『約束された場所で』村上春樹(その二)2019-06-27

2019-06-24 當山日出夫(とうやまひでお)

約束された場所で

村上春樹.『約束された場所で-underground 2-』(文春文庫).文藝春秋.2001 (文藝春秋.1998)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167502041

続きである。
やまもも書斎記 2019年6月22日
『約束された場所で』村上春樹 2019-06-22
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/22/9090285

この本は、巻末に、河合隼雄との対談を収録してある。そこで読みながら付箋をつけた箇所。

(村上)「ある意味できわめて象徴的だったのは、冷戦体制が崩壊してもう右も左もない、前も後ろもないという状況が現出したまさにそのときに、関西の大震災とこのオウム事件が勃発したわけです。おかげで、それらの出来事をどのような軸でとらえるのかということが、すっといかなかった。」(p.284)

村上春樹が世界的に読まれるようになったのは、東西冷戦の終結後のことであるといっていいかもしれない。今からふりかえってみれば、東西冷戦時代は、時代がわかりやすかった。どのような立場にたつにせよ、全体の見取り図がはっきりしていた。その地図が、羅針盤が、無くなってしまった茫然とした感覚というのを、私は、記憶している。

オウム真理教の事件も、ある意味では、東西冷戦の終結の結果……このように見ることもできるかもしれない。

が、ともあれ、この本を読んで感じることは、信者、元信者の、ナイーブとでもいうべきであろうか、従順さであり、おとなしさであり、素直さである。言い尽くされたことかもしれないが、真面目で霊的にナイーブな人間にとって、オウム真理教というのは、恰好の居場所を提供してくれるところであったのだろう。

今でもいるはずである。この本に登場してくるような、従順な心をもった人びとは。だが、今の社会において、そのような人びとの受け皿になるような何かが、社会の中に用意されているかどうかは、おおいに疑問である。

また、村上春樹の作品を読み解いていくうえで、『アンダーグラウンド』『約束された場所で』は、特異な位置をしめることになるだろう。ただ、私としては次のように思う。

それは、『アンダーグラウンド』でも、『約束された場所で』でも、事件に遭うまでの、あるいは、オウム真理教にはいるまでの、はいってからの、「日常」というものを、細かく描いていることである。日々、どのような生活をおくっている人間が、そのような事件にまきこまれることになったのか、あるいは、信者となったのか、その日常生活のディテールに、細やかな目配りがある。

日常生活というもの、これは、村上春樹の文学の重要なキーワードである。どのようにして、毎日の日常生活をおくっていくか、それを乱すものがあらわれたときには、どう対処することになるのか、村上春樹の作品は、このことをめぐる作品が多い。

東西冷戦の時代は、日常生活においても、さらにさらに大きな視点からの大きな物語があった。それが崩壊してしまったとき、人びとの日常とは何であるのか、それを乱す理不尽な何かがあった場合……オウム真理教の事件であり、神戸の震災であり……人は何をかんがえるものなのか、これを描いているのが、村上春樹の文学であるといえるかもしれない。

村上春樹の作品には、異世界からの理不尽な何か、が多く登場する。それを、村上春樹は、文学的想像力、創造力、で描き出している。だが、文学者としての想像力、創造力の前に、厳然とたちはだかる、現実の姿、事実……地下鉄サリン事件であるが……それを、どのような物語のなかに再構築していくのか、文学者としての感性と力量がとわれることになる。その結果のひとつのかたちが、ノンフィクションという形をとった『アンダーグラウンド』であり『約束された場所で』であるように思われる。

ノンフィクションという形式をとっているが、そこにあるのは、文学的想像力、創造力であると、私は感じる。そして、このノンフィクションのなかに、人びとの日常への感覚に視点をおいている、村上春樹の文学者としての立ち位置を見ることになる。

追記 2019-06-28
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月28日
『もういちど村上春樹にご用心』内田樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/28/9092631

追記 2019-08-29
やまもも書斎記 2019年8月29日
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/29/9146784