ヤマブキ2019-05-01

2019-05-01 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はヤマブキである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月24日
八重桜
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/24/9063726

今年もヤマブキの花が咲いた。去年にくらべると少し遅いかなという気がしないでもなかったが、無事に花をさかせた。

我が家にあるヤマブキの花は八重咲きである。比較的、花の時期は長い。そのつぼみのころから目をとめておいて、折りをみて写真に撮ってみた。ただ、この花は、晴れた日でないと花がきれいでない。雨に濡れてしょぼんとしてる様は、あまり写真向きではない。

カメラは、D500をつかっている。センサーの汚れの除去で、ピックアップ修理に頼んだのだが、一週間ほどで帰ってきた。センサーの清掃ぐらいなら、メーカーのサービスセンターに持って行ってもいいようなものかもしれないが、もう出不精になってしまっている。大阪の街中までカメラを持って出かける気になれない。花の写真も、歩いて行ける範囲のものしか写さないことにしている。これが、ちょっと出かければ、いろいろな花が写真に撮れるのとも思うのだが、今のところこの方針でいる。

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキ

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-05-08
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月8日
アオダモ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/08/9069845

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(上)村上春樹2019-05-02

2019-05-02 當山日出夫(とうやまひでお)

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(上)

村上春樹.『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(上)(新潮文庫).新潮社.2010 (新潮社.1985)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100157/

『ノルウェイの森』に続いて読んだ。

やまもも書斎記 2019年4月27日
『ノルウェイの森』(下)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/27/9065024

これは、「異世界」の物語である。そして、二つの物語が、パラレルに進行する。そして、上巻まで読んだ限りでは、この二つの物語は交わることがない。ただ、接点というべきものが、一角獣の頭骨である。

二つの物語……その一つ、「ハードボイルド・ワンダーランド」は、「私」がエレベーターにはいるところからスタートしている。これは、まさに異世界の入り口に他ならない。そして、そのいきついた先には、さらに、謎の地底世界の暗闇がひろがっている。

そして、もう一つの物語「世界の終り」、これも、門をくぐるところから始まっている。門というこの世界と別の世界の境界をくぐって、「僕」は壁でしきられた異世界に入り込むことになる。そこでの仕事は、「夢」を読むことである。

この世界から異世界へ、そして、夢……村上春樹の文学の重要な概念になることがらが、この小説にはちりばめられている。

この二つの異世界の物語は、これからどう関係していくことになるのであろうか。一角獣とは何なのか。博士はどうなったのか。続きの下巻を楽しみに読むことにしよう。

追記 2019-05-03
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月3日
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(下)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/03/9067654

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(下)村上春樹2019-05-03

2019-05-03 當山日出夫(とうやまひでお)

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(下)

村上春樹.『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(下)(新潮文庫).新潮社.2010 (新潮社.1985)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100158/

続きである。
やまもも書斎記 2019年5月2日
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/02/9067225

なんと奇妙な小説なのだろうか……これが、読み終わっての偽らざる感想である。しかし、そうでありながら、読後感としては、ある種の文学的感銘というべきものがある。

「世界の終り」の物語と、「ハードボイルド・ワンダーランド」の物語は、結局、直接は交わることなく、それぞれに終わりを迎える。強いて接点となるべきものとしては、一角獣の頭骨ということになる。これは、いったい何を象徴しているのだろうか。夢、だろうか。

読み終えて感じることであるが、この二つの物語、それも、異世界の物語とでもいうべきものを語ってきて、最後に、それぞれにきわめて印象的で抒情的でもある結末で終わっている。この小説が、これまで語ってきたことはいったいなんだったのだろうか。

わかりやすく解釈するならば、地底世界、水をわたる、地下鉄……これらは、この世界と別の世界・異世界との「境界」をとおりぬけることを意味する、このように理解できるだろう。また、壁に閉ざされた空間も、外の世界に対して別世界・異世界であるにちがいない。

結局、最後に残るものは、「私」の意識である。あるいは、「僕」の気持ちである。「この世界」を成り立たせているものは、意識であり、あるいは、意志であるのかもしれない。異世界の物語というものを語りながら、最後には、自己の意識の世界の中に回帰している。その意識の反転したものが夢の世界ということになるのだろうか。

そして、終末をむかえていることを意識しながら、そこどこなく、心を安んじるなにかを感じさせる。この最後の安心感とでもいうべきものは何を意味しているのだろうか。世界の終わりが、今そこにあるということが分かっていながら、心が落ち着いていられる、何かしら奇妙な感覚がある。

おそらく、二〇世紀、昭和という時代の日本の文学の達成点が、この小説世界にはあるのだろうとは感じるところである。おそらくそれは、この世界を構築している人間の意識、それによって構築される世界、それは虚構のものかもしれないし、また、その反転したものとしての夢の世界かもしれない。意識と夢というのが、村上春樹の文学の根底にあることは理解できようか。

追記 2019-05-04
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月4日
『風の歌を聴け』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/04/9068083

『風の歌を聴け』村上春樹2019-05-04

2019-05-04 當山日出夫(とうやまひでお)

風の歌を聴け

村上春樹.『風の歌を聴け』(講談社文庫).講談社.2004 (講談社.1979)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000203590

続きである。
やまもも書斎記 2019年5月3日
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(下)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/03/9067654

村上春樹の作品を読んできた。まずは、『1Q84』からはじめて、おおむねさかのぼって読んできた。そして、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ次に、何を読むか。作品の成立順を逆にたどるとなると、『ダンス・ダンス・ダンス』になる。

が、残る作品『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』は、連続する作品のようだ。ということで、ここは、最初の作品である『風の歌を聴け』を読んでおくことにした。

この作品、1979年の作品である。村上春樹のデビュー作ということになる。私の大学生のころに出た作品である。しかし、残念なことに、この作品が世に出たときのことは記憶していない。村上春樹が世に出たとき、そんなに大きなニュースになるということはなかった……これが、私の記憶する偽らざるところである。

そして読んでみてであるが、『1Q84』『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などの長編を読んできた感想からするならば、そのデビュー作とはこんなものだったのか、という印象である。作品の傾向として見るならば、『アフターダーク』『スプートニクの恋人』『国境の南、太陽の西』などの系譜につらなる作品といえるだろうか。

読んで感じることは、いいようのない叙情性とでもいうべきものがある。ふとした光景、人物の設定、行動、景色などに、叙情性を感じる。

そして、同時に感じるのが、虚無感である。

70年代末の雰囲気とはどんなだったろうか、そんなことを思いながら読むことになった。

(これまで読んで来た限りであるが)村上春樹の作品には、直接的には政治的な印象がない。いや、政治的であることを避けているかのようにも見える。60年安保、70年安保という、政治の時代を経たのちにおとずれた、政治的な静寂空間、そこにある叙情性と虚無感、これを描き出した作品として、今の私は『風の歌を聴け』を読むことになる。

次は、『1973年のピンボール』を読むことにする。

追記 2019-05-06
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月6日
『1973年のピンボール』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/06/9068974

『なつぞら』あれこれ「なつよ、お兄ちゃんはどこに?」2019-05-05

2019-05-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第5週「なつよ、お兄ちゃんはどこに?」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/05/

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月28日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、女優になれ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/28/9065372

なつと母は、東京にやってきた。兄の咲太郎をさがすためである。

いわくありげな、なにかしら謎をひめているような、新宿の川村屋のマダム(前島光子)。これを、比嘉愛未がうまく雰囲気を出していたように思う。

お兄ちゃんの咲太郎は、浅草にいた。六区で芝居小屋ではたらいていたようだ。だが、芸人としては、今一つ運にめぐまれないというべきだろうか。

ところで、私が東京に出て学生生活をはじめたのは、昭和50年のころになる。ドラマで描いているのは、昭和30年のころである。約二〇年後のことになる。東京に出て、どこを見物するともなく浅草には足をはこんだ記憶がある。

ちょうどそのころ……昭和50年のころ……情報誌『ぴあ』が創刊になったころだった。たしか、渋谷の旭屋(今はもうなくなっているかと思うが)で、買ったりしたものである。それを見て、映画を多くみた。京橋のフィルムセンターにも行った。当時、フィルムセンターは、ガラガラであった。浅草の六区にも行った。もうさびれていた。小津安二郎の映画などが、まだ現役でかかっていたのを憶えている。(まだ、小津の映画が今日のように再評価される前の話である。)

さびれた六区であったが、往年の栄華をしのばせるところがどことなくあった。

その六区で、あるいは、新宿のムーランルージュで、咲太郎は、芸人として活躍することを夢みているようである。新宿の川村屋とも、いわく因縁があるらしい。

この週を見て、なつ(広瀬すず)が、いかにも北海道の田舎から東京の新宿にやってきた、田舎娘のお上りさんという雰囲気をよく出していたように感じた。だが、本格的に、なつが東京にやって来るのはもうちょっとさきのことになるのだろう。まだまだ北海道での生活を描くようだ。

昭和30年のころの新宿、それから、浅草……これらを、このドラマではかなりきれいに描いていたように思う。実際のところは、場末の繁華街であり、もっと猥雑なところであったのだろうと推測するのだが、どうだろうか。

ところで、北海道の十勝のじいさん(泰樹)は、牧場の後継ぎに、なつのことを考えているようだ。なつが、東京に出てアニメの世界で活躍するようになるには、まだまだ波乱がありそうである。次週も楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-05-12
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月12日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、雪原に愛を叫べ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/12/9071407

『1973年のピンボール』村上春樹2019-05-06

2019-05-06 當山日出夫(とうやまひでお)

1973年のピンボール

村上春樹.『1973年のピンボール』(講談社文庫).講談社.2004 (講談社.1980)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000203631

『風の歌を聴け』につづけて読んだ。
やまもも書斎記 2019年5月4日
『風の歌を聴け』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/04/9068083

読後感をひとことでいえば……これは傑作である。文学である。そして、詩である。

何よりもこの作品には詩情を感じる。この意味では、小説というよりも、散文詩といった方がいいかもしれない。

そういえば、私が村上春樹をふと読み始めた(再読をふくむ)のは、『1Q84』からであった。『1Q84』を読んで感じたのは、まさに散文詩、詩情である。

近代の文学史を通覧してみると、「詩」というものが頂点をきわめたのは、萩原朔太郎においてであったかもしれない。(あまりに通俗的理解かもしれないが。)少なくとも。萩原朔太郎以降、近代の憂愁とでもいうべき詩情は、日本の文学から影をひそめているように思える。

だが、ここで、村上春樹を読んで、特にその初期の作品を読んで感じるのは、萩原朔太郎につながる詩情にほかならない。私は、これを強く感じる。

そして、この作品が、「1973」という年を明記したタイトルになっている意図は何なのであろうか。この作品の発表は、1980年である。その当時において、1973年はどんな意味を持っていたのか。

おそらくは、70年安保以降の、ある種の精神的な空白である。この時期、私は、高校生から大学生を過ごしていることになる。ふりかえってみて、1980年のころの、精神的、文化的な雰囲気を思うとき、そこには、一種の脱力感があり、そして、その反面、ある種の充足感のようなものもある、複雑な文化的時空間であったように回想される。

この時代を、散文詩として、詩情豊かに描ききっていると読める。

これは、もう二十一世紀になって、かつての政治の季節の終焉をふりかえって感じる、過去への追想のようなものかもしれない。

文学者が、何よりも詩人であるとするならば、村上春樹は、まごうことなき近代の詩人である。

追記 2019-05-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月9日
『羊をめぐる冒険』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/09/9070215

『いだてん』あれこれ「いつも2人で」2019-05-07

2019-05-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年5月5日、第17回「いつも2人で」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/017/

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月30日
『いだてん』あれこれ「ベルリンの壁」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/30/9066216

京都の三条大橋のところに、駅伝がここからはじまったことを示す記念碑があることは知っていた。しかし、それが、金栗四三の発案になる駅伝のスタートの地であることまでは知らなかった。

この回で描いていたこととしては、次の二点だろうか。

第一に、駅伝の誕生である。

ベルリンに行くことがかなわなかった四三は、教員になることにする。そして、全国から選手をつのって駅伝をはじめる。京都から東京まで走ることになる。

この駅伝というもの、今にいたるまで、日本において行われている。正月の箱根駅伝があり、また、京都で行われる全国都道府県対抗の女子駅伝などが、思い浮かぶところである。

第二に、女子のスポーツ。

大正時代になって、学校スポーツが普及してきたとはいうものの、女子のスポーツは、まだまだのようであった。二階堂トクヨは、マラソンは野蛮であるとまで言っていたし、嘉納治五郎は、女子にはマラソンは向いていないとも言っていたようである。

これは、現在の、女子マラソンの隆盛を考えてみるならば、一〇〇年前は、こんなふうであったのかと、いささか驚く感じがする。

以上の二点が見どころと思って見ていた。

ところで、スポーツのナショナリズムを相対化するために、このドラマであつかっているのが、パトリオティズム(愛郷心)とでもいうことができるだろうか。日本最初の駅伝は、地方チームの結成ということであったようだし、また、浜松の水泳も郷里を意識しているようである。

そのパトリオティズム(愛郷心)を、いかんなく発揮しているのが、やはり四三であろう。マラソンを続けることがかなわなくなって、教職につくことになる。しかし、その熊本方言が抜けていない。これは、大正時代になってからの教師としては、問題がある。このころになれば、標準的な日本語(それを「国語」ということもできる)が、成立していたころになろう。ましてや、教職にある立場としては、熊本方言のままで教えることはどうかと思う。

だが、四三は熊本方言である。これは、あくまでも、四三が熊本という地方に対するパトリオティズム(愛郷心)を持って、スポーツにのぞんでいることを意味していると解釈できる。ナショナリズムを相対化するためのパトリオティズム(愛郷心)であると、私は思って見ている。

また、嘉納治五郎が言っていた……明治神宮のところにスタジアムがあれば、日本にオリンピックを呼んでくることができるのに、と。これは、その後のオリンピックの開催(1964年)、そして、来年(2020年)の東京オリンピック、特にそれをめぐる新国立競技場の建設のことなどを考えると、痛烈な皮肉に思えてくる。

次回は、女子のスポーツのことになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-05-14
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月14日
『いだてん』あれこれ「愛の夢」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/14/9072244

アオダモ2019-05-08

2019-05-08 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は、アオダモである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年5月1日
ヤマブキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/01/9066698

我が家の近辺にある。木に白い花が房になって咲く。ネットで聞いてみたとろこ、アオダモらしい。調べてみるとたぶん、あっているようだ。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)では、「あおだも」をひくと、「こばのとねりこ」の異名とある。「こばのとねりこ」を見ると、

モクセイ科の落葉小高木

とあって、さらに説明がある。異なる呼び名としては、「あおだも。だも。おおたご。おおしだ。」があるらしい。「こばのとねりこ」の用例は、日本植物名彙(1884)である。しかし、「あおだも」に項目には、用例が載っていない。ここは、用例を載せておいてもらいたいものである。

掲載の写真は、先月のうちに写しておいたものである。五月になって、もうこの花も散ってしまっている。来年は、さらに気をつけて観察するようにしておきたいと思う。

アオダモ

アオダモ

アオダモ

アオダモ

アオダモ

Nikon D500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2019-05-15
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月15日
藤の花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/15/9072640

『羊をめぐる冒険』(上)村上春樹2019-05-09

2019-05-09 當山日出夫(とうやまひでお)

羊をめぐる冒険(上)

村上春樹.『羊をめぐる冒険』(上)(講談社文庫).講談社.2004 (講談社.1982)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000203632

『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』につづけて読んだ。

やまもも書斎記 2019年5月6日
『1973年のピンボール』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/06/9068974

村上春樹を読んできている。デビュー作である『風の歌を聴け』から読んで見ると、その作品の雰囲気がここにもある。なんともいえない叙情性、そして、この世界が別の世界のネガであるような奇妙な瞬間、これら、村上春樹文学の特性とでもいうべきものが、この『羊をめぐる冒険』にも感じ取れる。

文庫本で上巻を読んだところで言えば、この作品あたりから、村上春樹流の何かしら奇妙な物語世界とでもいうべきものが始まるように感じられる。これは先の二作品『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』にはなかった、新たな文学世界の展望である。

その新たな物語は、どうやら謎の羊をめぐるものであるらしい。北海道へと旅立つところで、上巻は終わっている。

この作品が書かれたのが、1982年。読んでいて、70年の政治の季節が終わった後の、何かしら妙な空白感と充足感の入り交じったような、時代の雰囲気を感じてしまう。二一世紀の今日からこの作品をふりかえってみれば、その時代というものを感じてしまうことは無理からぬことであるにはちがいない。

その時代、1970年代、80年代の雰囲気を感じさせながらも、読みながら、ふと物語の世界に入り込んでしまっていく。これこそ、文学の持つ普遍性というべきものであろう。二〇世紀の終わりの時代において、小説というのは、このようなものであったのか、ふとこんなことを思ったりもする。

続けて下巻を読むことにしよう。

追記 2019-05-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月10日
『羊をめぐる冒険』(下)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/10/9070623

『羊をめぐる冒険』(下)村上春樹2019-05-10

2019-05-10 當山日出夫(とうやまひでお)

羊をめぐる冒険(下)

村上春樹.『羊をめぐる冒険』(下)(講談社文庫).講談社.2004 (講談社.1982)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000203633

続きである。
やまもも書斎記 2019年5月9日
『羊をめぐる冒険』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/09/9070215

下巻まで読んで感じるところを記すならば、この作品は、擬死と再生、そして、異世界の物語として読むことができるだろうか。

主人公は、北海道に旅に出る。謎の羊をさがしにである。

北海道の地方にあるさびれた街。その郊外にある、不可思議な家。そこに現れる「羊男」。いったいこれは何なんだ……と思うが、特に怪奇な印象はない。ただ、村上春樹の摩訶不思議な世界の中にはいって物語を読み進んでいくことになる。

この作品のなかで、鏡がでてくる。この世界をうつす鏡である。その鏡にうつる世界は、ちょっと違っているようだ。村上春樹文学においては、鏡、それから、夢、というのが重要なキーワードになるにちがいない。異世界、異次元の空間である。

そして、ところどころで登場する、きわめて抒情的なシーン。

文庫本では、上下二巻につくってあるが、そう長い小説ではない。しかし、この中に、村上春樹文学のエッセンスがつまっているという印象がある。

残る長編は『ダンス・ダンス・ダンス』、そして、新しい『騎士団長殺し』になる。順番に読んでいくことにしよう。

追記 2019-05-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月11日
『ダンス・ダンス・ダンス』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/11/9070999