『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳2019-07-11

2019年7月11日 當山日出夫(とうやまひでお)

キャッチャー・イン・ザ・ライ

J.D.サリンジャー.村上春樹(訳).『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(ペーパーバック・エディション).白水社.2006
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b206346.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月6日
『グレート・ギャツビー』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/06/9111813

読んだのは、ペーパーバック・エディション版である。白水社のHPを見ると、この訳本の単行本が刊行されたのは、2003年である。そして、2003年の時、また、ペーパーバック・エディション版の出た2006年の時、原著者のサリンジャーは生きていた。(ずいぶんと長生きしたものである。)

ジャパンナレッジで、サリンジャーを見ると、サリンジャーは、1919~2010、とある。(世界大百科事典、世界文学大事典など)。なぜ、このようなことを確認してみたかというと、本の最後に、訳者の解説が、原著者の意向によって、掲載できなかった旨が書いてあるからである。翻訳は許可したものの、それに解説を加えることは許さなかったらしい。

ところで、この本であるが、私の若いころは、『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルで知られていた。今も、このタイトルで翻訳が出ている。たしか、手にしたような記憶はあるのだが、今となっては、さっぱり忘れてしまっている。ただ、読んだ本の数をこなすため、ストーリーをおうような読みかたで読んでいった本のなかにあったかと思う。

これを、今になって、新しい村上春樹訳で読んで思うことは、次の二点だろうか。

第一に、「若さ」を描いた作品というのは、若いときに読んだのではその価値がわからない、ということである。少なくとも、私には、その良さがわからなかったといってよい。

この作品が発表されたのは、1951年。単純に計算して、作者(サリンジャー)が32才の時ということになる。若いとはいえ、ギリギリの年齢かもしれない。

第二に、この作品を読んで感じる「メタ」な視点である。主人公は若い「僕」なのであるが、その若い時の自分を回想して見ている、成長した、あるいは、もう若くはない、大人になった、作者の視点というものを、どこかに感じる。おそらく、この作品に、奥行きをもたらしているのは、この「メタ」な視点が、ところどころにあるせいなのだろうと思う。

以上の二点が、この新しい『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んで感じるところである。

読みながら思わず付箋をつけた箇所。

「僕は『グレート・ギャツビー』に夢中になってしまった」(p.238)

なるほど、サリンジャーも、また、それを訳している村上春樹も、『グレート・ギャツビー』の影響下にあることになる。『グレート・ギャツビー』についても、村上春樹の翻訳作品を一通り読んだところで、再度、再々度と読み直しておきたいと思う。

次に読もうと思っているのは、チャンドラーにもどって『さよなら、愛しい人』である。

追記 2019-07-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月13日
『さよなら、愛しい人』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/13/9127906

『佐武と市捕物控 江戸暮しの巻』石ノ森章太郎2019-07-12

2019-07-12 當山日出夫(とうやまひでお)

佐武と市捕物控え・江戸暮しの巻

石ノ森章太郎.『佐武と市捕物控 江戸暮しの巻』(ちくま文庫).筑摩書房.2019
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480435996/

石ノ森章太郎……だが、私の頭のなかでは、昔のように石森章太郎と書いた方がわかりやすいのだが……の「佐武と市」のシリーズが、ちくま文庫で三冊で刊行になる。その第一冊目である。(出た時に、先月のうちに買って読んだのだが、村上春樹について書いていて、順番として遅くなってしまった。そうこうしているうちに、第二冊目が刊行になってしまっている。)

「佐武と市」は、若い時、というよりも、おさない時といった方がいいだろうか、漫画で読んだのを憶えている。解説(中野晴行)によると、一九六六に「週刊少年サンデー」からスタートしたとある。私が読んだのは、たぶんこれになるだろう。その後、一九六八年に「ビッグコミック」が刊行になって、そこに連載の場を移したとある。

私は、「ビッグコミック」の読者ではなかった。まあ、学生のころ、喫茶店とかに入っておいてある漫画雑誌として手にしたような程度である。自分で買って読むということはしてこなかった。

この文庫本に収録の作品は「ビッグコミック」に掲載のものである。だから、子ども向けというよりも、大人向けの作品になっている。私の記憶にある「佐武と市」は、佐武の投げ縄の術など、少年漫画らしいアクションの場面があったかと憶えているのだが、それは、ここに収録されている作品を見ると出てこない。

巻末には、石ノ森章太郎の「「佐武と市捕物控」で捕えようとしたボクの江戸」という短い文章が載っている。これを読むと、大人向けの漫画雑誌を舞台として、「江戸」を描いてみたかったという意図が読み取れる。

私は、漫画にはうとい。専門的な漫画史の知識がない。だから、漫画の歴史において、「江戸」がどのように描かれたきたのか、そのながれをつかむことができない。ただ、今の観点から読んで見るということしかできない。

そのような観点から読んでみてであるが……作者が描きたかったのは、「江戸」であることが読み取れる。それを、漫画という表現においてどのように描くか、そこに作者なりの工夫と努力があったのだろうことも、理解されるところである。

この本を読んで思うことは次の二点になるだろうか。

第一には、〈捕物帖〉という時代小説ジャンルがあって、それを踏まえて、このような漫画作品がなりたっていることである。〈捕物帖〉は、時代小説であり、同時に、ミステリでもある。

第二には、「江戸」というイメージを、どのように視覚的に表現するか、特に、その情緒にかかわるところを、かなり工夫して描いているということである。読んで印象に残る作品としては、「蛇の目」がある。雨の描写が実にいい。

まあ、強いて批判的に見るならば、ここに描かれたような「江戸」は、近代になってからの幻想であるのかもしれない。だが、そうであるとしても、確固たるものして作者の描こうとした「江戸」が伝わってくる。

以上の二点が、第一冊目を読んで思うことである。

それから、この作品「佐武と市」は、確かテレビのアニメになっていたはずである。これも見た記憶がある。アニメとしては、その当時においても、かなり斬新な表現技法を駆使したものであったかと記憶するが、このあたりは、もう茫漠としている。

この続きも読んでおきたい。

追記 2019-07-23
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月23日
『佐武と市捕物控 杖と十手の巻』石ノ森章太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/23/9132261

『さよなら、愛しい人』村上春樹訳2019-07-13

2019年7月13日 當山日出夫(とうやまひでお)

さよなら、愛しい人

レイモンド・チャンドラー.村上春樹(訳).『さよなら、愛しい人』(ハヤカワ・ミステリ文庫).2011 (早川書房.2009)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/40712.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月5日
『ロング・グッドバイ』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/05/9111495

やまもも書斎記 2019年7月11日
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/11/9127150

村上春樹の翻訳作品を読もうと思って、『ロング・グッドバイ』、『グレート・ギャツビー』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、と読んで、再びチャンドラーにもどって、『さよなら、愛しい人』を読んでみることにした。村上春樹の翻訳は、中央公論新社で多く出ていることは承知しているのだが、ここは、生来のミステリ好きということで、チャンドラーを読んでおきたくなった。

チャンドラーの作品は、若いときにひととおり読んだかと思う。この『さよなら、愛しい人』は、昔のタイトルでいえば『さらば愛しき女よ』である。

私個人の読書歴としては、日本の原寮にかたむいていったということがある。いうまでもないことだが原寮は、日本におけるハードボイルドの代表。チャンドラーに多大の影響をうけていることは、自らも認めていることである。

『ロング・グッドバイ』を読んだ目で思うことは、次の二点だろうか。

第一に、ミステリ、あるいは、エンタテイメントの作品としては、むしろ、この『さらば、愛しい人』の方がすぐれている。あまり本筋とはなれて余計なところに筆が及んでいない。謎の医師とか、霊能者とか、賭博船とか、これらの箇所は作品の本筋にからまりながらこの作品においては、エンタテイメントの要素となっている。(逆に、本筋が何かわからないように、余計なところに微細に入り込んでいくところに『ロング・グッドバイ』の良さがあるのだが。)

第二に、文学的印象としては、『ロング・グッドバイ』の方がいい。これは、なによりも、レノックスという人物の存在にある。その「友情」といっていいのだろうか、「私」とレノックスのつきあい、その微妙な人間としての関係が、『ロング・グッドバイ』に文学的深みを与えている。このようなところが、この『さらば、愛しい人』では希薄である。

以上の二点が、『さらば、愛しい人』を読んで感じるところである。昔、読んでそのストーリーは知ってはいるというものの、やはり、読み返してみて(訳は違うが)、その作品世界のなかにひたっていく楽しみというものを感じる。文学としてのハードボイルドが、ある意味で文学的な普遍性を獲得しているといっていいのかもしれない。

つづけてチャンドラーの作品を読んでいこうと思っている。次は、『大いなる眠り』である。

追記 2019-07-20
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月20日
『大いなる眠り』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/20/9130968

『なつぞら』あれこれ「なつよ、ワクワクが止まらない」2019-07-14

2019-07-14 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第15週「なつよ、ワクワクが止まらない」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/15/

前回は、
やまもも書斎記 2019年7月7日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、十勝さ戻って来い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/07/9112168

この週で描いていたのは、主に次の二つ。

第一は、新しい短篇アニメーションの制作。

そのストーリー、キャラクターの設定から、なつたちがかかわることになった。原作は『ヘンゼルとグレーテル』である。このあたりのところで、テレビの画面に出てきた絵を見ていると、なんとなくジブリの映画を連想してしまうのであるが、どうであろうか。

第二は、声優のプロダクション。

まだテレビの放送の初期のころである。外国の(主にアメリカ)のテレビドラマの日本語吹き替え版が、多く放送されていたころである。その需要をあてこんで、兄の咲太郎は、声優のプロダクションを作ることを考える。

ここに雪次郎も加わるのだが、故郷の北海道のことばが抜けなくて苦労することになる。

以上の二つのことを軸にして、昭和三〇年代はじめごろのアニメーション制作の現場を描いていた。ここで登場していた、坂場一久(中川大志)、神地航也(染谷将太)たちが、新しいアニメーションの世界を切り拓いていくようである。そのなかにあって、なんとなく面白くなさそうな顔をしている、大沢麻子(貫地谷しほり)が、いい雰囲気を感じさせたと思う。

次週は、夕見子をめぐってひともんちゃくあるようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-07-21
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月21日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、恋の季節が来た」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/21/9131386

『腰ぬけ愛国談義』半藤一利・宮崎駿2019-07-15

2019-07-15 當山日出夫(とうやまひでお)

腰ぬけ愛国談義

半藤一利.宮崎駿.『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』(文春ジブリ文庫).文藝春秋.2013
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1681220100000000000Q

ちょうど今、NHKの朝ドラで『なつぞら』を放送している。主人公(なつ)は北海道の十勝で育って、東京に出てきてアニメーションの仕事をしている。昭和三〇年代のことになる。この分野における女性のパイオニアである。

このドラマを見ているせいもあって、アニメーションへの興味があった。それに、半藤一利の本は、『昭和史』『日露戦争史』など読んでいる。村上春樹の本を読む合間にと思って手にしてみた。

思うところを記せば、次の二点ぐらいになるだろうか。

第一に、アニメーションは嘘を描いている。このことに、作者(宮崎駿)は自覚的である。

この対談は、『風立ちぬ』の公開にあわせて、その前後の二回にわけて行われている。映画を見る前と、見た後である。

『風立ちぬ』は、私は映画館では見ていない。というよりも、ここ一〇年以上、いやもっとになるか、映画館に行くということがない。テレビで放送するのを、録画しておいて、後日見るということが多い。『風立ちぬ』も、テレビの録画を見た。

昭和の戦前の時代から、戦争の時代へと、飛行機の設計にあたる堀越二郎が主人公になる。それに、菜穂子という女性が出てくる。映画は、関東大震災からスタートしていた。関東大震災から、ある意味で、昭和の時代が始まったという歴史の見方である。

そこで時代考証ということが問題になる。ここで、作者(宮崎駿)は、かなり大胆な虚構で描いているらしい。このことについて述べたくだりが面白かった。

また、アニメーションの絵というものは、そんなに大きな用紙に詳細に描くものではないらしい。今、テレビが、4Kだとか、8Kだとか、高精細をうたっている時代なのだが(この対談が行われたときには、まだそのようなものは登場していない)、実際に人間が映画館で見るスクリーンにどの程度の精度の絵を描いてみせるかということになると、かなりアバウトなところがあるようだ。

声優の選定については、その声の実在感が重要であることなど、いろいろとアニメーション制作の事情が分かって楽しい。

第二に、この対談の本筋とはあまり関係ないかもしれないが、『草枕』(夏目漱石)と堀辰雄について、かなり言及してある。半藤一利も、宮崎駿も、『草枕』が漱石で一番の作品であるという。実は、私は、『草枕』は、若いときに読んだことはあるのだが、その後、現在にいたるまで、読者ということではなく過ぎてきてしまっている。漱石の作品は、『三四郎』以降の作品を、何年かおいてまとめて読み直すということをしてきている。しかし、初期の作品は、このごろではあまり読むことがない。

この対談を読んで、久しぶりに『草枕』を読んでおきたくなった。

それから、堀辰雄。堀辰雄については、半藤一利が、神西清のことばとして次のように記している。付箋をつけた。

「詩を散文で書ける人というのは日本に何人もいないんだよ。そのなかでいちばん優秀なのが堀辰雄だ」(p.153)

堀辰雄も、若い時に、一通り読んだ記憶はあるのだが、最近は手にしていない。これも、主な作品ついて、再度、読み返しておきたくなった。

以上の二点が、この対談を読んで思うことなどである。

さらに書くならば、半藤一利も、宮崎駿も、これからの日本は、もう経済発展する国ではないと、見極めている。東洋の小さな国として、近隣の国々との友好関係のなかで生きていくしか道はない、ということでは、意見が一致しているようだ。

五〇年ぐらいで、歴史の一コマのサイクルがある、という。であるならば、戦後七〇年以上を経た今、戦後の経済復興、経済発展の路線上に、そのまま次の日本をおいて考えることはできない。さらにその次の、もはや経済的に成長することはない、成熟した国としての日本のあり方のビジョンを構築していく必要がある。

戦前から戦後にかけての、昭和の歴史、さらには、平成の歴史を考えるときにも、いろいろ含蓄に富む話題を提供してくれる本であると思う。また、こうもいえようか、この対談は、〈保守〉の面目躍如たるものがある、とも。まもるべきもの、たちかえるべきものとしての、古きよき過去の日本について、こころゆくまで語っていると感じるところがある。

追記 2019-07-19
『草枕』については、
やまもも書斎記 2019年7月19日
『草枕』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/19/9130514

追記 2019-07-22
堀辰雄『風立ちぬ』については、
やまもも書斎記 2019年7月22日
『風立ちぬ』堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/22/9131853

『いだてん』あれこれ「替り目」2019-07-16

2019-07-16 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』2019年7月14日、第27回「替り目」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/027/

前回は、
やまもも書斎記 2019年7月9日
『いだてん』あれこれ「明日なき暴走」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/09/9124847

この回で金栗四三から、田畑政治へと、主役が移った。

思うことを書いてみる。

第一には、前半において四三を主人公としたことの意味である。四三は三回のオリンピックに出場したのだが、メダルをとったということはない。このドラマを構想するにあたって、四三を前半の主人公にもってきた意味が、ようやくあきらかになったということだろうか。

田畑政治が語っていた……日本人で最初にオリンピックに出たのは金栗四三である、と。史実としては、同時に三島も出場したのだが、それは脇役になっている。金栗四三が、最初のオリンピック選手である。それは、陸上という競技を描くことにおいて、また、人見絹枝の活躍につながるものとして、四三の存在が大きい。また、四三は、あくまでも熊本の人間として描かれていた。ドラマから退場して、四三の帰っていくさきは、熊本である。熊本のリージョナリズムでもって、オリンピックのナショナリズムを相対化する、その視点を確保することに意義があったと見るべきだろう。

第二には、オリンピックと商業主義である。今日のオリンピックは、あまりに商業的である。それに対する批判はあるとしても、そのようにしか現在のオリンピックはありえない。そのオリンピックの商業主義、メダル獲得至上主義、このようなものの萌芽を、ロサンゼルス大会への参加を軸に描いていた。それも、ドタバタ(スラップスティック)で。

スラップスティックで描くことによって、シリアスなナショナリズムを相対化して見ることにつながっている、と感じる。そのドタバタを、田畑政治(阿部サダヲ)が軽やかに演じている。

以上の二点が、この回を見て思うことであろうか。

それから、志ん生の部分が、だんだんとよくなってきている。うらぶれた、というよりも、無頼のというべきか、若いときの志ん生の生活が、哀愁をこめて描写されているように感じる。この志ん生の部分を、今度、どのように現在のビートたけしにつなげていくか、このあたりが見どころになるかと思う。

次週以降、いよいよ昭和の時代を描くことになるようだ。幻におわった昭和15年のオリンピック、そして、その前のベルリンの「民族の祭典」、このあたりがどうなるか楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-07-30
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月30日
『いだてん』あれこれ「走れ大地を」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/30/9135073

ムラサキシキブ2019-07-17

2019-07-17 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は、ムラサキシキブである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年7月10日
雨のしずく
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/10/9126697

この花は去年も写している。
やまもも書斎記 2018年9月13日
ムラサキシキブの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/13/8959704

今年も、同じ木に花が咲いているのを目にした。去年、花が咲いているとき、実がなったときを見て写真に撮っているので、これがムラサキシキブであるとわかって、観察していた。いつもとおる散歩道のかたわらにある。

この花を見ると地震を思い出す。去年の六月の大阪北部の地震である。この花を写そうと思って、カメラと三脚を持って家を出た。写真をとっている途中で、地鳴りの音を耳にした。地震で揺れるということは感じなかったのだが、確かに音は感じた。すぐに家に帰ってテレビをつけたのを憶えている。

ともあれ、今年も同じように花が咲いた。この花を写そうと朝早くに家を出た。少しの風にもゆらぐので、早朝の風の無いときをねらっていかないと写真を写せない。大きな木の下の影になって暗くなっているところに咲いている。昼間でもそう速いシャッターで写すのはむずかしい。風の無いときをみはからって写してみたのだが、それでも感度は、10000ほどに上げている。最近のカメラだから、これぐらい高感度にしても、そうノイズが目立つということはない。

もうこの花も終わっている。散歩のときに目にすると、今は青い実がついているのが確認できる。秋になるとこれが紫色になる。そうたくさんの実がなるということではないのだが、ムラサキシキブと確認できる。

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-07-31
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月31日
ネムノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/31/9135486

NHK『永遠のニㇱパ』2019-07-18

2019-07-18 當山日出夫(とうやまひでお)

このドラマ、2019年7月15日の放送。それを録画しておいて見た。

いかにもNHKで作ったというドラマであるし、また、今の時代になったから作れたドラマである、そのように感じるところがある。批判的に見るならばいくらでも論点はあるかもしれないが、ここはなるべく肯定的に感想など書いてみることにする。

松浦武四郎という人物は、(私の記憶では)これまでほとんどドラマなどに登場することはなかった。北海道探検という観点では、まずは間宮林蔵の名前が思い浮かぶ。これは、学校の教科書に出てきたのを憶えている。だが、松浦武四郎の名前は、どこで覚えただろうか。知ってはいた名前なのだが、このあたりの記憶があいまいである。

その松浦武四郎は、北海道の地誌調査において、アイヌの人びとの実情を知ることになる。そして、終始、アイヌの人びとには好意的である。この松浦武四郎のような人物が、幕府において、また、明治政府において、活躍する場が与えられていたならば、北海道の人びと……特に、アイヌの人びとの歴史……は、また違ったものになっていた可能性がある。

このドラマの最大の意義は、北海道は、明治なってから日本の領土に組み込まれたということの認識であろう。それまで、江戸時代までは、松前藩の、あるいは、幕府の管理するところであったが、同時に、アイヌの人びとの居住する土地でもあった。それを、日本国の領土として国境が確定したのは、明治以降のことになる。(これと同じことが、沖縄についてもいえる。琉球王国であったものが、日本国の沖縄県になったのは、明治になってからである。それまで沖縄は、日本のものではなかった。)

現代ある日本の領土としての北海道が、どのような歴史的経緯で、今のように国土の一部になっているのか、そこのところを考えてみるという観点からは、このドラマは評価されていいのではないだろうか。

無論、さらに考えるべきこととしては、ロシア、あるいは、ソ連との関係がどうであったかという観点も重要になってくるであろうが。

ちょっと残念な気がしたところとしては、幕末から明治にかけてのところで、榎本武揚が登場しなかったことである。だが、しかし、このドラマの枠のなかで、そこまで描くのは無理であったというべきであろう。幕末の戊辰戦争の行方によっては、北海道の歴史は、ひょっとしたら変わっていたかもしれない。

ところで、これを書いている私の机の横、床の上に積んである本のなかに、中村真一郎の『蠣崎波響の生涯』がある。読もうと思っておいてあるのだが(再読)、途中でとまってしまったままである。この夏の間に読んでしまいたいと思う。

さらに余計なことを書いてみるならば、このドラマのタイトルは、『永遠のニㇱパ』である。ここにつかってある「ㇱ」の文字は、「シ」(カタカナ)ではない。その小書き、アイヌ語用の文字である。これは、JIS規格の0213:2000において採用された。このアイヌ語用の文字が、NHKという全国的なメディアでつかわれたのは、希有なこととすべきかもしれない。

『草枕』夏目漱石2019-07-19

2019-07-19 當山日出夫(とうやまひでお)

草枕

夏目漱石.『草枕』(新潮文庫).新潮社.1950(2005.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101009/

『草枕』を再読してみたくなって、手にしてみた。読んだのは新潮文庫版である。漱石は、岩波版の「全集」も二セット持っている。が、ここは気楽に手にできる本で読んでみようと思って、新潮文庫で読むことにした。

『草枕』は明治三九年の作である。小説家としての漱石としては初期の作品になる。

これまで、『草枕』は何度か読み返している。最初に読んだのは、中学生のときだったか、高校生のときだったか、何かの文庫本で読んだ。そして、高校生になったときに、岩波の「全集」が出たので、それでも読んだ。その後、折りにふれて読んではきたと思う。

しかし、今一つ、漱石の作品のなかでは好きになれないで今まできた。どこかしらペダンティックな感じがして、とりつきにくいところを感じていた。

が、自分自身も、もう漱石の没年をはるかにすぎてしまって、さらに漱石の作品を読み直してみたくなっている。『三四郎』以降の作品については、おおむね数年おきに、だいたい順番に読んで来ているのだが、それ以外の作品をきちんと読み直してみたくなってきている。

そのきっかけになっているのが、半藤一利と宮崎駿の『腰ぬけ愛国談義』である。

やまもも書斎記 2019年7月15日
半藤一利・宮崎駿『腰ぬけ愛国談義』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/15/9128716

この本の冒頭で、対談の両者が、漱石の作品のなかで何が一番好きかとして、ともに『草枕』をあげていた。それなら、これをきっかけとして、読んで見るかと思った次第である。

読んで感じることはいくつかあるが、二点ばかりあげておく。

第一には、晩年の漱石が『明暗』を書きながら、漢詩の世界に遊んでいたことは知られていることである。その漢詩、また、俳句の世界が、『草枕』にはある。漱石は、作家生活が一〇年ほどしかない。最晩年の『明暗』執筆のころと、『草枕』を書いたころと、そう大きな変化があったことはないのかもしれない。

無論、漱石という作家は、一作ごとに新しいテーマにチャレンジしていく作家であったし、その作家生活の途中には、いわゆる修善寺の大患がある。だが、そうはいっても、『草枕』の世界のなかに、『明暗』の漱石があこがれていた文人的境地とでもいうべきものを、見出すとしてもあながちまちがった解釈ではないだろう。

実際、私が、今回、『草枕』を久しぶりに読んでみて感じたことの第一は、むしろその背景にあると感じ取れる『明暗』の世界であった、このようにいうこともできるだろう。

第二には、登場人物のなかで、女性の那美さんがつかっていることばが、女学生言葉ではないことに気がついた。漱石の小説の登場人物、その女性のことばは、多くの場合、女学生言葉である。『三四郎』の美禰子、『それから』の三千代、『こころ』の奥さん、など。

これも、最晩年の『明暗』になると、妻のお延のことばが変わってきているように感じる。いや、そうではなく、小説中の人物造形が変わってきたといった方がいいだろうか。また、気になるのは、清子のことばなのだが、本格的に登場するまえに、この小説は未完で終わってしまった。

このような意味において……漱石に作品中の女性をどのように描くかという視点から見て……『草枕』の那美さんが、女学生言葉をつかってはいないということが、非常に興味深いことのように思われてくる。

以上の二点が、何年かぶりに『草枕』を読み返してみて思ったことなどである。

読んだあとで、私のKindleに、岩波文庫版『草枕』を買ってダウンロードしていれておいた。外出するときは、Kindleを持って出る。出先で、ちょっとした時間に読むのにいいと思ってである。(『草枕』は、他の版でもKindleに入れて持っているのだが、ルビの処理などで、いささか不満がある。ここで岩波文庫版を買っておくことにした。)

他の漱石の作品も、さらに再々読しておきたい。これまで、岩波版「全集」か、岩波文庫で読んできたのだが、新潮文庫の校訂で読んでみるのもいいかという気がしてきている。さしあたって、村上春樹の関連を読んでいるのだが、そのかたわらに、順番に漱石の作品の再々読も考えてみたい。それから、堀辰雄も読んでおきたい。

次には、『明暗』を読んで(何度目になるだろうか)みたくなっている。

追記 2019-07-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月25日
『明暗』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/25/9133086

『大いなる眠り』村上春樹訳2019-07-20

2019-07-20 當山日出夫(とうやまひでお)

大いなる眠り

レイモンド・チャンドラー.村上春樹(訳).『大いなる眠り』(ハヤカワ・ミステリ文庫).早川書房.2014 (早川書房.2012)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/40714.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月13日
『さよなら、愛しい人』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/13/9127906

村上春樹訳で、レイモンド・チャンドラーを読んでいる。原作の刊行された年からいうならば、この『大いなる眠り』が、マーロウのシリーズの最初ということになる。1939年の作品である。今からふりかえって、太平洋戦争の前に刊行された作品であることに、いささかおどろく。そして、これが、マーロウのシリーズの最初の作品になるわけだが、その完成度はおどろくほどに高い。

この本には、訳した村上春樹の「「警察にできなくて、フィリップ・マーロウにできること」――訳者あとがき」がついている。読んでなるほどと思うところがある。すぐれたレイモンド・チャンドラー論になっている。

フィリップ・マーロウのシリーズでは、『ロング・グッドバイ』が出来がいいということになるのかもしれないが、文学史的に考えるならば、マーロウのシリーズの最初の作品である『大いなる眠り』の持つ意味は大きい。二〇世紀のなかばに刊行されたこの作品が、二一世紀の今になっても、読まれ続け、このように新しい日本語訳が刊行されている。その世界の文学への影響も、また大きなものがある。

この本を読んだところで思うことを書いてみる。

第一には、ハードボイルドという形式のもつ意味である。西欧の文学は、「神の視点」を手にいれることによって発展をとげたといっていいだろう。昨年、いっきに全巻を読み終えた『失われた時を求めて』(プルースト)など、心理描写をする作者自身をも、さらに俯瞰的に見る視点を獲得していると読める。

だが、ハードボイルドは、「私」の視点に限定される。無論、フィクションであるから、日本の私小説のような「私」ではない。しかし、視点が、「私」に限定されるというのは、きわめて不自由な制約かもしれない。

そのような制約が課せられることによって、より自由闊達に主人公「私」を描くところに、ハードボイルドの妙味があるといえようか。語りの視点が制約されるからこそ、そこから、自由に文学的想像力を働かせることが可能になっているかもしれない。

第二には、(これは村上春樹も指摘していることだが)読みながら感じることは、作者は、楽しみながら書いていることが感じ取れることである。この意味において、「私」は、きわめて饒舌である。禁欲的に「私」の視点に制約されながらも、そのなかで饒舌に、見たこと、体験を語っていく。この饒舌の楽しみが、この作品には感じ取れる。

以上の二点が、『大いなる眠り』を読んで思うことなどである。

さらに書いてみるならば、ミステリとしてのストーリーの展開とは別に、登場する女性が魅力的に描かれていることがあげられるかもしれない。特に、姉妹の妹が、この作品に生彩をはなっている。

つづけて、マーロウのシリーズを村上春樹訳で読んでいくことにする。次は、『リトル・シスター』である。

追記 2019-07-24
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月24日
『リトル・シスター』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/24/9132690