『カンガルー日和』村上春樹2019-06-01

2019-06-01 當山日出夫(とうやまひでお)

カンガルー日和

村上春樹.『カンガルー日和』(講談社文庫).講談社.1986 (平凡社.1983)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000160043

続きである。
やまもも書斎記
『中国行きのスロウ・ボート』村上春樹 2019年5月31日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/31/9079085

村上春樹の短編集としては、初期に刊行になったものである。初出は、1981年から83年にかけて。

短篇を読んでみて感じることは、これが、『海辺のカフカ』や『1Q84』や『騎士団長殺し』などの長篇を書いた、同じ作家の手になるものなのだろうか、という驚きのようなものである。それほどまでに、長編の印象と短篇、いや、掌編と言った方がいいかもしれない、その印象はことなる。

しかし、どことなく寓意に満ちた作品であることには、長編の作品に共通するものを見ることができるだろうか。寓意のある作品は、強いて解釈することなく、そのまま受け取って読んでおくのが筋道だろうと思う。

ここまで、村上春樹の短篇を読んで感じることは、オチのある話しを書く作家ではない、ということ。そして、作品全体として、何かしらの寓意を感じさせる。あるいは、この世の中の一瞬に、この世界のすべてが凝縮されてあるような、不思議な感覚とでもいえばいいだろうか。

この短編集の最後に収められている「図書館綺譚」、これはちょっと長い。そして、長編の作品にみられる、「異界」の物語として読むこともできる。

次いで、村上春樹の短編集を読んでいくことにする。

追記 2019-06-03
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月3日
『蛍・納屋を焼く・その他の短篇』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/03/9080420

『なつぞら』あれこれ「なつよ、夢をあきらめるな」2019-06-02

2019-06-02 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第9週「なつよ、夢をあきらめるな」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/09/

前回は、
やまもも書斎記 2019年5月26日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、東京には気をつけろ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/26/9077052

ようやくなつはアニメーションの世界に入ることができた。

この週で描いていたのは、次の二点だろうか。

第一には、兄の咲太郎のこと。

咲太郎に悪意はない。いや、非常に強く妹のなつのことを思っている。しかし、それが、時として裏目に出る。アニメーションの会社の入社試験のとき、咲太郎が社長に余計なことを言っていなければ、無事にとおっていたかもしれない。いや、とおっていただろう。

結局、なつは二度目の採用試験をうけて、今度は無事に合格する。アニメーションの世界に入ることができた。その祝いの席で、咲太郎は、本当にうれしそうであった。

悪い兄なのではないが、これから、またひょっとして、その思いが裏目に出ることがあるのかもしれない。このあたりが気になるところである。

第二には、なつの周囲の人びとのやさしさだろう。

新宿の川村屋の人びと、それから、風車の亜矢美……どれも、いい人たちである。アニメーションの会社に入ることになって、なつは風車の方に住まいを移すことになる。だが、川村屋とまったく縁がきれたということはないであろう。雪次郎もいるし、それに、咲太郎はまだマダムに借金があるはずである。

川村屋の人びとも、風車の亜矢美も、みななつには親切である。東京で、これから新たにアニメーションの世界で生きていくことになるなつにとって、これらの人びとのささえが、これから生きてくることになるのだろう。

以上の二点が、この週を見て思ったことである。

ところで、舞台は、東京に移っているのだが、時として、北海道の十勝の家族のことも出てくる。その時に、映る北海道の景色が、なんとも心安まる感じがする。北海道の家族もまたなつのことを思っている。

なつは、裏方の仕事がしたいと語る。アニメーターの仕事も、ある意味では裏方の仕事である。そこに生きがいを見出していくのが、なつのこれからの生き方になるのだろう。

ちょっと気になったこととしては、北海道の夕見子が、東京に電話をかけていたシーン。街角の赤電話から、東京への長距離通話は、この時代(昭和30年代のはじめ)では無理だったのではないだろうか。ここのところが、ちょっと気になった。(私が東京で学生として一人暮らしをはじめたころ、昭和五〇年のころであるが、ようやく一〇〇円硬貨の使える公衆電話……確か色は黄色だったろうか……が登場したのを憶えている。)

次週、いよいよ、なつはアニメーションの世界にはいっていくことなるらしい。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-06-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月9日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、絵に命を与えよ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/09/9083230

『蛍・納屋を焼く・その他の短篇』村上春樹2019-06-03

2019-06-03 當山日出夫(とうやまひでお)

蛍・納屋を焼く・その他の短篇

村上春樹.『蛍・納屋を焼く・その他の短篇』(新潮文庫).新潮社.1987(2010.改版) (新潮社.1984)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100133/

続きである。
やまもも書斎記 2019年6月1日
『カンガルー日和』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/01/9079512

これは書いてもいいことだと思うが、『蛍』を読むと、『ノルウェイの森』と同じ(?)話しであることに気付く。あるいは、『蛍』が先に書かれて、そのイメージをふくらませて、『ノルウェイの森』になったと言ってもいいかもしれない。

そこにあるのは、なんともいえない叙情性である。

この短編集は、村上春樹の作品としては、初期の作品をあつめたものとなるようだ。どの作品も、人生の、世の中の、ふとした瞬間に感じるような、何かしら奇妙な感覚とでもいうべきものを表現している。

そして、なんともいえない、村上春樹の独自の文学世界を構築している。それは、生きているこの世界を、一瞬の間にとどめてしまって、反転させたような感覚……とでも言えばいいのだろうか。ともあれ、小説を読む、文学を読む、このことに芸術的感銘を感じさせる何かがあることは確かなことである。

村上春樹の長編を読んだ後で、短篇を順に読んでいるのだが、はっきり言って同じ作家が書いたとは思えないような気がしないでもない。長編の紡ぎ出す奇妙な物語世界とは違った、村上春樹の文学世界が、短篇のなかにある。

続けて、短編集を読んでいくことにする。

追記 2019-06-06
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月6日
『回転木馬のデッド・ヒート』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/06/9081742

『いだてん』あれこれ「櫻の園」2019-06-04

2019-06-04 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年6月2日、第21回「櫻の園」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/021/

前回は、
やまもも書斎記 2019年5月28日
『いだてん』あれこれ「恋の片道切符」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/28/9077891

今回、描いていたのは、女子スポーツの黎明。

しかし、気になっているのは、女学校の教師になった四三であるが、熊本方言のままである。このドラマは、明治の終わりからスタートしている。そのころ、高等師範学校の学生であった四三が登場している。四三は、東京に出てきて一〇年以上たっているはずである。にもかかわらず、熊本方言である。

これが、故郷の妻であるスヤと話す場面なら自然である。しかし、学校の教室で、しかも、女学校で、熊本方言のままで授業をするということはありえない設定である。時代は、大正時代も終わりのころになっている。いわゆる標準的な日本語というのが、形成されていたころと考えられる。

だが、このドラマは、四三の熊本方言をそのままつかわせている。

それは、熊本方言のままで、しかも、大真面目に、スポーツを語ることによって、このドラマが、ナショナリズムのドラマになることを避けていると理解される。少なくとも私には、そのように思えてならない。

方言といえば、浜松の田畑政治も、浜松方言である。これが、今後、一九六四年の東京オリンピックのときまで、浜松方言のままでいくのか、ここは興味がある。これまで登場してきたシーン……一九六四年の東京オリンピック招致にかんする場面であるが……においては、浜松方言は使っていなかったように覚えている。とすると、これから、どの段階で、田畑政治は、浜松方言を話さなくなるようになるのだろうか。

また、四三は、アントワープの大会の後、ドイツをおとずれている。そこで、スポーツに興ずる女性たちを目にする。熊本方言なまりの英語で、なんとかコミュニケーションできていたようである。このドイツで、その後、「民族の祭典」が開催ということになる。その伏線として、この回の描写がどう生きてくることになるのだろうか。

ところで、志ん生である。四三と、浜松の田畑が、今のところ、志ん生の視点においては、つながっている。この志ん生の物語も、この回ぐらいから、面白いと感じるようになってきた。志ん生の部分で、小梅(橋本愛)が、いい感じである。

次週、いよいよ、人見絹枝の登場となるらしい。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-06-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月11日
『いだてん』あれこれ「ヴィーナスの誕生」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/11/9084788

ネジキ2019-06-05

2019-06-05 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はネジキである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年5月29日
ニワゼキショウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/29/9078221

この花は、去年も写して掲載している。

やまもも書斎記 2018年6月27日
ネジキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/27/8904132

去年、写真に撮った木の場所は、だいたい憶えていたつもりでいたのだが、探してみても見つからない。路傍に生えている木なので、道路の整備のために切られてしまったのかもしれない。

ちょっと残念に思っていたのだが、いつもの散歩道の別のところに、ネジキの木があるのを見つけた。そして、しばらくして、別の花を写そうと思って歩いていると、その他の数ヶ所にネジキが花をつけているのを見つけた。いつもとおる道なのだが、去年は気付かなかったようだ。その目でみながら、そして、カメラと三脚をもちながら歩くと、ふと目にはいるもののようだ。(追記、この文章を書いておいてから、散歩で歩いているとき、おそらく去年の木であろう木に白い花がついているのを見つけた。去年より、今年は、少し咲くのが遅かったようだ。)

写真に撮ってみると、どうも同じような写真になってしまう。この花の特徴……木の枝の下に、連続して白い小さい花をつける……を、とらえようと思うと、同じようになるのもやむをえないかと思う。ともあれ、去年と同じ木ではなかったが、今年も、ネジキの花を見ることができた。来年は、どうなることだろうかとも思う。

年々歳々、花もまた同じではない。

ネジキ

ネジキ

ネジキ

ネジキ

ネジキ

ネジキ

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-06-12
この続きは
やまもも書斎記 2019年6月12日
セイヨウイボタノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/12/9085304

『回転木馬のデッド・ヒート』村上春樹2019-06-06

2019-06-06 當山日出夫(とうやまひでお)

回転木馬のデッドヒート

村上春樹.『回転木馬のデッド・ヒート』(講談社文庫).講談社.2004 (講談社.1985)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000203626

続きである。
やまもも書斎記 2019年6月3日
『蛍・納屋を焼く・その他の短篇』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/03/9080420

もとの本が1985年の刊行だから、村上春樹としては、初期の作品ということになる。

「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」……を読むと、これは「小説」ではないとある。そうではなく、「スケッチ」であるという。あるいは、強いて読むならば、「物語」の前段階のもの、とでもいうことができようか。が、ともあれ、短編小説集として読めるようには作ってある。

読んで私が印象に残った作品は、「レーダーホーゼン」である。(どの作品が気にいるかは、人それぞれだろうと思うが。)

ここまでいくつかの短編集を読んできて、村上春樹は、すぐれた短編作家であると思うようになった。たぶん、世評としては、長編小説の方が名高いのだろうと思う。しかし、短篇のなかにつくりだす独自の文学世界というものがある。「小説」という形式でもって……しかも短篇という文学の様式でもって……この世界の一端をきりとって、一つの物語世界を構築してみせる、その手際の良さ、これを強く感じる。

短篇といっても、モームのような、あるいは、O・ヘンリーのような、オチのある話しではない。日常世界のすぐ隣にあるが、気付かずにいるような、ただ、ふとした瞬間に、文学的感性によって感知することのできる文学世界とでもいうことができようか。どの作品も、読み終わったあとに、なにがしかの文学的余韻が残る。

たぶん、現代文学において、少なくとも二〇世紀の文学において、短篇という形式の文学の到達点をしめす作品のいくつかであることは間違いないことだと思う。

つづいて、『パン屋再襲撃』を読むことにする。

追記 2019-06-07
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月7日
『パン屋再襲撃』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/07/9082153

『パン屋再襲撃』村上春樹2019-06-07

2019-06-07 當山日出夫(とうやまひでお)

パン屋再襲撃

村上春樹.『パン屋再襲撃』(文春文庫).文藝春秋.2011 (文藝春秋.1989)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167502119

続きである。
やまもも書斎記 2019年6月6日
『回転木馬のデッド・ヒート』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/06/9081742

村上春樹の短編集を読んできて(おおむね刊行順に読んでいるつもりだが)、この作品集にいたって、大きく作品として飛躍していると感じる。村上春樹的な物語世界というものが、確実に構築されてきている。

印象的なのは、「象の消滅」。ただ、象がいなくなってしまった、消えてしまったというだけのストーリーなのだが、それによって、何かしら奇妙な物語世界となっている。

それから、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」。読み始めて、これは、『ねじまき鳥クロニクル』のもとになった短篇だとわかる。この作品もまた、「僕」を主人公として、奇妙な村上春樹の物語世界が出現する。(ただ、裏の路地は出てくるが、井戸は出てこない。)

私の場合……村上春樹は、まず長編から読んでみて、次に短編集を読んでいる。これは、好みの分かれるところだろうと思うのだが、村上春樹の短篇は実にいい。何気ない日常生活のなかでおこる、ふとした奇妙な出来事。それが、独自の物語世界を作りあげている。

それが長編のような「異界」の物語にまで発展するということはないのだが、日常生活を、鏡に映してみるような……それも、どこか歪んでいるような、それでいて物事の本質にせまるような……感覚を感じる。

次は、『TVピープル』を読むことにする。

追記 2019-06-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月10日
『TVピープル』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/10/9083904

『おしん』あれこれ(その四)2019-06-08

2019-06-08 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年5月17日
『おしん』あれこれ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/17/9073429

以前に、再放送の時、『おしん』は全部見ているので、そのさきのことまで知ってはいるのだが、おしんの人生をふりかえって、今……東京で髪結いの仕事で生活しているころ……このころが、一番幸せな時であったかと思う。

東京に出てきて、おしんは、たか(渡辺美佐子)のもとで髪結いの仕事につく。はじめは日本髪を仕事にしようとしていたのだが、たかの考えるところもあって、洋髪の仕事にたずさわるようになる。そこで、カフェに出髪に行って、女給たちと親しくなる。

ここまでの放送でのポイントは、次の二点になるだろうか。

第一は、おしんは、自分の腕で稼いでいくようになるということである。今後、おしんの生活にはさまざまな苦労があるのだが、最終的には、スーパーの経営者、実業家として、成功をおさめることになる。それまで紆余曲折ある。しかし、どのような場合でも、おしんは、基本的に自分の才覚で事業をはじめている。

第二は、おしんのことばである。東京に出てきてすぐのころのことばは、まだ山形方言が強く残っていたが、髪結いとして独り立ちするようになるころには、東京方言を身につけている。これから、日本各地でおしんの人生が展開することになる。このとき、東京で働いて生活して、東京方言を身につけているということが、結局、おしんの仕事にとってプラスになっていくことになる。

実業家として名をなすには、やはり東京方言がふさわしいということになるのだろうか。ともあれ、ここで、おしんが東京方言を話すようになっていることは、これからのドラマの展開にとって、重要な意味をもってくることになると私は思っている。(ドラマの現在のおしん(乙羽信子)は、山形方言ではない。)

以上の二点が、今までの放送を見て、また、以前の再放送を見たときの印象を思い返して、考えることなどである。

時代設定は大正時代である。デモクラシーの時代である。小作農の娘に生まれたおしんが、自分の才覚ひとつで社会の階層をあがっていくストーリーとして、まさに、大正時代がふさわしいといえるのかもしれない。(その後、昭和になり、戦争の時代を生きていくことになるのだが。)

ところで、おしんの名前は「しん」であるようだ。米騒動で警察につかまって、警察官が髪結いのたかのところに来たとき、谷村しん、と言っていた。であるならば、おしんが、自分で自分の名前を名乗るときに、「おしん」と言っているのは、ちょっとおかしいと思うがどうであろうか。人から呼ばれるときは、「お」がついて「おしん」であってもいい。しかし、自分で名乗るときには、「お」はつけないのではないだろうか。

東京に出てきて、たかにあったときも、おしんは自分の名前をきかれて「おしん」と言っていた。が、これも、ドラマのタイトルが、「おしん」ということで、「おしん」という名前を強く印象づけたいための脚本かと理解して見ている。

追記 2019-07-08
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月8日
『おしん』あれこれ(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/08/9113472

『なつぞら』あれこれ「なつよ、絵に命を与えよ」2019-06-09

2019-06-09 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第10週「なつよ、絵に命を与えよ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/10/

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月2日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、夢をあきらめるな」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/02/9079887

この週で、まだなつはアニメーターになれないでいる。

この週のポイントとしては、なつのアニメーターとしての感性の良さと、だが、それにともなわない技術ということになるだろうか。

棄ててあった動画を見てなつは自分で絵を描いてみる。それが目にとまって、再度、アニメーターの試験をうけることになる。その試験も、この週においては、まだ合格してはいない。だが、確実に言えることは、なつには、持って生まれたアニメーターの感性とでもいうべきものがある、ということだろう。

そのなつの感性を見抜いているのは、今のところ、中努(井浦新)、それに、大沢麻子(貫地谷しほり)といった人びと。しかし、作画の技術がともなわないでは、いくら感性があるといっても、アニメーターにはなれない。ここで、なつは、めげることなくアニメーターを目指して努力している。

それから、故郷の十勝でのこと。砂良と照男がどうやら一緒になるらしい。このときのプロポーズ(?)の場面が面白かった。天陽もからんでの一芝居ということであったようだ。

が、これも、天陽からしてみれば、東京に行ってしまったなつをそのままあきらめるということにつながっているようだ。その屈折した感情をうまく表現していたように思える。

なつは、東京でアニメーションの仕事で開拓者として生きていくことになる。そして、次週、なつはアニメーターになれるらしい。また、制作にたずさわっているアニメ映画も完成にむかうようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-06-16
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月16日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、アニメーターは君だ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/16/9087505

『TVピープル』村上春樹2019-06-10

2019-06-10 當山日出夫(とうやまひでお)

TVピープル

村上春樹。『TVピープル』(文春文庫).文藝春秋.1993 (文藝春秋.1990)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167502027

続きである。
やまもも書斎記
『パン屋再襲撃』村上春樹 2019年6月6日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/07/9082153

村上春樹の短編集を読んできて、この作品ぐらいから、ちょっと雰囲気が変わってきていると感じる。

二点ほどに整理してみる。

第一には、短篇という文学の形式で何を語るか、その物語の構造がちがってきている。簡単に言ってみるならば、いわゆる「オチ」のある話しになってきている。初期の村上春樹の作品(短篇)を読んで感じることは、ストーリーの面白さよりも、その作品を語ることによって感じる、なにかしら詩情のようなものであった。それが、ストーリー自体の面白さで読ませるように雰囲気が変わってきている。

第二には、時代、ということがある。この『TVピープル』に収録されている「我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史」。この作品は、ある時代……いわゆる七〇年安保の時代の学生生活にまつわる感覚を描いている。といって、政治的なことはまったく出てこない。しかし、あの時代、多くの若者が共感していた何かを、この作品は描こうとしている。

以上の二点が、『TVピープル』を読んで感じるところである。

この作品が、本として出たのは、1990年。収録の作品が書かれたのは、1989年のころになる。ちょうど、東西冷戦の終わったころになる。

私は、村上春樹より少し若い(1955年の生まれ)。その年齢から感じるところとして、やはり、1989年のベルリンの壁の崩壊は、強く印象に残っている。世界は、このようにして変わってしまうものなのか、感慨深く思ったものである。

また、このころは、「昭和」という時代の終わりでもあった。

一つの時代の節目であった、今になってみれば回想される。この時代の変わり目ということが、村上春樹の文学にどのように影響しているのか、現代文学研究の門外漢の私はよく知るところではない。だが、一つの時代の変わり目において、村上春樹の文学もまたどこかしら変化していっていることだけは、確かなことであるように思える。

次は、『レキシントンの幽霊』を読むことにする。

追記 2019-06-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月13日
『レキシントンの幽霊』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/13/9085919