『もういちど村上春樹にご用心』内田樹2019-06-28

2019-06-28 當山日出夫(とうやまひでお)

もういちど村上春樹にご用心

内田樹.『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫).文藝春秋.2014 (アルテスパブリッシング.2010)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167902599

つづきである。
やまもも書斎記 2019年6月27日
『約束された場所で』(その二)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/27/9092251

村上春樹の小説(長編、短編)それから、地下鉄サリン事件をあつかった『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』を読んだ。ちょっと一息いれることにしてて、村上春樹の作品そのものではなく、その作品について書かれたものを読んでおきたくなった。

てはじめに読んでみたのが、内田樹である。私は、「思想家」としての内田樹は、ほとんど評価していない。しかし、文芸評論家としては、傾聴するに値する人物であると思っている。文芸評論家としての内田樹を評価するきっかけとなっているの、角川文庫版の『細雪』の解説においてである。

やまもも書斎記 2017年2月1日
『細雪』谷崎潤一郎(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/01/8346499

内田樹の解説については、
やまもも書斎記 2017年2月3日
『細雪』谷崎潤一郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/03/8348853

『もういちど村上春樹にご用心』を読んでいて、そっくり同じようなことが書いてあるのに気付いた。

作品中にでてくる音楽などのことにふれて、

「村上文学がそのローカルな限界を突き抜けることができたのは、存在するものを共有するできる人間の数には限界があるが、存在しないものを共有する人間の数に限界はないということを彼が知っていたからである。」(p.216)

ところで、内田樹は、村上春樹の文学は、「父」の不在の文学であるといっている。なるほどそういわれてみればそうかなという気がしないでもない。少なくとも、日本の近代小説の重要な課題であった、家父長的な「父」から脱して、個の確立をめざす……このような傾向は、あまり感じられないといっていいだろう。だが、「父」の出てこない文学は、他にもあるように思えるのだが、どうだろうか。ただ、私の、読書が足りないだけだろうか。また、村上春樹の作品にでも「父」は登場しているのではないだろうかとも思うがどうだろうか。たとえば、『1Q84』にも、「父」は登場するのだが。

興味深かったのは、村上春樹の作品における、日常生活、家事ということへの言及。特に、朝食をとる場面の分析は面白いと思った。たしかにその目で読めば、村上春樹の作品には、食事をつくる場面が重要な意味をもつものが多い。

村上春樹ほど、今の日本で、世界で訳されている作家はいないという。その理由をこそ考えるべきだと、内田樹は主張している。そのとおりだと思う。村上春樹の世界性とはいった何だろうか。

私が読んだ印象としては……特に長編の作品にかんしていえば、その異世界の物語としてのわかりやすさ、ということがあるのではないかという気がしている。異世界の物語というのは、世界中のどこにでもある。これは、文化人類学、民俗学などの教えてくれるところである。だから、その世界の文化の文脈に即して、自由に解釈が可能である。

だが、これだけでは説明がつかないだろう。その異世界の物語で何をあらわしているか……それは、邪悪なもの、であるのかもしれない。あるいは、作品にふくまれている、霊的な何か、とでもいうことができるだろうか。

ともあれ、村上春樹の文学の世界性という視点は、今日の文学を考えるうえで重要なポイントであることは確認できる。あとは、自分なりに、ゆっくりと、作品を再読したりしながら考えてみることにしよう。

追記 2019-06-29
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月29日
『村上春樹は、むずかしい』加藤典洋
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/29/9092980