『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳2019-07-11

2019年7月11日 當山日出夫(とうやまひでお)

キャッチャー・イン・ザ・ライ

J.D.サリンジャー.村上春樹(訳).『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(ペーパーバック・エディション).白水社.2006
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b206346.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月6日
『グレート・ギャツビー』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/06/9111813

読んだのは、ペーパーバック・エディション版である。白水社のHPを見ると、この訳本の単行本が刊行されたのは、2003年である。そして、2003年の時、また、ペーパーバック・エディション版の出た2006年の時、原著者のサリンジャーは生きていた。(ずいぶんと長生きしたものである。)

ジャパンナレッジで、サリンジャーを見ると、サリンジャーは、1919~2010、とある。(世界大百科事典、世界文学大事典など)。なぜ、このようなことを確認してみたかというと、本の最後に、訳者の解説が、原著者の意向によって、掲載できなかった旨が書いてあるからである。翻訳は許可したものの、それに解説を加えることは許さなかったらしい。

ところで、この本であるが、私の若いころは、『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルで知られていた。今も、このタイトルで翻訳が出ている。たしか、手にしたような記憶はあるのだが、今となっては、さっぱり忘れてしまっている。ただ、読んだ本の数をこなすため、ストーリーをおうような読みかたで読んでいった本のなかにあったかと思う。

これを、今になって、新しい村上春樹訳で読んで思うことは、次の二点だろうか。

第一に、「若さ」を描いた作品というのは、若いときに読んだのではその価値がわからない、ということである。少なくとも、私には、その良さがわからなかったといってよい。

この作品が発表されたのは、1951年。単純に計算して、作者(サリンジャー)が32才の時ということになる。若いとはいえ、ギリギリの年齢かもしれない。

第二に、この作品を読んで感じる「メタ」な視点である。主人公は若い「僕」なのであるが、その若い時の自分を回想して見ている、成長した、あるいは、もう若くはない、大人になった、作者の視点というものを、どこかに感じる。おそらく、この作品に、奥行きをもたらしているのは、この「メタ」な視点が、ところどころにあるせいなのだろうと思う。

以上の二点が、この新しい『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んで感じるところである。

読みながら思わず付箋をつけた箇所。

「僕は『グレート・ギャツビー』に夢中になってしまった」(p.238)

なるほど、サリンジャーも、また、それを訳している村上春樹も、『グレート・ギャツビー』の影響下にあることになる。『グレート・ギャツビー』についても、村上春樹の翻訳作品を一通り読んだところで、再度、再々度と読み直しておきたいと思う。

次に読もうと思っているのは、チャンドラーにもどって『さよなら、愛しい人』である。

追記 2019-07-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月13日
『さよなら、愛しい人』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/13/9127906