である(解題による)。30年以上にわたって書き継がれてきたこの小説に、著者の小説家としての歩みを見てとることができる。トーマス・マンの世界観、芸術観の凝縮してある作品だと読んで感じる次第である。

『いだてん』あれこれ「お江戸日本橋」2019-02-12

2019-02-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年2月10日、第6回「お江戸日本橋」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/006/

前回は、
やまもも書斎記 2019年2月5日
『いだてん』あれこれ「雨ニモマケズ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/05/9032595

オリンピックの代表に選ばれた四三は、その気がないという。いや、そもそも、オリンピックがどんなものかも分かっていなかったようだ。ただ、走るのが好きではある。しかし、スポーツというものについても、今ひとつ理解がないようである。まあ、この当時……明治の終わりごろ……の日本の普通の人びとの感覚とは、こんなものだったのだろう。

オリンピックの代表に選ばれたと知って四三は、びっくりする。日本国を代表して海外の試合に出る。負けたら切腹ですか……この箇所、かなりコミカルに描いていたけれども、しかし、そのころの日本の若者の考えるところは、このようなところであったのかもしれない。ここを、嘉納治五郎は、そんなことはないと説得してはいたのだが、どうもうまくいったとは思えない。

官費で派遣されることになるから、重責を担うことになる。では、私費で行けばいい。それならば、負けても特にどうということはない。

まあ、確かにそのとおりなのかもしれないが、九州のそれほど豊かであるとも思えない農家の子どもである四三に、この費用の負担はむずかしいのではないか。そもそも、師範学校というもの自体が、官費で運営されている。これからの国家にとって枢要をしめる教育の人材養成の機関であったはずである。その学生である四三に、長期にわたって学校を休んで、海外のスポーツの試合に出てくることを要請すること自体、まだまだ無理があったように思える。

あるいは、費用が、仮に官費で支給されるとしても、純粋に競技に参加することに意義がある、ということには、簡単にはならないだろう。いやおうなしに、「日本」というものを意識せざるをえないにちがいない。

だが、このドラマは、そのような「日本」に対するナショナリズムを、軽く吹き飛ばすような描き方をしている。これはこれで、一つの方針にはちがいない。

一方、この回に出てきた、中国の辛亥革命のこと。当時の東アジア情勢を考えてみるならば、まさに、ナショナリズムの時代である。中国のナショナリズム……辛亥革命……は肯定的に描きながらも、日本のナショナリズムは、どうでもいいいような感じで軽く描いてしまう。

このドラマ、とにかく、日本のナショナリズムをどう描くかが、ポイントであるにはちがいない。これまでのところ、どのような形にせよこれを描くことは避けているようである。また、ナショナリズムを軽く受け流すだけの「毒」をもった登場人物として、志ん生(ビートたけし)が起用されてることになる。

何度も繰り返し書くが、ストックホルムの次には、ベルリンのオリンピック「民族の祭典」があり、幻に終わった昭和15年(1940)の東京オリンピックがあることになる。まさに、ナショナリズムと当時の国際情勢抜きには、描くことのできないところになる。さらに、昭和39年(1964)の東京オリンピックも、ある意味で戦後日本のナショナリズムの高揚を感じさせる大会であったはずである。

中国の辛亥革命を描きながら、日本のナショナリズムは無意味なもののようにえがいている。スポーツとナショナリズムをどう描いて見せることになるのか、宮藤官九郎の脚本については、やや欺瞞的なところを感じずにはいられない。ここは、東アジアのナショナリズムを肯定的に描きながら、一方で、現代の視点(志ん生)の毒舌で笑い飛ばして見せる……このような展開を期待して見ている。あるいは、当時の東アジアの国々におけるナショナリズム……日本であり、朝鮮であり、台湾であり、そして、中国である……を、ダイナミックに描くことも、不可能ではないかもしれないのだが、このドラマにそこまで期待するのは無理だろうか。

追記 2019-02-19
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月19日
『いだてん』あれこれ「おかしな二人」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/19/9038000

紫陽花の冬芽2019-02-13

2019-02-13 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。冬の間なので花は咲いていない。今日は紫陽花の冬芽である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年2月6日
梅の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/06/9032947

我が家にわずかながら紫陽花がある。そんなに手入れして育てているというのではないが、季節になると花を咲かせる。その紫陽花の冬の様子である。

見ると、紫陽花の冬芽はなかなか興味深い形をしてる。写真に撮ってみると面白い。これから、この冬芽が、どんなふうに葉になり花になっていくのか、観察してみようかと思う。庭にある草木も、その季節の移り変わりがあることに気付く。

使っている機材は、NikonのD500に、マイクロ105ミリ(f/2.8)である。このような写真を撮るのに、ほどよく被写体と距離がとれるので、このレンズを重宝して使っている。

紫陽花の冬芽

紫陽花の冬芽

紫陽花の冬芽

紫陽花の冬芽

紫陽花の冬芽

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-02-20
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月20日
沈丁花のつぼみ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/20/9038377

鳥羽に行ってきた2019-02-14

2019-02-14 當山日出夫(とうやまひでお)

二月になって、思い立って鳥羽まで行ってきた。

浦村の牡蠣を食べにである。このあたり、牡蠣の養殖が盛んな地域でもある。冬になると、牡蠣を専門に出す店が多くなる。特に伊勢の的矢湾の牡蠣は、ブランドとして有名だが、浦村もおいしい。

我が家からだど、自動車で、3~4時間ほどである。今回は、長男の運転で行くことにした。自動車は、日産のノートe-Powerである。朝の8時すぎに家を出て、途中ちょっと休憩。目的の店には、11時半ごろついた。

焼き牡蠣と蒸し牡蠣の2種類がある。私はもっぱら蒸し牡蠣をたべることにする。焼くと牡蠣の殻がこわれて、身にまざる。それが、蒸し牡蠣だと、牡蠣だけきれいに食べられる。30~40個ぐらいは食べたろうか。食べ放題には、牡蠣フライが3個と、ご飯、味噌汁がついてくる。90分の時間なのだが、1時間もたべてはいられない。ひたすら牡蠣をたべていた。

調味料は何もつけない。水揚げしたばかりの牡蠣であるので、海水の塩分で、少し味がついている。たべているとそれだけでも、かなり塩からく感じるぐらいである。水は、途中の高速のサービスエリアの自動販売機で買っておいた。

食べ放題というシステムは、得なのか損なのかよくわからないところがある。が、まあ、年に一度ぐらいは、こんな時があってもいいかと思っている。

12時半ぐらに食べ終わって、伊勢神宮にむかった。このところ、数年、伊勢神宮には参拝している。今年に限ったことではないのかもしれないが、伊勢神宮でも、参拝客、というよりも観光客、それも、外国人が増えているように感じる。参道を歩いていても日本語ではない話し声を耳にする。

参拝をおえて、時間があるので、今回の目的地のもう一つである、斎宮歴史博物館に向かうことにした。

カメラは、(買った順番としては古くなるが)NikonのD7500を持っていった。レンズは、16-80mm f/2.8-4E ED VR である。コンパクトカメラを持って行ってもよかったのだが、たまの外出であるし、自動車で行って他にたいした荷物があるというのでもないので、一眼レフを持っていくことにした。

鳥羽

鳥羽

Nikon D7500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR

追記 2019-02-15
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月15日
斎宮歴史博物館に行ってきた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/15/9036288

斎宮歴史博物館に行ってきた2019-02-15

2019-02-15 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年2月14日
鳥羽に行ってきた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/14/9035902

伊勢神宮から、次は、斎宮歴博物館をめざした。

斎宮歴博物館
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/

伊勢の斎宮のことは、国文学という勉強をすれば、どうしても目にする。まずは『伊勢物語』であり『源氏物語』である。

伊勢の斎宮、賀茂の斎院、このことは知識としては知っていても、その実態については、ほとんど知らないで過ごしてきた。賀茂の斎院については、毎年の葵祭のことでニュースで目にはするのだが。

ちょうど今、『源氏物語』を読んでいる。伊勢の斎宮がでてくる。その興味もあって、この際と思って行ってみることにした。

伊勢神宮からだと自動車で30分ぐらいだろうか。一般道を走る。非常に立派な施設である。展示を見て感じたことは……伊勢の斎宮は、朝廷の直轄であったこと、そして、その規模がかなり大規模なものであったこと。このようなこと、この博物館に行って展示を見るまでは知らないでいた。

実は、もっと質素なものであったかと思っていたのだが、実際、その最盛期のころは、かなりの規模で威儀のあるものであったようである。その組織も、朝廷のそれに同じように整備され、格式のあったものらしい。

といって、その仕事としては、年に三回ほど、伊勢神宮の行事に参加するほどのことだったらしい。

また、展示品の中で、私の興味を引いたのは、いわゆる「墨書土器」の出土品。なぜ、土器などに文字を書いたのだろうか。しかも、それほど意味のある文字とは思えない。

展示を見てから帰路についた。来たときと同じように伊勢自動車道から新名神、京滋バイパスを通ってかえった。夕方に家にかえった。

斎宮歴史博物館

「古典は本当に必要なのか」私見(その三)2019-02-16

2019-02-16 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月26日
「古典は本当に必要なのか」私見(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/26/9029000

シンポジウムをYouTubeで見ていて、ちょっと気になったことなので書いておくことにする。

古典肯定派からの意見として、「情理をつくしてとく」ということが言われていた。私は、これには深く同意するものである。『徒然草』を教材にして、「花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかは」のくだりに言及しての発言である。

確かに、ディベート技術といわれるものもこれからの国語教育では必要であろう。また、説明文などの技術的文書の書き方、読み方も必要であると思う。このこと自体には異存はない。

だが、それだけでいいのだろうか。

人と話しをして、特に自分とは異なる意見の持ち主に対して、ただ、論理的に論破すればいい、これだけでいいのだろうか。人と人とのコミュニケーションにおいて、最終的に、人間関係を構築するうえで重要なのは、「情理をつくしてとく」という姿勢にあるのではないか。

この意味においては、「古典」の教育は、意味のあるものでなければならないと思う。

そして、さらに言えば、現代文においても重要である。『山月記』『羅生門』『舞姫』『高瀬舟』……といった、定番の国語教材(近代文学作品)は、読んでいったい何の役にたつのか。私は、これは、最終的には、自分と異なる立場・意見のひとに接したとき、「情理をつくしてとく」ということにつながるのであると思う。そして、自分とは異なる立場・意見のひとのことばに、耳を傾けるという姿勢、これこそ、これからの時代において本当に必要になってくるものなのではないだろうか。

多様性の尊重ということが、今の時代、これからの時代には求められる。そのとき、異なる立場・意見のひとにどう対するべきか、これは、ただ、ディベートで勝てばよいという発想では対処しきれない問題があると思う。

私は、国語教育は、言語コミュニケーション教育を重視すべきであるという立場をこれまでとってきた。学生に文章の書き方を教えるときでも、基本的に、国語教育のうちの情操教育については、批判的な観点から話しをしてきた。

だが、ここにきて、国語教育のなかから、文学教育・情操教育という側面が、まさに否定されようとしているとき、あえて立ち止まって、このことの必要性を改めて考え直すことの意味を、強く感じるものである。

何故、私はこのように考えるのか、何故、あなたのように考えることはできないのか……考えて見ることの姿勢は、まさに今の時代にこそ必要とされるものであるにちがいない。そこには、相手の立場にたって考えてみる「想像力」が必要である。

このようなこと、かなり以前に、内田樹がどこかのエッセイで書いていたことと記憶している。まだ、そんなに有名ではない、評論家であったころの著作においてである。

情理つくしてとく……このことのためには、「文学的な想像力」の教育こそ不可欠であると、私は思う。この観点においても、「古典」の教育は、再度かえりみられなければならないと考える。

最後に付け加えて書いておきたいことがある。「古典は本当に必要なのか」をめぐっては、様々にWEB上で議論がある。それらを見て思うことがある。次のことは語ってはいけないことだと、自分自身への自省として思っていることである。

それは、
・高校の時のルサンチマンを語らない
・自分の今の専門への愛を語らない
この二つのことがらである。

このことをふまえたうえで、何故、古典は必要なのか、あるいは、必要でないのか。また、他の教科・教材についてはどうなのか、議論されるべきだと思うのである。

『まんぷく』あれこれ「できたぞ!福子!」2019-02-17

2019-02-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第20週「できたぞ!福子!」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index20_190211.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年2月10日
『まんぷく』あれこれ「10歩も20歩も前進です!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/10/9034402

やっとインスタントラーメン「まんぷくラーメン」の完成である。

油であげればうまくいく、このことにようやく気付いてからが、本格的な研究のはじまりであった。それにあう、麺のつくりかた、スープ、油の質や温度、時間など……ことこまかな試行錯誤があった。

このあたりのことをじっくりと描いているのが、『まんぷく』というドラマの作り方の良さなのだと思う。これが平凡なドラマだったら、油であげることに気付いたとことで、即、完成……ということになっていてしまったかもしれない。

しかし、その製造は、どうみても家内制手工業の域を出ない。ほとんど家族と身内の人間だけで作っている。製造の現場も、もとの研究所をそのままつかているようだ。

これから本格的に「まんぷくラーメン」が売れるとしたら、まずは、製造について設備投資が必要になるだろう。工場を作る必要がある。また、宣伝、販売についても、きちんとした会社組織にすることが求められるにちがいない。

今週で第20週目。まだこのドラマは、一ヶ月半ほど残っている。これからの萬平と福子の生活はどうなるのだろうか。

それから、気になっているのは特許のこと。これをきちんとしておかないと困ることになりはしないだろうか。次週を楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-02-24
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月24日
『まんぷく』あれこれ「作戦を考えてください」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/24/9039959

『源氏物語』(一)新潮日本古典集成2019-02-18

2019-02-18 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(一)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(一)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620818/

『源氏物語』を読んでいる。ふと思い立って読むことにした。本居宣長の『紫文要領』を読んだのだが、『源氏物語』を「桐壺」の巻から順番にページを繰ってみたくなった。

やまもも書斎記 2019年2月9日
『紫文要領』本居宣長
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/09/9033986

『源氏物語』をはじめて読んだのは、いつのころだったろうか。高校の古典の教科書に出てきたのは憶えている。「若紫」の巻だったろうか。

それから、特別に補習授業のようなかたちで、「夕顔」の巻を読んだのを憶えている。これは、テキスト版として刊行されている本で、これだけで一冊になっていた。「夕顔」の巻のほとんどを読んだだろうか。

大学(慶應義塾大学文学部)の国文科で学ぶことになった。国文科の学生として、『源氏物語』ぐらいは、一通り読んでおくべきものという意識は持っていた。古い岩波の古典文学大系で読んだかと思う。

その当時、国文科には、池田彌三郎先生がいた。その講義にはでたものである。その講義の中での話しだったか、あるいは、その著書であったか……『源氏物語』は「若菜」(上・下)の巻をきちんと読んでおけば理解できる、という趣旨のことを教わった。

「若菜」(上・下)を読んだのを憶えている。

また、私の学生の時の勉強として、「源氏物語三段階成立説」があった。『源氏物語の研究』(武田宗俊)を読んだ。また、そのころ、大野晋説としても、源氏物語の成立論が出されたころだったろうか。

そのようなことをふまえて、「紫上」の巻を読み、「玉鬘」の巻を読み、さらに、「宇治十帖」を読み、というふうに読んだものである。

ともあれ、「桐壺」の巻は読んでいたものの、「桐壺」から順番に読むということはしていない。

もう国語学という勉強からも遠ざかろうと思っている今になって、『源氏物語』を「桐壺」から順番に読んでおきたいという気になった。文学作品として読んでおきたくなったのである。

どのテキストで読むかであるが……古い岩波の日本古典文学大系は、今では古めかしいかと感じる。新しい岩波の新日本古典文学大系もいいのだが、この本は、底本である大島本に忠実に本文がつくってある。ちょっとなじみにくい。仮名遣い、表記など。今、刊行中の岩波文庫本ぐらいがちょうどいい……仮名遣いが歴史的仮名遣いに改めてある、注もついている……しかし、まだ、このシリーズは、全巻揃っていない。小学館の新編日本古典文学全集もいいのだが、これは、私にとっては、どうも現代語訳がわずらわしい。原文のままで理解できるところを、わざわざ現代語訳をたどらないと校注の意図とれないのは、ちょっと読むのに不都合を感じる。

新潮社が、日本古典集成を「新装版」という形で再刊している。これで読むことにした。本文は、一般の源氏物語と同様、青表紙本系統をつかってある。表記についても、歴史的仮名遣いになっているし、適当に注もついている。

これまでの勉強として日本語の表記の研究というようなことを考えてきたのではあるが……ここは、割り切って『源氏物語』を、一つの文学作品としてただひたすら順番にページを繰っていきたいと思うので、この本で読むことにした。

で、ようや第一巻である。「桐壺」から「末摘花」までをおさめる。読むのに二日ほどかかったろうか。ほぼ一気に読んでしまった。

途中、注釈を読んでもなかなか意味のとりにくいところもある。ただ、古語の知識だけではどうにも理解できない。そのような箇所は、やはりこの物語が、読まれ続けてきた歴史があるからこそ読める、というところなのであろう。読んでいるのは現代の注釈書であるが、しかし、その解釈のなかには、平安の昔からこの物語が読まれ続けてきた歴史というものを感じる。

『源氏物語』が、いつどのような形で現存する五十四帖になったかは不明のようだが、しかし、順番に書かれたということはないであろう。といって、源氏物語三段階成立説というわけでもない。が、少なくとも、現在の巻々の順番に書かれたということはないだろうと思う。いわゆる「雨夜の品定」の箇所など、後になってから書き足したかと感じるし、「帚木」「空蝉」「夕顔」の巻は、やはり「紫上」系のストーリーとは別系統の話しとしてある。

ともあれ、もう『源氏物語』を読んで、それで論文を書こうとは思っていない。ただ、老後の読書の楽しみとして読んでおきたい。本居宣長は「桐壺」から順番にこの物語を読んでいる。そのあとをたどる形で、この物語を読んでおきたいと思う。

追記 2019-02-21
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月21日
『源氏物語』(二)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/21/9038816

『いだてん』あれこれ「おかしな二人」2019-02-19

2019-02-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』第7回「おかしな二人」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/007/

前回は、
やまもも書斎記 2019年2月12日
『いだてん』あれこれ「お江戸日本橋」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/12/9035214

今回は、オリンピックとお金の話し。

ストックホルムに行けることになった四三には、そのお金がない。一方、お金持ち三島弥彦には、家(三島家)としてオリンピックには、関心がないようだ。

オリンピックにはお金がつきまとう。今もそうだし、昔もそうだったようだ。

かつて、日本におけるオリンピックは、アマチュアリズムが非常に強く意識されていた。1964年の東京オリンピックの時は、まさにそのような時代であった。この時代にあって、国家の保護のもとに選手の養成がなされている、東側……この時代まだ東西冷戦の時代でもあった……の国、特にソ連とか東ドイツとか、いろいろとりざたされたのを記憶している。

だが、今は、オリンピックは商業主義のもとにある。その開催をめぐっては、多額の金銭が動く。そこには、様々な企業の利権がからんでいる。その一方で、現場で出場する選手に、公的に金銭補助があるかといえば、必ずしもそうではないようである。

このようなオリンピックとお金の話しは、かつてのストックホルム大会のときから、なにがしか存在していたということになる。まあ、少なくとも、オリンピック開催や出場にまつわる、利権がらみの金銭の話しはなかったようであるが。

明治のころなら……優秀だが貧乏な学生に、素封家が学資など援助するということがあったかと思うが、四三の場合、特にそのような縁にはめぐまれていなかったらしい。

ここにきても、四三は、「一等国」となった日本を代表してという意識はそんなに持っていない。何のために走るのかも特に意識していないようだ。ただ、走るのが好きだから走っているように描かれている。また、かたや、三島弥彦についても、「国」というものへの意識がほとんどない。

このあたり、明治の終わりの日本の若者を描きながら、ナショナリズムの心情をまったくといっていいほど描かない。これは、このドラマの脚本の意図なのであろうとは思う。

私は、ナショナリズムを悪いものだとは思っていない。だが、その後のオリンピックの歴史を描くときに、どうしてもナショナリズムは避けてとおるできないものとしてある。そのことは分かったうえで、あえて、このドラマにおいては、ナショナリズムを吹き飛ばした脚本になっているのだと理解している。

しかし、それにしても、四三の熊本方言はあいかわらずである。高等師範学校でいったい何を学んでいるのだろう。四三の本分は学生として教師になる勉強をすることにあるのではないのだろうか。ここのところが、まったくといっていいほど出てこないのが、少し気になっている。

追記 2019-02-26
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月26日
『いだてん』あれこれ「敵は幾万」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/26/9040869

沈丁花のつぼみ2019-02-20

2019-02-20 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は、沈丁花、そのつぼみである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年2月13日
紫陽花の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/13/9035524

我が家に一つの沈丁花の木がある。毎年春になると花を咲かせる。その花がもうじき咲きそうになっているところである。

写真に撮ってみると、花の咲いたときよりも、まだつぼみの状態の時の方が、フォトジェニックである。つぼみながら、あたかも花の咲いているような印象がある。あと少しすれば、この花も咲くだろう。その時には、また、花の咲いた状態を写してみることにする。

使っているレンズは、マイクロ105ミリ(2.8)である。FX用のレンズであるが、DXで使っている。使ってみると、このような花の接写のとき、距離をとれるのがいい。ここしばらく、花の写真を写して暮らしてみたいと思って、カメラはD500を使っている。最新のミラーレスのフルサイズ機種から見れば、少し古いカメラになる。それは承知しているのだが、しかし、花のクローズアップの写真を撮るには、DXの方が有利でもある。

沈丁花のつぼみ

沈丁花のつぼみ

沈丁花のつぼみ

沈丁花のつぼみ

沈丁花のつぼみ

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-02-27
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月27日
木瓜の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/27/9041267