『アンダーグラウンド』村上春樹 ― 2019-06-20
2019-06-20 當山日出夫(とうやまひでお)
村上春樹.『アンダーグラウンド』(講談社文庫).講談社.1999 (講談社.1997)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000198082
続きである。
やまもも書斎記 『女のいない男たち』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/17/9088040
主な小説(長編、短編)を読み終わったので、「ノンフィクション」である、この作品を読むことにした。文庫本とはいえ、八〇〇ページに近い大冊である。しかも、基本的に二段組みになっている。読むのに、ちょっと時間がかかった。
しかし、この本は、読む価値がある。一つには、村上春樹という作家を理解するためにであり、さらには、地下鉄サリン事件について考えるために、である。
事件がおこったのは、一九九五年三月二〇日のこと。その年の一月には、神戸の震災があった。この一連のできごとは、私自身の生活には直接の影響はなかったことなのであるが、だが、これらの出来事を境にして、この世の中が変わってしまった、あるいは世の中に対する見方が変わってしまった、そのように感じるところがある。
村上春樹の作品の系譜からいえば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』そして『ねじまき鳥クロニクル』、これらの長編小説を経てのちに、この『アンダーグラウンド』を書いていることになる。
この本の最後に「目じるしのない悪夢」を読んで、私なりに理解したところで書くならば……地下鉄サリン事件を、こちら側(つまり、犯人の側ではない、被害者の側、一般市民の側)の視点にたって、どのような「物語」として構築していくことになるのか、それを問いかけた仕事ということになるのであろう。これは、(村上春樹はこのことばをつかっていないが)文学的想像力にかかわることである。
たしかに事件はすでに起こった過去のことであり(この『アンダーグラウンド』が書かれた時点からして)、また、今この文章を私が書いている時点(二〇一九年)においては、その司法的な手続きが終了している。死刑は執行された。
だからといって、地下鉄サリン事件をどのような「物語」として語り続けていくべきなのか、ということについて課題が終了したことではない。いや、一連の司法手続きが終わってしまった今日であるからこそ、さらに、さかのぼって、われわれの「物語」としてこの事件をどう語っていくのか……無論、その視点の置き方は多様にあるべきであるが……大きな課題とすべきであろう。
村上春樹の文学を理解するうえで言うならば、「物語」を構築していくこと……文学的想像力……において、どの視点をとっているのか、そこのところを確認することにつながる。そして、それは、そうと明確に書かれているわけではないが、『騎士団長殺し』における「鎮魂」のあり方につながっていくものにちがいない。
震災という、あるいは、地下鉄サリン事件という、圧倒的な悲劇性をおびた事実の前に、文学的想像力がなにをなしうるのか、それは、村上春樹の作品を読む読者における問題であると、私は理解している。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000198082
続きである。
やまもも書斎記 『女のいない男たち』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/17/9088040
主な小説(長編、短編)を読み終わったので、「ノンフィクション」である、この作品を読むことにした。文庫本とはいえ、八〇〇ページに近い大冊である。しかも、基本的に二段組みになっている。読むのに、ちょっと時間がかかった。
しかし、この本は、読む価値がある。一つには、村上春樹という作家を理解するためにであり、さらには、地下鉄サリン事件について考えるために、である。
事件がおこったのは、一九九五年三月二〇日のこと。その年の一月には、神戸の震災があった。この一連のできごとは、私自身の生活には直接の影響はなかったことなのであるが、だが、これらの出来事を境にして、この世の中が変わってしまった、あるいは世の中に対する見方が変わってしまった、そのように感じるところがある。
村上春樹の作品の系譜からいえば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』そして『ねじまき鳥クロニクル』、これらの長編小説を経てのちに、この『アンダーグラウンド』を書いていることになる。
この本の最後に「目じるしのない悪夢」を読んで、私なりに理解したところで書くならば……地下鉄サリン事件を、こちら側(つまり、犯人の側ではない、被害者の側、一般市民の側)の視点にたって、どのような「物語」として構築していくことになるのか、それを問いかけた仕事ということになるのであろう。これは、(村上春樹はこのことばをつかっていないが)文学的想像力にかかわることである。
たしかに事件はすでに起こった過去のことであり(この『アンダーグラウンド』が書かれた時点からして)、また、今この文章を私が書いている時点(二〇一九年)においては、その司法的な手続きが終了している。死刑は執行された。
だからといって、地下鉄サリン事件をどのような「物語」として語り続けていくべきなのか、ということについて課題が終了したことではない。いや、一連の司法手続きが終わってしまった今日であるからこそ、さらに、さかのぼって、われわれの「物語」としてこの事件をどう語っていくのか……無論、その視点の置き方は多様にあるべきであるが……大きな課題とすべきであろう。
村上春樹の文学を理解するうえで言うならば、「物語」を構築していくこと……文学的想像力……において、どの視点をとっているのか、そこのところを確認することにつながる。そして、それは、そうと明確に書かれているわけではないが、『騎士団長殺し』における「鎮魂」のあり方につながっていくものにちがいない。
震災という、あるいは、地下鉄サリン事件という、圧倒的な悲劇性をおびた事実の前に、文学的想像力がなにをなしうるのか、それは、村上春樹の作品を読む読者における問題であると、私は理解している。
追記 2019-06-21
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月21日
『アンダーグラウンド』村上春樹(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/21/9089927
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月21日
『アンダーグラウンド』村上春樹(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/21/9089927
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/20/9089596/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。