『源氏物語』(二)新潮日本古典集成 ― 2019-02-21
2019-02-21 當山日出夫(とうやまひでお)
石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(二)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620819/
続きである。
やまもも書斎記
『源氏物語』(一)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/18/9037548
この第二巻(新潮日本古典集成)で、「須磨」「明石」の巻までをおさめる。ここで止まってしまっては、「須磨源氏」になってしまう。
ここまで、最初の「桐壺」から、とにかく順番に読んできた。もう今になって『源氏物語』を材料にして論文を書こうという気もない。ただ、楽しみの読書として読んできている。そして、この『源氏物語』は、楽しみの読書に十分にこたえるものであることを確認した次第でもある。
読みながら、いくぶん難渋するところが無いではない。特に歌の贈答のあたり、細かな解釈、引き歌など考証を理解しながら読むべきところなのだが……今回は、ひととおり意味が通じればいいという感じで、読み流すことにした。(このような読み方もあっていいだろう。精読というのではなく、通読である。)
そして、感じることは、やはりこの作品は、読まれてきた歴史があるということである。新潮日本古典集成の頭注を見る限りでも、折りにふれて古注に言及してある。『源氏物語』は、その成立の時代……紫式部の同時代……から、読まれ続けてきた歴史がある。例えば『更級日記』の事例など。
その後、定家の校訂などを経て、いくつかの古注がなされてきている。江戸時代になって、『湖月抄』などがあり、それは、本居宣長にひきつがれていく。その源氏論『紫文要領』などをふまえて、近代の「国文学」という学問が成立し、今にいたる。
ざっと以上のような歴史の流れのなかに、現代の注釈書もある。
読まれてきた歴史の積み重ねがなければ、どうしてこの文言がこのように解釈できるのか、というところがいくつかある。
また、ひたすらストーリーを追うようにして読んでみてであるが、この物語が、読んで面白いものであることを感じた……まあ、月並みな感想になるが、文学としての『源氏物語』を感じて読むことができた、と言ってよいであろうか。
とはいえ、和歌のやりとりや、引き歌など、当時の文学史的背景についての理解が必要なことはいうまでもない。しかし、そこのところを校注本によって軽く読み流すとしても、この物語は、面白い。
次は、第三巻である。「須磨源氏」で終わらないように、引き続いて読むことにしよう。
https://www.shinchosha.co.jp/book/620819/
続きである。
やまもも書斎記
『源氏物語』(一)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/18/9037548
この第二巻(新潮日本古典集成)で、「須磨」「明石」の巻までをおさめる。ここで止まってしまっては、「須磨源氏」になってしまう。
ここまで、最初の「桐壺」から、とにかく順番に読んできた。もう今になって『源氏物語』を材料にして論文を書こうという気もない。ただ、楽しみの読書として読んできている。そして、この『源氏物語』は、楽しみの読書に十分にこたえるものであることを確認した次第でもある。
読みながら、いくぶん難渋するところが無いではない。特に歌の贈答のあたり、細かな解釈、引き歌など考証を理解しながら読むべきところなのだが……今回は、ひととおり意味が通じればいいという感じで、読み流すことにした。(このような読み方もあっていいだろう。精読というのではなく、通読である。)
そして、感じることは、やはりこの作品は、読まれてきた歴史があるということである。新潮日本古典集成の頭注を見る限りでも、折りにふれて古注に言及してある。『源氏物語』は、その成立の時代……紫式部の同時代……から、読まれ続けてきた歴史がある。例えば『更級日記』の事例など。
その後、定家の校訂などを経て、いくつかの古注がなされてきている。江戸時代になって、『湖月抄』などがあり、それは、本居宣長にひきつがれていく。その源氏論『紫文要領』などをふまえて、近代の「国文学」という学問が成立し、今にいたる。
ざっと以上のような歴史の流れのなかに、現代の注釈書もある。
読まれてきた歴史の積み重ねがなければ、どうしてこの文言がこのように解釈できるのか、というところがいくつかある。
また、ひたすらストーリーを追うようにして読んでみてであるが、この物語が、読んで面白いものであることを感じた……まあ、月並みな感想になるが、文学としての『源氏物語』を感じて読むことができた、と言ってよいであろうか。
とはいえ、和歌のやりとりや、引き歌など、当時の文学史的背景についての理解が必要なことはいうまでもない。しかし、そこのところを校注本によって軽く読み流すとしても、この物語は、面白い。
次は、第三巻である。「須磨源氏」で終わらないように、引き続いて読むことにしよう。
追記 2019-02-22
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月22日
『源氏物語』(三)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/22/9039182
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月22日
『源氏物語』(三)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/22/9039182
追記 2019-12-02
さらに読んだときのものは、
やまもも書斎記 2019年12月2日
新潮日本古典集成『源氏物語』(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/02/9183986
さらに読んだときのものは、
やまもも書斎記 2019年12月2日
新潮日本古典集成『源氏物語』(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/02/9183986
『源氏物語』(三)新潮日本古典集成 ― 2019-02-22
2019-02-22 當山日出夫(とうやまひでお)
石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(三)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620820/
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月21日
『源氏物語』(二)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/21/9038816
第二巻で、「須磨」「明石」の巻を終わったので、須磨源氏にならないで、読み進んでいる。この新潮版の第三巻まで読んだところで思うことは次の二点ぐらいだろうか。
第一に、この巻におさめる「薄雲」の巻。この巻のある部分には思い出がある。昔、高校の時、試験問題に出たので憶えている。明石の上が、姫君を光源氏に渡すシーン。ここで、母親としての愛情を表現した箇所はどこか……このような趣旨の設問だったと思う。
こたえは、「母君みづから抱きて出でたまへり」、であったはずである。
普通、貴族の生活として、子どもを母親自身が抱きかかえるということは、まず無かったろう。乳母がついていて世話をするのが普通。ここは、自分のまだ幼い子ども(明石の姫君)を、光源氏のもとに渡す決心をしたところ。
ただし、この箇所、憶えてはいるのだが、試験の答案を返してもらってはいないので、これであっていたかどうかはわからない。たぶん、これであっているのだろうと思って、今にいたるまで記憶している。
第二に、この第三巻まで読んで感じることは、源氏物語三段階成立説……ということではないが、明らかに「玉鬘」の巻が異質であることに気付く。それまで読んできた、特に「少女」の巻などとくらべるとまったく筆致がことなる。
「少女」の巻などでは、夕霧(光源氏の子)をめぐって、ああでもないこうでもないと、様々に心のうちの描写が延々とつづく。読んでいって、時々はちょっと前にもどって読み直さないと意味が通じないようなところが多い。
だが、「玉鬘」の巻になると、これは、ほとんど説話的である。強いていえば、右近という女房、それから、玉鬘を主人公とした、長谷寺の霊験譚である。この巻は、ほとんど注など見なくても、ストーリーを追っていける。
それに、突然、この巻になって、「夕顔」の巻から姿を消していた右近が、登場してきて、主立った役割をはたすようになるのも、これまで読んで来た印象からすると不自然である。
ここは、やはり、この巻は、後になってから書き足した巻であると判断される。だが、その筆者が、紫式部であったたか、別人であったかは、わからない。
以上の二点が、この新潮版の第三巻まで読んで思うことなどである。つづけて、第四巻を読むことにしよう。
https://www.shinchosha.co.jp/book/620820/
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月21日
『源氏物語』(二)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/21/9038816
第二巻で、「須磨」「明石」の巻を終わったので、須磨源氏にならないで、読み進んでいる。この新潮版の第三巻まで読んだところで思うことは次の二点ぐらいだろうか。
第一に、この巻におさめる「薄雲」の巻。この巻のある部分には思い出がある。昔、高校の時、試験問題に出たので憶えている。明石の上が、姫君を光源氏に渡すシーン。ここで、母親としての愛情を表現した箇所はどこか……このような趣旨の設問だったと思う。
こたえは、「母君みづから抱きて出でたまへり」、であったはずである。
普通、貴族の生活として、子どもを母親自身が抱きかかえるということは、まず無かったろう。乳母がついていて世話をするのが普通。ここは、自分のまだ幼い子ども(明石の姫君)を、光源氏のもとに渡す決心をしたところ。
ただし、この箇所、憶えてはいるのだが、試験の答案を返してもらってはいないので、これであっていたかどうかはわからない。たぶん、これであっているのだろうと思って、今にいたるまで記憶している。
第二に、この第三巻まで読んで感じることは、源氏物語三段階成立説……ということではないが、明らかに「玉鬘」の巻が異質であることに気付く。それまで読んできた、特に「少女」の巻などとくらべるとまったく筆致がことなる。
「少女」の巻などでは、夕霧(光源氏の子)をめぐって、ああでもないこうでもないと、様々に心のうちの描写が延々とつづく。読んでいって、時々はちょっと前にもどって読み直さないと意味が通じないようなところが多い。
だが、「玉鬘」の巻になると、これは、ほとんど説話的である。強いていえば、右近という女房、それから、玉鬘を主人公とした、長谷寺の霊験譚である。この巻は、ほとんど注など見なくても、ストーリーを追っていける。
それに、突然、この巻になって、「夕顔」の巻から姿を消していた右近が、登場してきて、主立った役割をはたすようになるのも、これまで読んで来た印象からすると不自然である。
ここは、やはり、この巻は、後になってから書き足した巻であると判断される。だが、その筆者が、紫式部であったたか、別人であったかは、わからない。
以上の二点が、この新潮版の第三巻まで読んで思うことなどである。つづけて、第四巻を読むことにしよう。
追記 2019-02-23
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月23日
『源氏物語』(四)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/23/9039568
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月23日
『源氏物語』(四)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/23/9039568
追記 2019-12-09
さらにこの本のつづきは、
やまもも書斎記 2019年12月9日
新潮日本古典集成『源氏物語』(三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/09/9186983
さらにこの本のつづきは、
やまもも書斎記 2019年12月9日
新潮日本古典集成『源氏物語』(三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/09/9186983
『源氏物語』(四)新潮日本古典集成 ― 2019-02-23
2019-02-23 當山日出夫(とうやまひでお)
石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(四)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620821/
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月22日
『源氏物語』(三)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/22/9039182
新潮の『源氏物語』は」八巻になっているので、これで半分まで読んだことになる。
読んで感じることは、次の二点だろうか。
第一に、『源氏物語』の世界と、『今昔物語集』の世界は、意外と近いという印象である。特に、髭黒の大将の北の方の話の場面など、『今昔』にあってもいいようなストーリーである。
一般に、平安朝文学を勉強するとき、『源氏物語』などの物語文学の勉強と、『今昔物語集』のような説話文学の分野とは、別のことになってしまっている。もう、隠居した身と思って、ただの楽しみで『源氏物語』を読んでみて感じることは、その説話的な面白さである。
第二に、これは、『源氏物語』の成立論にかかわることだが、「紫上」系の巻と、「玉鬘」系の巻では、やはり文章が異なると感じる。新潮の四巻目は、「初音」から「藤裏葉」までをおさめるのだが、「玉鬘」系の巻は、さほど頭注・傍注を見なくても読んでいける。しかし、「紫上」系の巻になると、頭注の解釈を読んで、何行か前にさかのぼって考えてみないと意味の通じないところ、あるいは、きわめて凝縮した表現になっているので、辞書どおりのことばの解釈ではわからないところが、かなりある。
これは、単なる印象にすぎないと言われればそれまでだが、しかし、読んでいて、文章の筆致が異なることは、確かなことだと思わざるをえない。
次は、第五巻。「若菜」(上・下)の巻をふくむ『源氏物語』において、中核的な位置をしめるところになる。楽しみに読むことにしよう。
https://www.shinchosha.co.jp/book/620821/
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月22日
『源氏物語』(三)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/22/9039182
新潮の『源氏物語』は」八巻になっているので、これで半分まで読んだことになる。
読んで感じることは、次の二点だろうか。
第一に、『源氏物語』の世界と、『今昔物語集』の世界は、意外と近いという印象である。特に、髭黒の大将の北の方の話の場面など、『今昔』にあってもいいようなストーリーである。
一般に、平安朝文学を勉強するとき、『源氏物語』などの物語文学の勉強と、『今昔物語集』のような説話文学の分野とは、別のことになってしまっている。もう、隠居した身と思って、ただの楽しみで『源氏物語』を読んでみて感じることは、その説話的な面白さである。
第二に、これは、『源氏物語』の成立論にかかわることだが、「紫上」系の巻と、「玉鬘」系の巻では、やはり文章が異なると感じる。新潮の四巻目は、「初音」から「藤裏葉」までをおさめるのだが、「玉鬘」系の巻は、さほど頭注・傍注を見なくても読んでいける。しかし、「紫上」系の巻になると、頭注の解釈を読んで、何行か前にさかのぼって考えてみないと意味の通じないところ、あるいは、きわめて凝縮した表現になっているので、辞書どおりのことばの解釈ではわからないところが、かなりある。
これは、単なる印象にすぎないと言われればそれまでだが、しかし、読んでいて、文章の筆致が異なることは、確かなことだと思わざるをえない。
次は、第五巻。「若菜」(上・下)の巻をふくむ『源氏物語』において、中核的な位置をしめるところになる。楽しみに読むことにしよう。
追記 2019-02-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月25日
『源氏物語』(五)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/25/9040411
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月25日
『源氏物語』(五)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/25/9040411
追記 2019-12-16
この本の二回目は、
やまもも書斎記 2019年12月16日
新潮日本古典集成『源氏物語』(四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/16/9189826
この本の二回目は、
やまもも書斎記 2019年12月16日
新潮日本古典集成『源氏物語』(四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/16/9189826
『まんぷく』あれこれ「作戦を考えてください」 ― 2019-02-24
2019-02-24 當山日出夫(とうやまひでお)
『まんぷく』第21週「作戦を考えてください」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index21_190218.html
前回は、
やまもも書斎記 2019年2月17日
『まんぷく』あれこれ「できたぞ!福子!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/17/9037049
インスタントラーメン「まんぷくラーメン」の完成で終わらないのが、このドラマということなのだろう。それを開発してから、どう売っていくか、会社をどうするかというあたりのことまでふくめて、萬平と福子の人生を描くようだ。
まんぷくラーメンは完成したが、なかなか売れない。そこで、テレビコマーシャルを放送することになる。だが、どうだろうか、この時代のテレビの普及率はそんなに高くはなかったはずだから、テレビコマーシャルというのが、そう有効な宣伝媒体ではなかったようにも思えるのだが。
ともあれ、主演(?)は福子ということでテレビコマーシャルができる。そのかいあって、まんぷくラーメンは、売れるようになる。増産が必要になる。工場も新しくつくることになった。従業員もやといいれる。このあたり、会社組織をつくっていく上での苦労というようなものは、あまり描かれていなかった。
そして、案の定というか、売れるようになったまんぷくラーメンの偽物が出てくる。ダネイホンのときもそうだった。しかし、今回の相手は、ダネイホンの時のようにはいかない。
たぶん、これからのこのドラマは、まんぷくラーメンをどう売っていくか、場合によっては、新しい商品の開発にまで話しが及ぶのかもしれない。まあ、できれば、カップヌードルのところまでもっていってもらいたいものである。
しかし、朝ドラで、「会社」という組織を描くことは難しいようだ。今、BSで再放送している「べっぴんさん」では、あまりそこのところがうまく描けていなかったように感じられてならない。『まんぷく』では、食品会社の経営というところをどのように描くことになるのだろうか。あるいは、このあたりは、真一、世良といったメンバーにまかせることになるのかもしれない。
やはり、萬平はものづくりの人間である。常に新しい製品の開発にむかっていく姿こそ、このドラマにはふさわしいように思う。
『まんぷく』第21週「作戦を考えてください」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index21_190218.html
前回は、
やまもも書斎記 2019年2月17日
『まんぷく』あれこれ「できたぞ!福子!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/17/9037049
インスタントラーメン「まんぷくラーメン」の完成で終わらないのが、このドラマということなのだろう。それを開発してから、どう売っていくか、会社をどうするかというあたりのことまでふくめて、萬平と福子の人生を描くようだ。
まんぷくラーメンは完成したが、なかなか売れない。そこで、テレビコマーシャルを放送することになる。だが、どうだろうか、この時代のテレビの普及率はそんなに高くはなかったはずだから、テレビコマーシャルというのが、そう有効な宣伝媒体ではなかったようにも思えるのだが。
ともあれ、主演(?)は福子ということでテレビコマーシャルができる。そのかいあって、まんぷくラーメンは、売れるようになる。増産が必要になる。工場も新しくつくることになった。従業員もやといいれる。このあたり、会社組織をつくっていく上での苦労というようなものは、あまり描かれていなかった。
そして、案の定というか、売れるようになったまんぷくラーメンの偽物が出てくる。ダネイホンのときもそうだった。しかし、今回の相手は、ダネイホンの時のようにはいかない。
たぶん、これからのこのドラマは、まんぷくラーメンをどう売っていくか、場合によっては、新しい商品の開発にまで話しが及ぶのかもしれない。まあ、できれば、カップヌードルのところまでもっていってもらいたいものである。
しかし、朝ドラで、「会社」という組織を描くことは難しいようだ。今、BSで再放送している「べっぴんさん」では、あまりそこのところがうまく描けていなかったように感じられてならない。『まんぷく』では、食品会社の経営というところをどのように描くことになるのだろうか。あるいは、このあたりは、真一、世良といったメンバーにまかせることになるのかもしれない。
やはり、萬平はものづくりの人間である。常に新しい製品の開発にむかっていく姿こそ、このドラマにはふさわしいように思う。
追記 2019-03-03
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月3日
『まんぷく』あれこれ「きれいごとは通りませんか」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/03/9042740
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月3日
『まんぷく』あれこれ「きれいごとは通りませんか」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/03/9042740
『源氏物語』(五)新潮日本古典集成 ― 2019-02-25
2019-02-25 當山日出夫(とうやまひでお)
石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(五)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620822/
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月23日
『源氏物語』(四)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/23/9039568
新潮日本古典集成の第五巻には、「若菜」の上・下をおさめる。昔、若い時……大学で国文科の学生だったころ……『源氏物語』は「若菜」の巻を読んでおく必要がある、あるいは、「若菜」の巻を中心にして、それまでのストーリーと、それからのストーリーが展開することになる、このようなことを習った記憶がある。
確かに、今になって読んで見ると……「若菜」の巻をきちんと読むのは、何十年ぶりかになるのだが……確かに、これまでに進んできたストーリー……これは、「紫上」系と、「玉鬘」系の二系統の物語が進行してきていることは読んで感じるところであるが……それが、「若菜」の巻にいたって、ようやく一緒になる。とはいえ、メインは「紫上」系の話しとなっている。
ここまで、「桐壺」から順番にページを繰ってきて、ようやく、小説的な面白さを感じると言っていいだろうか。あるいは、現代においても、「文学」として『源氏物語』が読まれるとするならば、その核心の部分に到達すると言ってもよい。
ここで描かれるのは、光源氏の栄華の絶頂であり、そのなかにしのびこんでくる、女三の宮の不倫である。これが、柏木の視点、夕霧の視点、さらには、女三の宮の視点を、たどるかたちで展開していく。その不義密通の場面は、まさにドマラチックであると言ってよい。といって、あからさまな描写があるというのではない。女三の宮と柏木との不倫が、実に濃厚な心理描写として描かれている。また、それを知ることになる光源氏の懊悩もある。
それに加えて、この物語を小説的に面白くしているのが、紫の上の心理描写である。女三の宮を迎えることになるいきさつを繞って、紫の上の心のうちに迫っていく。
平安朝文学が、現代の日本においてどのように読まれるのか、その受容のあり方をめぐっては、国文学という学問の成立とからんで、複雑な議論があることはわかる。だが、今は、そのような議論はさしおいて、読んで面白いかどうか……このところだけで考えてみるならば、『源氏物語』は面白い。去年から読んできた、プルースト『失われた時を求めて』や、ドストエフスキーの小説、これに続けて読んで見て、確かに、ここには「文学」があると確信する。
整理して考えて見るならば、次の三点になるだろうか。
第一には、その当時の平安王朝文学として読む立場である。このような立場からすれば、和歌の贈答や、叙述における引き歌の箇所などに注目して読むことになる。
第二には、広く平安時代の文学として、『今昔物語集』のような説話的要素を読みとる立場である。『源氏物語』として一つの作品になってはいるが、その中の話しのいくつかは、説話的な部分からなることが読んでいて感じることである。あるいは、また、『源氏物語』と漢詩文や音楽などとの関連をかんがえることもできる。
第三には、まさに現代の視点から、小説、それも心理小説として読む立場である。おそらく現代の読者が、『源氏物語』を読んで感じる文学的感銘があるとするならば、今においてもなお通用する心理描写においてである。
以上の三点ぐらいの立場に整理して、読むことができるだろうか。
新潮古典集成版の第五巻を終わって、のこるは、「宇治十帖」になる。どのような『源氏物語』の展開になるのか、期待して読むことにしよう。
https://www.shinchosha.co.jp/book/620822/
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月23日
『源氏物語』(四)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/23/9039568
新潮日本古典集成の第五巻には、「若菜」の上・下をおさめる。昔、若い時……大学で国文科の学生だったころ……『源氏物語』は「若菜」の巻を読んでおく必要がある、あるいは、「若菜」の巻を中心にして、それまでのストーリーと、それからのストーリーが展開することになる、このようなことを習った記憶がある。
確かに、今になって読んで見ると……「若菜」の巻をきちんと読むのは、何十年ぶりかになるのだが……確かに、これまでに進んできたストーリー……これは、「紫上」系と、「玉鬘」系の二系統の物語が進行してきていることは読んで感じるところであるが……それが、「若菜」の巻にいたって、ようやく一緒になる。とはいえ、メインは「紫上」系の話しとなっている。
ここまで、「桐壺」から順番にページを繰ってきて、ようやく、小説的な面白さを感じると言っていいだろうか。あるいは、現代においても、「文学」として『源氏物語』が読まれるとするならば、その核心の部分に到達すると言ってもよい。
ここで描かれるのは、光源氏の栄華の絶頂であり、そのなかにしのびこんでくる、女三の宮の不倫である。これが、柏木の視点、夕霧の視点、さらには、女三の宮の視点を、たどるかたちで展開していく。その不義密通の場面は、まさにドマラチックであると言ってよい。といって、あからさまな描写があるというのではない。女三の宮と柏木との不倫が、実に濃厚な心理描写として描かれている。また、それを知ることになる光源氏の懊悩もある。
それに加えて、この物語を小説的に面白くしているのが、紫の上の心理描写である。女三の宮を迎えることになるいきさつを繞って、紫の上の心のうちに迫っていく。
平安朝文学が、現代の日本においてどのように読まれるのか、その受容のあり方をめぐっては、国文学という学問の成立とからんで、複雑な議論があることはわかる。だが、今は、そのような議論はさしおいて、読んで面白いかどうか……このところだけで考えてみるならば、『源氏物語』は面白い。去年から読んできた、プルースト『失われた時を求めて』や、ドストエフスキーの小説、これに続けて読んで見て、確かに、ここには「文学」があると確信する。
整理して考えて見るならば、次の三点になるだろうか。
第一には、その当時の平安王朝文学として読む立場である。このような立場からすれば、和歌の贈答や、叙述における引き歌の箇所などに注目して読むことになる。
第二には、広く平安時代の文学として、『今昔物語集』のような説話的要素を読みとる立場である。『源氏物語』として一つの作品になってはいるが、その中の話しのいくつかは、説話的な部分からなることが読んでいて感じることである。あるいは、また、『源氏物語』と漢詩文や音楽などとの関連をかんがえることもできる。
第三には、まさに現代の視点から、小説、それも心理小説として読む立場である。おそらく現代の読者が、『源氏物語』を読んで感じる文学的感銘があるとするならば、今においてもなお通用する心理描写においてである。
以上の三点ぐらいの立場に整理して、読むことができるだろうか。
新潮古典集成版の第五巻を終わって、のこるは、「宇治十帖」になる。どのような『源氏物語』の展開になるのか、期待して読むことにしよう。
追記 2019-02-28
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月28日
『源氏物語』(六)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/28/9041643
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月28日
『源氏物語』(六)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/28/9041643
追記 2019-12-23
この本についてはさらに、
やまもも書斎記 2019年12月23日
新潮日本古典集成『源氏物語』(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/23/9192818
この本についてはさらに、
やまもも書斎記 2019年12月23日
新潮日本古典集成『源氏物語』(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/23/9192818
『いだてん』あれこれ「敵は幾万」 ― 2019-02-26
2019-02-26 當山日出夫(とうやまひでお)
『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年2月24日、第8回「敵は幾万」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/008/
前回は、
やまもも書斎記 2019年2月19日
『いだてん』あれこれ「おかしな二人」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/19/9038000
結局、ストックホルムにむけて出発することになった、四三と弥彦。だが、この二人には、日本国を背負って戦いに臨むという意気込みはまったくない。これが、このドラマの意図なのだろう。
たしかに、新橋での見送りには、大勢の人がきていた。そして、日の丸の旗をふっていた。また、四三も、また、弥彦も、日の丸の縫い付けてあるユニフォームを贈られることになる。これを着て、オリンピックの開会式に臨み、また、競技に参加することになるのであろう。
だが、しかし、その日の丸は、四三が、また、弥彦が、自ら望んで得たものにはなっていない。四三の場合は、足袋屋の播磨屋の主人から贈られたものであるし、弥彦の場合は、その母親が渡していた。それぞれの場面で二人は感激していはいた。しかし、それは、日の丸に対してではない。ユニフォームを贈ってくれた、播磨屋であり、母親の気持ちに対してであった。
そして、新聞に載ったことば……日本国の代表として戦ってきますという意味のことば……これは、四三が自分自身で語ったことばではなかった。列車の中での記者の取材によって、でっち上げられたことばであった。
このドラマ、四三にせよ、弥彦にせよ、ことごとく、「坂の上の雲」のナショナリズムから遠いものとして描かれている。これが、このドラマの描かんとしているところであろうことは十分に理解できるつもりなのだが……明治の青年としてはどうかなという気がしないでもない。
たぶん、このナショナリズムから、また、ある意味で遠いところにいるのが、四三の同級生の美川であろう。『三四郎』を手にしながら、ストレイシープと言っている。彼もまた、明治のナショナリズムから無縁の存在である。
オリンピックに参加の費用についても、四三も、弥彦も、国家の援助はうけていない。義援金によってであり、自分の資金であったり、ともかくも、国家の援助によって、国家によって、オリンピックに出場するということにはなっていない。
あくまでも、個人として、オリンピックに参加することになる。だが、そうはいっても、見送りの人びとは、日の丸を振って送り出すことになっているのだが。
可能な限り、明治の「坂の上の雲」ナショナリズムを振り捨てて、このドラマは進行している。こうでもしないと、これからの日本とオリンピックの関係を、描ききれないという目算であるのだろうと推測する。この方針で、ベルリンのオリンピックをどのように描くことになるのだろうか。そのあたりを今から楽しみにしている。
それから、相変わらずなのが、四三の熊本方言。これも、明治のナショナリズムから遠いところに位置する彼を表していることになるのだろう。
『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年2月24日、第8回「敵は幾万」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/008/
前回は、
やまもも書斎記 2019年2月19日
『いだてん』あれこれ「おかしな二人」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/19/9038000
結局、ストックホルムにむけて出発することになった、四三と弥彦。だが、この二人には、日本国を背負って戦いに臨むという意気込みはまったくない。これが、このドラマの意図なのだろう。
たしかに、新橋での見送りには、大勢の人がきていた。そして、日の丸の旗をふっていた。また、四三も、また、弥彦も、日の丸の縫い付けてあるユニフォームを贈られることになる。これを着て、オリンピックの開会式に臨み、また、競技に参加することになるのであろう。
だが、しかし、その日の丸は、四三が、また、弥彦が、自ら望んで得たものにはなっていない。四三の場合は、足袋屋の播磨屋の主人から贈られたものであるし、弥彦の場合は、その母親が渡していた。それぞれの場面で二人は感激していはいた。しかし、それは、日の丸に対してではない。ユニフォームを贈ってくれた、播磨屋であり、母親の気持ちに対してであった。
そして、新聞に載ったことば……日本国の代表として戦ってきますという意味のことば……これは、四三が自分自身で語ったことばではなかった。列車の中での記者の取材によって、でっち上げられたことばであった。
このドラマ、四三にせよ、弥彦にせよ、ことごとく、「坂の上の雲」のナショナリズムから遠いものとして描かれている。これが、このドラマの描かんとしているところであろうことは十分に理解できるつもりなのだが……明治の青年としてはどうかなという気がしないでもない。
たぶん、このナショナリズムから、また、ある意味で遠いところにいるのが、四三の同級生の美川であろう。『三四郎』を手にしながら、ストレイシープと言っている。彼もまた、明治のナショナリズムから無縁の存在である。
オリンピックに参加の費用についても、四三も、弥彦も、国家の援助はうけていない。義援金によってであり、自分の資金であったり、ともかくも、国家の援助によって、国家によって、オリンピックに出場するということにはなっていない。
あくまでも、個人として、オリンピックに参加することになる。だが、そうはいっても、見送りの人びとは、日の丸を振って送り出すことになっているのだが。
可能な限り、明治の「坂の上の雲」ナショナリズムを振り捨てて、このドラマは進行している。こうでもしないと、これからの日本とオリンピックの関係を、描ききれないという目算であるのだろうと推測する。この方針で、ベルリンのオリンピックをどのように描くことになるのだろうか。そのあたりを今から楽しみにしている。
それから、相変わらずなのが、四三の熊本方言。これも、明治のナショナリズムから遠いところに位置する彼を表していることになるのだろう。
追記 2019-03-05
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月5日
『いだてん』あれこれ「さらばシベリア鉄道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/05/9043522
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月5日
『いだてん』あれこれ「さらばシベリア鉄道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/05/9043522
木瓜の冬芽 ― 2019-02-27
2019-02-27 當山日出夫(とうやまひでお)
水曜日なので花の写真。まだ咲いている花はないので、今日は木瓜の冬芽。
前回は、
やまもも書斎記 2019年2月20日
沈丁花のつぼみ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/20/9038377
我が家に一本の木瓜の木がある。毎年、春になると赤い花をさかせる。これは、その花の咲く前の冬芽の状態である。この木については去年も写していた。
やまもも書斎記 2018年2月7日
木瓜の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/07/8783734
去年は、85ミリのレンズをつかっていたが、今年は105ミリをつかっている。このレンズだと、被写体との距離がとれるのがいい。カメラは、今年はD500である。
花が咲くのは、来月になってからになるだろう。今年も、また花の咲いたころには写真を写してみたいと思っている。年々歳々という。が、花も同じようでいて、また異なる。写真に撮ってみるようになって、そのことを強く感じるようになった。これから先、何回この木の花の咲くのを目にすることになるだろうか、ふとそんなことを思ってみたりもするようになった。
水曜日なので花の写真。まだ咲いている花はないので、今日は木瓜の冬芽。
前回は、
やまもも書斎記 2019年2月20日
沈丁花のつぼみ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/20/9038377
我が家に一本の木瓜の木がある。毎年、春になると赤い花をさかせる。これは、その花の咲く前の冬芽の状態である。この木については去年も写していた。
やまもも書斎記 2018年2月7日
木瓜の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/07/8783734
去年は、85ミリのレンズをつかっていたが、今年は105ミリをつかっている。このレンズだと、被写体との距離がとれるのがいい。カメラは、今年はD500である。
花が咲くのは、来月になってからになるだろう。今年も、また花の咲いたころには写真を写してみたいと思っている。年々歳々という。が、花も同じようでいて、また異なる。写真に撮ってみるようになって、そのことを強く感じるようになった。これから先、何回この木の花の咲くのを目にすることになるだろうか、ふとそんなことを思ってみたりもするようになった。
Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED
『源氏物語』(六)新潮日本古典集成 ― 2019-02-28
2019-02-28 當山日出夫(とうやまひでお)
石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(六)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620823/
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月25日
『源氏物語』(五)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/25/9040411
新潮版の第六巻で、『源氏物語』の本編は終わる。紫の上の死、それから、光源氏の没後のありさまが語られる。
ここまで読んで来たなかで、特に、紫の上の死の描写が印象深い。私が、これまで読んだ文学作品において、人の死の描写で、印象に残っているのは、ドストエフスキーの『白痴』のラストのシーンがある。それとはまったく印象はことなるが、この『源氏物語』における紫の上の死をめぐる描写は、心に残るものがある。
それから、紫の上の死後のこととして、「匂兵部卿」「紅梅」「竹河」とあるのだが……光源氏の死そのこと自体は、この『源氏物語』では出てこない……やはり、「紫上」系の物語と、「玉鬘」系の物語は、別系統の物語として進行していると思わざるをえない。
そして、「橋姫」「椎本」とつづく。いわゆる「宇治十帖」の巻に入ることになる。読み始めての印象は……若い時にも読んでいるところであるが……ここにいたって、物語が別のステージ移行したという印象を持つ。
これは、本編を読んだときにも感じたことなのであるが、特に、「紫上」系の巻になると、心中思惟の描写が屈折している。その屈折した心中思惟の描写を、「宇治十帖」も引き継いでいると感じる。この意味では、同じ物語の延長線上にある作品として読むことになる。いや、さらにいっそう、心中思惟の描写は屈折しているようにも思える。
また、本編でよく見られたような、季節の風物の描写で場面転換になるということも、少なくなっている。
といって、「宇治十帖」について、別作者説をいまさら言おうなどという気は、さらさらない。いや、仮に別作者であるとしても、本編を十分にひきつぐ形で、「宇治十帖」を書いている。また、『源氏物語』は、古来より「宇治十帖」をふくめて、一括して『源氏物語』として受容されてきたということもある。すくなくとも、『更級日記』を書いた菅原孝標女においては、ひとまとまりの物語として読まれるようになっていたことが知られる。
ともあれ、『源氏物語』は、新潮版で後二巻である。楽しみに読むことにしよう。
https://www.shinchosha.co.jp/book/620823/
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月25日
『源氏物語』(五)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/25/9040411
新潮版の第六巻で、『源氏物語』の本編は終わる。紫の上の死、それから、光源氏の没後のありさまが語られる。
ここまで読んで来たなかで、特に、紫の上の死の描写が印象深い。私が、これまで読んだ文学作品において、人の死の描写で、印象に残っているのは、ドストエフスキーの『白痴』のラストのシーンがある。それとはまったく印象はことなるが、この『源氏物語』における紫の上の死をめぐる描写は、心に残るものがある。
それから、紫の上の死後のこととして、「匂兵部卿」「紅梅」「竹河」とあるのだが……光源氏の死そのこと自体は、この『源氏物語』では出てこない……やはり、「紫上」系の物語と、「玉鬘」系の物語は、別系統の物語として進行していると思わざるをえない。
そして、「橋姫」「椎本」とつづく。いわゆる「宇治十帖」の巻に入ることになる。読み始めての印象は……若い時にも読んでいるところであるが……ここにいたって、物語が別のステージ移行したという印象を持つ。
これは、本編を読んだときにも感じたことなのであるが、特に、「紫上」系の巻になると、心中思惟の描写が屈折している。その屈折した心中思惟の描写を、「宇治十帖」も引き継いでいると感じる。この意味では、同じ物語の延長線上にある作品として読むことになる。いや、さらにいっそう、心中思惟の描写は屈折しているようにも思える。
また、本編でよく見られたような、季節の風物の描写で場面転換になるということも、少なくなっている。
といって、「宇治十帖」について、別作者説をいまさら言おうなどという気は、さらさらない。いや、仮に別作者であるとしても、本編を十分にひきつぐ形で、「宇治十帖」を書いている。また、『源氏物語』は、古来より「宇治十帖」をふくめて、一括して『源氏物語』として受容されてきたということもある。すくなくとも、『更級日記』を書いた菅原孝標女においては、ひとまとまりの物語として読まれるようになっていたことが知られる。
ともあれ、『源氏物語』は、新潮版で後二巻である。楽しみに読むことにしよう。
追記 2019-03-01
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月1日
『源氏物語』(七)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/01/9042032
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月1日
『源氏物語』(七)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/01/9042032
追記 2019-12-30
この本の二回目については、
やまもも書斎記 2019年12月30日
新潮日本古典集成『源氏物語』(六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/30/9195432
この本の二回目については、
やまもも書斎記 2019年12月30日
新潮日本古典集成『源氏物語』(六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/30/9195432
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