『おしん』あれこれ(その五)2019-07-08

2019-07-08 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年6月8日
『おしん』あれこれ(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/08/9082632

『おしん』という物語は、おしんという女性の苦労の物語……そのように理解することもできるだろう。一般的な理解としてはそうかもしれない。

だが、東京に出て、ひとりではたらいて生活するおしん、そして、竜三と結婚することになるおしん、このあたりのところを見ていると、ただ苦労の物語だけではないように思えてくる。イエから自立した近代的な女性としての姿がそこにはあるのではないだろうか。

幼いときのおしんは奉公にだされる。何のためか、それはイエのためにである。谷村のイエは、小作農とはいえ、ひとつのイエである。そのイエの維持のために、おしんは奉公に出る。

東京に出たおしんは、髪結いとして、手に職をつけて自立する。だれの支援もうけていない。自分の腕ひとつでかせいでいる。また、警察の取り調べをうけることがあっても、自分に非はないと毅然としている。

とはいえ、まだ完全に自立しているとはいえない。故郷のイエの普請のための仕送りをしなければならない。が、これも、仕送りを終えてしまえば、後は自由であるともいえよう。そのようなときに、竜三とめぐりあうことになる。故郷のイエの束縛を意識したとき……それを象徴しているのが、父親(伊東四朗)であろう……そこから飛躍してより自由になろうとする。父親が東京に出てきて、金の無心をしたとき、おしんは竜三と結婚することを決意する。これは、まさに、故郷のイエとの決別を意味している。

その父も、また、故郷のイエにしばられた生涯であったともいえる。兄も、また、小作とはいえイエとともに生きていかざるをえない。

その先の展開をすでに知っている(以前の再放送で見ている)こととしては、さらに、新たなイエ……佐賀の田倉のイエ……との壮絶な確執がおこることになるのだが。それでも、最終的に、おしんはイエから自由になる。

イエから自由になったおしんが、手にいれたものは、家族であるのかもしれない。だが、おしんの家族の物語としてドラマが展開するようになるのは、さらに先のことになる。あるいは、このドラマの現在(乙羽信子)と孫の圭(大橋吾郎)との関係は、まさに家族ならではの関係といえるかもしれない。

『おしん』というのは、近代における女性の自立のドラマとして見ることができるだろうか。

なお、テレビを見ていてちょっと気になったこと……竜三と結婚することになったおしんは、祝言をあげるということで、二人で神社に参拝する。このとき、現在の神社の参拝の作法である、二礼二拍一礼という形式をとっていなかった。このような神社の参拝の形式が定まったのは、近代になってからのこと。それまでは、かなり自由であった。(このことについては、以前に書いたことがある)。近代になってからの形式が一度成立して、その後、戦後になって忘れられて、そして、今現在、二十一世紀になってから、それが再び復活している。『おしん』のドラマが放送されたとき(1983年)、それは私の学生のころになるが、神社の参拝の作法はかなり自由であったのを憶えている。

神社の参拝のあり方は、まさに近代にになって作った伝統である。それが一度おとろえて、さらに再度復活してきているのが、今現在の姿であるのかと思う。

前近代の神社の参拝については、
やまもも書斎記 2016年6月28日
島田裕巳『「日本人の神」入門』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/28/8120002

追記 2019-08-24
この続きは、
やまももも書斎記 2019年8月24日
『おしん』あれれこ(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/24/9144778