『なつぞら』あれこれ「なつよ、恋の季節が来た」 ― 2019-07-21
2019-07-21 當山日出夫(とうやまひでお)
『なつぞら』第16週「なつよ、恋の季節が来た」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/16/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月14日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、ワクワクが止まらない」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/14/9128322
この週で描いていたのは、主に次の二つだろうか。
第一に、短篇アニメーションの制作。
なつは、短篇のアニメーション『ヘンゼルとグレーテル』の制作にたずさわることになる。そこで、アニメーションとして、何が表現可能か、その可能性を追求することになる。ここは、かなり大胆に原作の話を改めて作るようであったが。
この短篇アニメーションの制作が、次のステップへとつながっていくのだろう。また、この作品の制作、完成をきっかけとして、マコさんが、仕事から引退して結婚することになる。イタリアに行くとのことである。おそらく、次の展開としては、なつがアニメーション制作の責任者として仕事をすることになるのだろう。そして、そこには、イッキュウさんも、ともに仕事をすることになる。
第二に、夕見子のこと。
時代は、昭和三〇年代のはじめ。別の観点からみれば、六〇年安保のときである。しかし、このドラマは、そのような政治的なことは基本的に描かない方針のようだ。
しかし、その当時に若者……特に、大学生……の反抗心のようなものは描いていた。北海道大学に通っていたはずの夕見子が、駆け落ちして東京に出てくる。相手は、同じ大学生である。ジャズの評論を目指しているという。
この時代、ジャズは、確かに、既成の価値観への反逆、カウンターカルチャーのシンボルであったと見るべきかもしれない。だが、そのささやかな反抗も、故郷から出てきた泰樹じいさんによって、うちくだかれてしまう。新時代の都市的な若者文化と、地方の家族の世界、この対立と理解できなくもない。が、ここのところに、このドラマは深く入り込むことをしていない。これはこれとして、一つのドラマの作り方だろうと思う。
以上の二つのことが、この週で描いていたことだろうか。
次週、アニメーションは、テレビの時代をむかえるようだ。テレビの草創期、その時代のアニメーションをどう描いて見せるか、楽しみに見ることにしよう。
『なつぞら』第16週「なつよ、恋の季節が来た」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/16/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月14日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、ワクワクが止まらない」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/14/9128322
この週で描いていたのは、主に次の二つだろうか。
第一に、短篇アニメーションの制作。
なつは、短篇のアニメーション『ヘンゼルとグレーテル』の制作にたずさわることになる。そこで、アニメーションとして、何が表現可能か、その可能性を追求することになる。ここは、かなり大胆に原作の話を改めて作るようであったが。
この短篇アニメーションの制作が、次のステップへとつながっていくのだろう。また、この作品の制作、完成をきっかけとして、マコさんが、仕事から引退して結婚することになる。イタリアに行くとのことである。おそらく、次の展開としては、なつがアニメーション制作の責任者として仕事をすることになるのだろう。そして、そこには、イッキュウさんも、ともに仕事をすることになる。
第二に、夕見子のこと。
時代は、昭和三〇年代のはじめ。別の観点からみれば、六〇年安保のときである。しかし、このドラマは、そのような政治的なことは基本的に描かない方針のようだ。
しかし、その当時に若者……特に、大学生……の反抗心のようなものは描いていた。北海道大学に通っていたはずの夕見子が、駆け落ちして東京に出てくる。相手は、同じ大学生である。ジャズの評論を目指しているという。
この時代、ジャズは、確かに、既成の価値観への反逆、カウンターカルチャーのシンボルであったと見るべきかもしれない。だが、そのささやかな反抗も、故郷から出てきた泰樹じいさんによって、うちくだかれてしまう。新時代の都市的な若者文化と、地方の家族の世界、この対立と理解できなくもない。が、ここのところに、このドラマは深く入り込むことをしていない。これはこれとして、一つのドラマの作り方だろうと思う。
以上の二つのことが、この週で描いていたことだろうか。
次週、アニメーションは、テレビの時代をむかえるようだ。テレビの草創期、その時代のアニメーションをどう描いて見せるか、楽しみに見ることにしよう。
追記 2019-07-28
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月28日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、テレビ漫画の幕開けだ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/28/9134214
この続きは、
やまもも書斎記 2019年7月28日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、テレビ漫画の幕開けだ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/28/9134214
『風立ちぬ』堀辰雄 ― 2019-07-22
2019-07-22 當山日出夫(とうやまひでお)
堀辰雄.『風立ちぬ』(ちくま日本文学「堀辰雄」).筑摩書房.2009
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480425690/
「風立ちぬ、いざ生きめやも」、このことばを憶えたのはいったいいつのことだったろうか。
『風立ちぬ』の初出は、昭和一一年から一三年である。この作品を読んでみようと思ったのは、『腰ぬけ愛国談義』を読んだことによる。
やまもも書斎記 2019年7月15日
『腰ぬけ愛国談義』半藤一利・宮崎駿
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/15/9128716
半藤一利と宮崎駿の対談、それから映画『風立ちぬ』のことを読んで、堀辰雄の『風立ちぬ』を読んでおきたくなった。再読になる。昔読んだのは、いつのことだったろうか。高校生のころだったかもしれない。堀辰雄の作品のいくつかを読んだ記憶がある。だが、そうふかく堀辰雄に傾倒するということなく、今にいたってしまった。
久しぶりに再読してみて感じることは、やはり、この作品を、高校生のときに分からなかったのはいたしかたないな、という感想である。この作品にえがいている〈死〉というものが、若いときに理解が及ばなかったのは無理もない、そう思ってみる。
『風立ちぬ』は、特に波瀾万丈のストーリーの展開のある作品というわけではない。肺結核におかされた節子という女性、その女性が、山のなかのサナトリウムにはいる。それを見舞い、つきそうことになる「私」、その「私」の視点から、サナトリウムでの療養生活、そして、死後のことまでが、淡々と叙述される。そこにあるのは、〈死〉を意識の片隅において生きる〈生〉であり、また〈愛〉である。それを、深い〈詩〉として叙述してある。これら〈死〉〈生〉〈愛〉〈詩〉を、行間に感じ取りながら、思わず一気に読んでしまった。
まさにこのような作品を〈文学〉というのだろう。あるいは、このような文章を書けるひとを〈詩人〉というのであろう。この〈文学〉〈詩〉は、読みながら感じ取るものとしてある。表面的には、あっさりとした描写である。字面ではなく、読みながら行間に、紙背に、〈文学〉〈詩〉を感じ取りながら読まねば、読んだことにはならない。
高原のサナトリウムという舞台は、文学的である。いや、そうではなく、堀辰雄がこのような作品を書いたことによって、文学的イメージを獲得するようになっていると考えるべきだろう。およそ「文学」というものが「古典」として読み継がれるものであるならば、『風立ちぬ』は日本の近代文学におけるまぎれもない「古典」である。「古典」は、そこに立ち返ることによって、文学的感性を確認できる作品でなければならない。この意味で、「古典」でありつづけるにちがいない。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480425690/
「風立ちぬ、いざ生きめやも」、このことばを憶えたのはいったいいつのことだったろうか。
『風立ちぬ』の初出は、昭和一一年から一三年である。この作品を読んでみようと思ったのは、『腰ぬけ愛国談義』を読んだことによる。
やまもも書斎記 2019年7月15日
『腰ぬけ愛国談義』半藤一利・宮崎駿
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/15/9128716
半藤一利と宮崎駿の対談、それから映画『風立ちぬ』のことを読んで、堀辰雄の『風立ちぬ』を読んでおきたくなった。再読になる。昔読んだのは、いつのことだったろうか。高校生のころだったかもしれない。堀辰雄の作品のいくつかを読んだ記憶がある。だが、そうふかく堀辰雄に傾倒するということなく、今にいたってしまった。
久しぶりに再読してみて感じることは、やはり、この作品を、高校生のときに分からなかったのはいたしかたないな、という感想である。この作品にえがいている〈死〉というものが、若いときに理解が及ばなかったのは無理もない、そう思ってみる。
『風立ちぬ』は、特に波瀾万丈のストーリーの展開のある作品というわけではない。肺結核におかされた節子という女性、その女性が、山のなかのサナトリウムにはいる。それを見舞い、つきそうことになる「私」、その「私」の視点から、サナトリウムでの療養生活、そして、死後のことまでが、淡々と叙述される。そこにあるのは、〈死〉を意識の片隅において生きる〈生〉であり、また〈愛〉である。それを、深い〈詩〉として叙述してある。これら〈死〉〈生〉〈愛〉〈詩〉を、行間に感じ取りながら、思わず一気に読んでしまった。
まさにこのような作品を〈文学〉というのだろう。あるいは、このような文章を書けるひとを〈詩人〉というのであろう。この〈文学〉〈詩〉は、読みながら感じ取るものとしてある。表面的には、あっさりとした描写である。字面ではなく、読みながら行間に、紙背に、〈文学〉〈詩〉を感じ取りながら読まねば、読んだことにはならない。
高原のサナトリウムという舞台は、文学的である。いや、そうではなく、堀辰雄がこのような作品を書いたことによって、文学的イメージを獲得するようになっていると考えるべきだろう。およそ「文学」というものが「古典」として読み継がれるものであるならば、『風立ちぬ』は日本の近代文学におけるまぎれもない「古典」である。「古典」は、そこに立ち返ることによって、文学的感性を確認できる作品でなければならない。この意味で、「古典」でありつづけるにちがいない。
『佐武と市捕物控 杖と十手の巻』石ノ森章太郎 ― 2019-07-23
2019-07-23 當山日出夫(とうやまひでお)
石ノ森章太郎.『佐武と市捕物控 杖と十手の巻』(ちくま文庫).筑摩書房.2019
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480436061/
続きでである。
やまもも書斎記 2019年7月12日
『佐武と市捕物控 江戸暮しの巻』石ノ森章太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/12/9127542
「佐武と市」シリーズの文庫本、第二冊目である。
この巻の主人公は、市の方かもしれない。どうやら編集としては、市を主にあつかった作品を集めてようである。
その市について描いていることは、次の二点になるだろうか。
第一には、剣劇アクションとしての魅力である。
なぜ自分は人を斬るのか、自問自答しながらも、向かってくる相手には、容赦ない。その強さは、群を抜いている。剣豪漫画というジャンルがあるのかどうか知らないが……私の記憶にあるものでは「無用ノ介」(さいとう・たかお)などが思い浮かぶが……剣劇アクション漫画として、非常にすぐれていると感じるところがある。剣劇のアクションの視覚的表現において、作者(石ノ森章太郎)ならではの境地が見られると言っていいだろう。
第二には、その市のこころである。
市は人を斬る。なぜ、自分は人を斬らねばならないのか、あるいは、さらに、なぜ自分はこうも強いのか、市は悩む。だが、向かってくる相手がいる以上、仕込み杖をぬかざるをえない。そして、また、人を斬ってしまう。この市のこころの中の葛藤とでもいうべきものが、しみじみと描かれてもいる。
以上の二点が、この第二冊を読んで感じるところである。
さらに付け加えるならば、この巻に収録の「シャマイクル」という作品。舞台を北に移して、アイヌの人びとのことが出てくる。おそらく、漫画という、いわゆるサブ・カルチャーの分野においてのみならず、メディア全般のなかで、アイヌの人びとに視線をむけているという観点からは、特筆しておくべきものであると思える。(このあたりは、日本の言論空間におけるアイヌの歴史というような仕事があっていいと思う。私が知らないだけなのだろうが。)
次は、第三冊目である。どのような編集になっているか、楽しみに読むことにしよう。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480436061/
続きでである。
やまもも書斎記 2019年7月12日
『佐武と市捕物控 江戸暮しの巻』石ノ森章太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/12/9127542
「佐武と市」シリーズの文庫本、第二冊目である。
この巻の主人公は、市の方かもしれない。どうやら編集としては、市を主にあつかった作品を集めてようである。
その市について描いていることは、次の二点になるだろうか。
第一には、剣劇アクションとしての魅力である。
なぜ自分は人を斬るのか、自問自答しながらも、向かってくる相手には、容赦ない。その強さは、群を抜いている。剣豪漫画というジャンルがあるのかどうか知らないが……私の記憶にあるものでは「無用ノ介」(さいとう・たかお)などが思い浮かぶが……剣劇アクション漫画として、非常にすぐれていると感じるところがある。剣劇のアクションの視覚的表現において、作者(石ノ森章太郎)ならではの境地が見られると言っていいだろう。
第二には、その市のこころである。
市は人を斬る。なぜ、自分は人を斬らねばならないのか、あるいは、さらに、なぜ自分はこうも強いのか、市は悩む。だが、向かってくる相手がいる以上、仕込み杖をぬかざるをえない。そして、また、人を斬ってしまう。この市のこころの中の葛藤とでもいうべきものが、しみじみと描かれてもいる。
以上の二点が、この第二冊を読んで感じるところである。
さらに付け加えるならば、この巻に収録の「シャマイクル」という作品。舞台を北に移して、アイヌの人びとのことが出てくる。おそらく、漫画という、いわゆるサブ・カルチャーの分野においてのみならず、メディア全般のなかで、アイヌの人びとに視線をむけているという観点からは、特筆しておくべきものであると思える。(このあたりは、日本の言論空間におけるアイヌの歴史というような仕事があっていいと思う。私が知らないだけなのだろうが。)
次は、第三冊目である。どのような編集になっているか、楽しみに読むことにしよう。
追記 2019-08-16
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月16日
『佐武と市捕物控 愛憎と綾の巻』石ノ森章太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/16/9141540
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月16日
『佐武と市捕物控 愛憎と綾の巻』石ノ森章太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/16/9141540
『リトル・シスター』村上春樹訳 ― 2019-07-24
2019-07-24 當山日出夫(とうやまひでお)
レイモンド・チャンドラー.村上春樹(訳).『リトル・シスター』(ハヤカワ・ミステリ文庫).早川書房.2012 (早川書房.2010)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/40713.html
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月20日
『大いなる眠り』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/20/9130968
レイモンド・チャンドラーの村上春樹訳を読んでいる。四冊目になる。
読みながら思うことは、言い古されたことになるのだろうが、ハードボイルドという小説の形式が、世界の文学に与えた影響の大きさである。文学の歴史としては、近代小説というものの成立において、「神の視点」を手にいれたことになる。そのうえで、あえて「私」という視点に限定して、物語を語ることは、非常な制約になっている。だが、それをあえてしてまで、「私」にこだわるのは、どうしてなのだろう。
だが、そのように思ってみても、今日の文学、二十一世紀の文学において、ハードボイルドという形式を経験していることの意味は、大きなものがあると感じざるをえない。
また、ミステリという形式にこだわるのも、意味のあることかもしれない。二十世紀の文学、二十一世紀の文学を考えるとき、ミステリという形式、スタイル……これにならって書くにせよ、そうでないにせよ……ミステリというものが、文学の一つのジャンルとして存在することを抜きにしては、存在しないように思う。
しかし、このようなことよりも、『リトル・シスター』である。読んで見て、はっきりいって、よく分からなかった、というのが正直なところ。小説としての完結性、整合性という観点からら、すぐに理解できないところが、はっきりいってあった。(このあたりことについては、村上春樹のあとがきでも言及がある。)
にもかかわわらず、この作品をいっきに読んでしまったのは、やはりなんといっても、フィリップ・マーロウという人物の魅力である。それから、この作品について私が感じたことは、ハリウッドという街を描いていることである。その街と、そこに住む、はたらく、ひとびとを魅力的に活写している。(このあたり、チャンドラーの来歴として、ハリウッドで仕事をしていたということがあってのことにはちがいない。)
また、この作品において、依頼人の女性が魅力的である。このことについては、村上春樹のあとがきでも触れられている。
ともあれ、残り三冊になった。順番に読んでいくことにする。次は、『高い窓』である。
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/40713.html
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月20日
『大いなる眠り』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/20/9130968
レイモンド・チャンドラーの村上春樹訳を読んでいる。四冊目になる。
読みながら思うことは、言い古されたことになるのだろうが、ハードボイルドという小説の形式が、世界の文学に与えた影響の大きさである。文学の歴史としては、近代小説というものの成立において、「神の視点」を手にいれたことになる。そのうえで、あえて「私」という視点に限定して、物語を語ることは、非常な制約になっている。だが、それをあえてしてまで、「私」にこだわるのは、どうしてなのだろう。
だが、そのように思ってみても、今日の文学、二十一世紀の文学において、ハードボイルドという形式を経験していることの意味は、大きなものがあると感じざるをえない。
また、ミステリという形式にこだわるのも、意味のあることかもしれない。二十世紀の文学、二十一世紀の文学を考えるとき、ミステリという形式、スタイル……これにならって書くにせよ、そうでないにせよ……ミステリというものが、文学の一つのジャンルとして存在することを抜きにしては、存在しないように思う。
しかし、このようなことよりも、『リトル・シスター』である。読んで見て、はっきりいって、よく分からなかった、というのが正直なところ。小説としての完結性、整合性という観点からら、すぐに理解できないところが、はっきりいってあった。(このあたりことについては、村上春樹のあとがきでも言及がある。)
にもかかわわらず、この作品をいっきに読んでしまったのは、やはりなんといっても、フィリップ・マーロウという人物の魅力である。それから、この作品について私が感じたことは、ハリウッドという街を描いていることである。その街と、そこに住む、はたらく、ひとびとを魅力的に活写している。(このあたり、チャンドラーの来歴として、ハリウッドで仕事をしていたということがあってのことにはちがいない。)
また、この作品において、依頼人の女性が魅力的である。このことについては、村上春樹のあとがきでも触れられている。
ともあれ、残り三冊になった。順番に読んでいくことにする。次は、『高い窓』である。
『明暗』夏目漱石 ― 2019-07-25
2019-07-25 當山日出夫(とうやまひでお)
夏目漱石.『明暗』(新潮文庫).新潮社.1987(2019.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101019/
『草枕』の新潮文庫版を読んで、次に手にしたのが『明暗』である。
やまもも書斎記 2019年7月19日
『草枕』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/19/9130514
何故『草枕』の次に『明暗』を読んでみたくなったのか……これまで何度か読み返している作品であるが……それは、おそらく『草枕』の対極に位置する作品が『明暗』であると感じたからである。
『明暗』を書いていた晩年の漱石は、小説の進行と同時に漢詩文の世界にひたっていたことは知られていることだろう。その漢詩文の世界をもっとも濃厚に感じるのが『草枕』である。あるいは、今『明暗』を読むとすると、そのときに感じるものは、漱石の描きたかった『明暗』の世界であると同時に、そのような小説を書きながら漢詩文にこころひかれていた作家のこころのうちへの共感のようなものであるのかもしれない。
このように思って、『明暗』を読んでみた。「漱石全集」は、二セット持っている。探せば、岩波文庫もあるはずである。が、ここは、割り切って新潮文庫の版で読んでみることにした。
これまで何度かこの作品は読んでいる。今回読みかえしてみて思ったことなど書くとすると次の二点ぐらいだろうか。
第一には、この小説にはほとんど自然描写が無いことである。主人公の津田の病院でのシーンから始まるこの小説を読んでいって、季節の風物の描写などが、皆無とはいわないまでも、かなり少ないと感じる。これは、『明暗』以前の小説には、多く季節の風物の描写が見られたことを考えてみると、意味のあることのように思われる。季節の風物の描写のかわりに、この小説は、ほぼ全編にわたって(といっても、未完におわっているのだが)、人間の心理描写になっている。作者、漱石は、この小説で、とことん登場人物の心理をえがこうとしたようだ。(だから、小説の執筆のかたわらで漢詩文の世界にひたりたくもなったのであろうと感じるところがある。)
そして、季節の風物、自然描写が登場するのが、小説の終わりになってからの温泉宿のところである。ひょっとすると、作者、漱石は、東京での登場人物の心理描写に終始することがいやになって、地方の温泉宿に小説の舞台を移したのかもしれない。
第二には、この小説の主人公は、津田であると思っているのだが、しかし、その妻のお延に視点を移した部分がかなり多い。『明暗』までの小説において、漱石の小説の語り口としては、視点人物は、基本的に一定である。『三四郎』は小川三四郎であるし、『猫』は吾輩である。少なくとも、章節のまとまりにおいては、基本的にゆるがないと思う。(これも、再度、その目で読み返してみないとはっきり言えないが。)
だが、『明暗』では、かなり自由に、津田とお延、この二人の人物において、叙述の視点が移動している。
そして、そのお延の部分を読んで感じることとしては、お延は、話相手によって、そのことばが変わっている、ということである。夫の津田と話すとき、津田の妹の秀子と話すとき、下女のお時と話すとき、それぞれに微妙にことばづかいが変わっている。
このようなことばづかいの変化を、現代の日本語学の用語、概念でいうならば、「役割語」ということになる。
以上の二点が、今回、何度目になるか忘れてしまったが、『明暗』を再読してみて思ったことなどである。『草枕』『明暗』と読んでみて、さらに漱石の他の作品も、再読しておきたくなっている。岩波の「全集」もあるのだが、新潮文庫版のテキストで読んでみておくのもいいかという気がしている。
https://www.shinchosha.co.jp/book/101019/
『草枕』の新潮文庫版を読んで、次に手にしたのが『明暗』である。
やまもも書斎記 2019年7月19日
『草枕』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/19/9130514
何故『草枕』の次に『明暗』を読んでみたくなったのか……これまで何度か読み返している作品であるが……それは、おそらく『草枕』の対極に位置する作品が『明暗』であると感じたからである。
『明暗』を書いていた晩年の漱石は、小説の進行と同時に漢詩文の世界にひたっていたことは知られていることだろう。その漢詩文の世界をもっとも濃厚に感じるのが『草枕』である。あるいは、今『明暗』を読むとすると、そのときに感じるものは、漱石の描きたかった『明暗』の世界であると同時に、そのような小説を書きながら漢詩文にこころひかれていた作家のこころのうちへの共感のようなものであるのかもしれない。
このように思って、『明暗』を読んでみた。「漱石全集」は、二セット持っている。探せば、岩波文庫もあるはずである。が、ここは、割り切って新潮文庫の版で読んでみることにした。
これまで何度かこの作品は読んでいる。今回読みかえしてみて思ったことなど書くとすると次の二点ぐらいだろうか。
第一には、この小説にはほとんど自然描写が無いことである。主人公の津田の病院でのシーンから始まるこの小説を読んでいって、季節の風物の描写などが、皆無とはいわないまでも、かなり少ないと感じる。これは、『明暗』以前の小説には、多く季節の風物の描写が見られたことを考えてみると、意味のあることのように思われる。季節の風物の描写のかわりに、この小説は、ほぼ全編にわたって(といっても、未完におわっているのだが)、人間の心理描写になっている。作者、漱石は、この小説で、とことん登場人物の心理をえがこうとしたようだ。(だから、小説の執筆のかたわらで漢詩文の世界にひたりたくもなったのであろうと感じるところがある。)
そして、季節の風物、自然描写が登場するのが、小説の終わりになってからの温泉宿のところである。ひょっとすると、作者、漱石は、東京での登場人物の心理描写に終始することがいやになって、地方の温泉宿に小説の舞台を移したのかもしれない。
第二には、この小説の主人公は、津田であると思っているのだが、しかし、その妻のお延に視点を移した部分がかなり多い。『明暗』までの小説において、漱石の小説の語り口としては、視点人物は、基本的に一定である。『三四郎』は小川三四郎であるし、『猫』は吾輩である。少なくとも、章節のまとまりにおいては、基本的にゆるがないと思う。(これも、再度、その目で読み返してみないとはっきり言えないが。)
だが、『明暗』では、かなり自由に、津田とお延、この二人の人物において、叙述の視点が移動している。
そして、そのお延の部分を読んで感じることとしては、お延は、話相手によって、そのことばが変わっている、ということである。夫の津田と話すとき、津田の妹の秀子と話すとき、下女のお時と話すとき、それぞれに微妙にことばづかいが変わっている。
このようなことばづかいの変化を、現代の日本語学の用語、概念でいうならば、「役割語」ということになる。
以上の二点が、今回、何度目になるか忘れてしまったが、『明暗』を再読してみて思ったことなどである。『草枕』『明暗』と読んでみて、さらに漱石の他の作品も、再読しておきたくなっている。岩波の「全集」もあるのだが、新潮文庫版のテキストで読んでみておくのもいいかという気がしている。
『美しい村』堀辰雄 ― 2019-07-26
2019-07-26 當山日出夫(とうやまひでお)
堀辰雄.『美しい村』(新潮文庫「風立ちぬ・美しい村」).新潮社.1951(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100402/
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月22日
『風立ちぬ』堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/22/9131853
堀辰雄をまとめて読んでみたくなったので、順番に手にしてみた。堀辰雄を読んでみたくなったのは、半藤一利・宮崎駿の『腰ぬけ愛国談義』を読んだことによる。
やまもも書斎記 2019年7月15日
『腰ぬけ愛国談義』半藤一利・宮崎駿
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/15/9128716
ここで、神西清のことばが引用されていた。それを確認しておくと、
「詩を散文で書ける人というのは日本に何人もいないんだよ。そのなかでいちばん優秀なのが堀辰雄だ」(p.153)
これを読んだからそう思うのかもしれないが、まさに、『美しい村』は、〈詩〉である。だが、〈詩〉といっても、「散文詩」とはことなる。普通の散文なのである。だが、それを読んでいくと、どことなく感じる詩情がある。描かれているのは、信州のある村の景色や風物なのであるが、それを見て書いている作者の目は詩人である。
私が最近読んだもので読みながら詩情を感じる作品としては、(特に)初期の村上春樹がある。村上春樹もまた、散文によって詩を書ける希有な文学者だと思う。
文学の原点は〈詩〉である。この意味において、堀辰雄の作品は、まだコンテンポラリーに読まれるべきものとしてある。いいかえれば、常にそこに立ちかえってみることで、文学の原点を確認できるという意味において古典であるともいえる。古典はつねに新しい。新しい時代においても、新しい感覚で読むことのできる普遍性をそなえている。そのような古典として堀辰雄の作品は、まだ読まれ続けていくべき価値がある。
追記 2019-08-03
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月3日
「大和路」堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/03/9136738
https://www.shinchosha.co.jp/book/100402/
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月22日
『風立ちぬ』堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/22/9131853
堀辰雄をまとめて読んでみたくなったので、順番に手にしてみた。堀辰雄を読んでみたくなったのは、半藤一利・宮崎駿の『腰ぬけ愛国談義』を読んだことによる。
やまもも書斎記 2019年7月15日
『腰ぬけ愛国談義』半藤一利・宮崎駿
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/15/9128716
ここで、神西清のことばが引用されていた。それを確認しておくと、
「詩を散文で書ける人というのは日本に何人もいないんだよ。そのなかでいちばん優秀なのが堀辰雄だ」(p.153)
これを読んだからそう思うのかもしれないが、まさに、『美しい村』は、〈詩〉である。だが、〈詩〉といっても、「散文詩」とはことなる。普通の散文なのである。だが、それを読んでいくと、どことなく感じる詩情がある。描かれているのは、信州のある村の景色や風物なのであるが、それを見て書いている作者の目は詩人である。
私が最近読んだもので読みながら詩情を感じる作品としては、(特に)初期の村上春樹がある。村上春樹もまた、散文によって詩を書ける希有な文学者だと思う。
文学の原点は〈詩〉である。この意味において、堀辰雄の作品は、まだコンテンポラリーに読まれるべきものとしてある。いいかえれば、常にそこに立ちかえってみることで、文学の原点を確認できるという意味において古典であるともいえる。古典はつねに新しい。新しい時代においても、新しい感覚で読むことのできる普遍性をそなえている。そのような古典として堀辰雄の作品は、まだ読まれ続けていくべき価値がある。
追記 2019-08-03
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月3日
「大和路」堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/03/9136738
『高い窓』村上春樹訳 ― 2019-07-27
2019-07-27 當山日出夫(とうやまひでお)
レイモンド・チャンドラー.村上春樹(訳).『高い窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫).早川書房.2016 (早川書房.2014)
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013325/
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月24日
『リトル・シスター』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/24/9132690
レイモンド・チャンドラーの村上春樹訳を読んでいって、五冊目になった。
これまで読んできた作品の印象からすると、この作品は、ミステリとしての完成度が高いという印象がある。いいかえるならば、謎の提示とその解明が、フェアに進行しているということである。
とはいえ、ハードボイルド……「私」の視点から小説……という観点からすると、ちょっとどうかなというところが少しある。小説の終わりの方であるが、事件のおこった家で、「私」がたまたま、そこにやってきた登場人物の会話をかくれて立ち聞きするシーン、これは、たまたまそのような状況になったといえば、それまでなのだが、「私」の視点で一貫させるという意味では、やや違和感を感じざるをえない。(この点については、村上春樹のあとがきでも言及してある。)
上記のような不満がすこし残るとはいうものの、全体としての読後感は、爽快である。小説の最後の決着のつけかた、終わらせ方が、実にいい。私立探偵としての視点、事件を捜査する警察の視点、これが最後にうまく整えられている。また、ハッピーエンドということではないが、登場人物のひとりの幸せな生活を描いて終わっているのも、読後感をいいものにしている。
残りは二冊。次は、『プレイバック』である。
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013325/
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月24日
『リトル・シスター』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/24/9132690
レイモンド・チャンドラーの村上春樹訳を読んでいって、五冊目になった。
これまで読んできた作品の印象からすると、この作品は、ミステリとしての完成度が高いという印象がある。いいかえるならば、謎の提示とその解明が、フェアに進行しているということである。
とはいえ、ハードボイルド……「私」の視点から小説……という観点からすると、ちょっとどうかなというところが少しある。小説の終わりの方であるが、事件のおこった家で、「私」がたまたま、そこにやってきた登場人物の会話をかくれて立ち聞きするシーン、これは、たまたまそのような状況になったといえば、それまでなのだが、「私」の視点で一貫させるという意味では、やや違和感を感じざるをえない。(この点については、村上春樹のあとがきでも言及してある。)
上記のような不満がすこし残るとはいうものの、全体としての読後感は、爽快である。小説の最後の決着のつけかた、終わらせ方が、実にいい。私立探偵としての視点、事件を捜査する警察の視点、これが最後にうまく整えられている。また、ハッピーエンドということではないが、登場人物のひとりの幸せな生活を描いて終わっているのも、読後感をいいものにしている。
残りは二冊。次は、『プレイバック』である。
『なつぞら』あれこれ「なつよ、テレビ漫画の幕開けだ」 ― 2019-07-28
2019-07-28 當山日出夫(とうやまひでお)
『なつぞら』第17週「なつよ、テレビ漫画の幕開けだ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/17/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月21日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、恋の季節が来た」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/21/9131386
この週で描いていたのは、主に次の二つのことになるだろう。
第一に、テレビのアニメーションである。
なつは、テレビのアニメーションの担当になる。テレビの場合、映画とはちがっている。コスト、制作期間に制約がある。映画のようなフルアニメーションというわけにはいかない。テレビならではの、絵の描き方がある。そこを、なつは工夫することになる。
このあたりは、実際のテレビのアニメーションの歴史をなぞっていると思える。NHKなのだが、『鉄腕アトム』が登場していた。『腕アトム』は、私も見ていた記憶がある。そして、なつがつくることになる作品のモデルは、『狼少年ケン』だと思うのだが、これも見ている。
そう思ってドラマを見ているせいだろうか、なるほどテレビのアニメーションには、それなりの独特の技法、発想というものがあったことに、改めて気付く。
第二に、雪次郎のこと。
結局、雪次郎は役者の道をあきらめて、故郷にかえって、菓子職人になる。ここで、女優の蘭子が登場するのだが、はたして、彼女の真意はいったいどこにあったのだろうか。ただ、雪次郎をもてあそんだだけなのだろうか。このあたり、ドラマとしては、謎を残したままになっている。
ただ、雪次郎には、帰ることのできる故郷がある。それは、なつについてもいえる。なつは東京でアニメーションの仕事をしているのだが、しかし、故郷というものをもっている。このドラマに限らず、朝ドラがだいたいそうなのだが、帰ることのできる故郷を描いている。これは、おそらく、大多数の日本の人びとの心のなかにある、故郷への思いを語っていることになるのだろう。
以上の二つが、この週で描いていたことかと思う。
次週は、なつをめぐる恋の物語が展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。
『なつぞら』第17週「なつよ、テレビ漫画の幕開けだ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/17/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月21日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、恋の季節が来た」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/21/9131386
この週で描いていたのは、主に次の二つのことになるだろう。
第一に、テレビのアニメーションである。
なつは、テレビのアニメーションの担当になる。テレビの場合、映画とはちがっている。コスト、制作期間に制約がある。映画のようなフルアニメーションというわけにはいかない。テレビならではの、絵の描き方がある。そこを、なつは工夫することになる。
このあたりは、実際のテレビのアニメーションの歴史をなぞっていると思える。NHKなのだが、『鉄腕アトム』が登場していた。『腕アトム』は、私も見ていた記憶がある。そして、なつがつくることになる作品のモデルは、『狼少年ケン』だと思うのだが、これも見ている。
そう思ってドラマを見ているせいだろうか、なるほどテレビのアニメーションには、それなりの独特の技法、発想というものがあったことに、改めて気付く。
第二に、雪次郎のこと。
結局、雪次郎は役者の道をあきらめて、故郷にかえって、菓子職人になる。ここで、女優の蘭子が登場するのだが、はたして、彼女の真意はいったいどこにあったのだろうか。ただ、雪次郎をもてあそんだだけなのだろうか。このあたり、ドラマとしては、謎を残したままになっている。
ただ、雪次郎には、帰ることのできる故郷がある。それは、なつについてもいえる。なつは東京でアニメーションの仕事をしているのだが、しかし、故郷というものをもっている。このドラマに限らず、朝ドラがだいたいそうなのだが、帰ることのできる故郷を描いている。これは、おそらく、大多数の日本の人びとの心のなかにある、故郷への思いを語っていることになるのだろう。
以上の二つが、この週で描いていたことかと思う。
次週は、なつをめぐる恋の物語が展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。
追記 2019-08-04
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月4日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、どうするプロポーズ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/04/9137162
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月4日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、どうするプロポーズ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/04/9137162
「東洋学へのコンピュータ利用」第31回に行ってきた ― 2019-07-29
2019-07-29 當山日出夫(とうやまひでお)
第31回「東洋学へのコンピュータ利用」研究セミナーが、2019年7月26日、国立国語研究所であったので行ってきた。
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/2019-7.html
この研究セミナーも、三〇回を超えるようになった。これまで京都大学で開催してきたものであるが、今回、はじめて東京の国立国語研究所で開催ということになった。これには、私も発表させてもらうこととして、参加してきた。
はじめての国語研究所での開催でどうなることかと思っていたが、かなり多くの人があつまったようだ。また、これまで、京都の開催では参加することのなかったような人たちもいたようだ。従来とは、すこし雰囲気のちがう会であった。
また、発表のテーマも、これまでの「東洋学へのコンピュータ利用」が、文字を中心とした研究会であったのをふまえて、多くは、フォント、文字コード、字体といった文字にかんする発表が多かった。それに加えて、国語研究所で開催ということで、国語研究所のもっている言語研究資料の利活用についての発表があった。
これは、視点をかえて見るならば、研究アーカイブズについて、ということになる。その意味で発表をきいていて、国語研究所として、着実な研究アーカイブズの構築と、将来にむけての利用にふみだしているという印象を持った。
朝の9:30からスタートして、夕方の5:00ごろまでの研究会。しかも、それが終わってから、「漢字字体規範史データセット保存会」の第二回目、二年目の総会が、しばらくあった。
漢字字体規範史データセット
http://www.hng-data.org/
いろいろ紆余曲折はあったことと思うが、ともかく、HNGが復活して使えるようになったということは、慶賀すべきことである。基本となる文献の基礎的な調査データがデジタル化して閲覧できるようになっている。これから、このデータセットが、漢字の字体研究の基礎として、多くの研究者に利用されることになることを願っている。
夕方の6時前に全部おわって、懇親会。どうやらこの日は、立川は、どの店も、のきなみ混んでいたようで、店を探すのに苦労したらしいが、どうにか、立川駅のビルのなかの中華料理屋さんがとれた。十数人いただろうか。テーブル二つになったが、いろいろ歓談。
終わって外に出たら、雨が降っていた。ホテルまで少しの距離であったが、傘をさしてあるくことになった。
次回は、2020年3月6日(金)に、京都大学で開催である。
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/2019-7.html
この研究セミナーも、三〇回を超えるようになった。これまで京都大学で開催してきたものであるが、今回、はじめて東京の国立国語研究所で開催ということになった。これには、私も発表させてもらうこととして、参加してきた。
はじめての国語研究所での開催でどうなることかと思っていたが、かなり多くの人があつまったようだ。また、これまで、京都の開催では参加することのなかったような人たちもいたようだ。従来とは、すこし雰囲気のちがう会であった。
また、発表のテーマも、これまでの「東洋学へのコンピュータ利用」が、文字を中心とした研究会であったのをふまえて、多くは、フォント、文字コード、字体といった文字にかんする発表が多かった。それに加えて、国語研究所で開催ということで、国語研究所のもっている言語研究資料の利活用についての発表があった。
これは、視点をかえて見るならば、研究アーカイブズについて、ということになる。その意味で発表をきいていて、国語研究所として、着実な研究アーカイブズの構築と、将来にむけての利用にふみだしているという印象を持った。
朝の9:30からスタートして、夕方の5:00ごろまでの研究会。しかも、それが終わってから、「漢字字体規範史データセット保存会」の第二回目、二年目の総会が、しばらくあった。
漢字字体規範史データセット
http://www.hng-data.org/
いろいろ紆余曲折はあったことと思うが、ともかく、HNGが復活して使えるようになったということは、慶賀すべきことである。基本となる文献の基礎的な調査データがデジタル化して閲覧できるようになっている。これから、このデータセットが、漢字の字体研究の基礎として、多くの研究者に利用されることになることを願っている。
夕方の6時前に全部おわって、懇親会。どうやらこの日は、立川は、どの店も、のきなみ混んでいたようで、店を探すのに苦労したらしいが、どうにか、立川駅のビルのなかの中華料理屋さんがとれた。十数人いただろうか。テーブル二つになったが、いろいろ歓談。
終わって外に出たら、雨が降っていた。ホテルまで少しの距離であったが、傘をさしてあるくことになった。
次回は、2020年3月6日(金)に、京都大学で開催である。
『いだてん』あれこれ「走れ大地を」 ― 2019-07-30
2019-07-30 當山日出夫(とうやまひでお)
『いだてん』2019年7月28日、第28回「走れ大地を」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/028/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月16日
『いだてん』あれこれ「替り目」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/16/9129176
五・一五事件で殺されてしまうことになる犬養毅であるが、今、その声の録音が残っている。国立国会図書館のHPで聞くことができる。一九三二年(昭和七年)、まさに五・一五事件の起こった年の録音である。
国立国会図書館
歴史的音源
犬養毅 演説:新内閣の責務(上)
info:ndljp/pid/1316931
http://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316931
これを聞いてみても、満州事変の事態の収拾ということが、政治家としての緊急の課題であったことが理解される。
この回で描いていたことは、次の二つになるだろうか。
第一には、田畑政治のメダル獲得至上主義である。
オリンピックは、メダルを取るために参加する。メダルが取れなければ意味がない。この田畑政治の主張するような、メダル獲得至上主義は、今日におけるオリンピックへの批判として、よく目にするものである。ここは、あえて、田畑政治をそのような人物として描いているのだろう。そして、田畑政治がひとりで頑張るところに、ちょっと距離をおいて見てみると、何かしら滑稽さがある。
田畑政治のメダル獲得至上主義を描くことによって、今日のオリンピックのあり方を、どこか冷めた目で見ることにつながると感じるところがある。田畑政治が大真面目に、メダルのことを語れば語るほど、それが、どことなく空虚にも思えてくるのである。
第二には、五・一五事件である。
歴史的には知られた、また、昭和の歴史の大きな転換点のひとつになったこの事件のことを、このドラマでは、非常に印象的に描いていた。なぜ、軍人たちが事件をおこすにいたったのか、このところにはあまり踏み込んでいないと感じた。表面的には、満州国建国、軍拡主義にはしる軍部と、それに対抗する、政党政治の立場を守ろうとする犬養ということになるようだ。
満州国建国ということで、世界の中で孤立することになりながらも、日本は、だからこそオリンピックに出場するのである……このような描き方であった。これは、これとして、オリンピックをあつかったドラマとしては、このようになるのであろう。いや、ならざるをえない。
以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。
次回は、ロサンゼルス大会のことになるようだ。ここでの日本人選手の活躍をどのように描いて見せるのか、楽しみに見ることにする。ついで、ベルリンの「民族の祭典」であり、そして、幻におわった一九四〇(昭和一五)年の東京オリンピックということになる。世界の歴史のなかで、オリンピックもまた激動の時代を迎えることになる。スポーツと平和の祭典ではなくなっていく歴史であるのかもしれない。
これからの世界の歴史、日本の歴史のなかにおいて、日本とオリンピックをどう描いてみせるのか、楽しみである。
『いだてん』2019年7月28日、第28回「走れ大地を」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/028/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月16日
『いだてん』あれこれ「替り目」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/16/9129176
五・一五事件で殺されてしまうことになる犬養毅であるが、今、その声の録音が残っている。国立国会図書館のHPで聞くことができる。一九三二年(昭和七年)、まさに五・一五事件の起こった年の録音である。
国立国会図書館
歴史的音源
犬養毅 演説:新内閣の責務(上)
info:ndljp/pid/1316931
http://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316931
これを聞いてみても、満州事変の事態の収拾ということが、政治家としての緊急の課題であったことが理解される。
この回で描いていたことは、次の二つになるだろうか。
第一には、田畑政治のメダル獲得至上主義である。
オリンピックは、メダルを取るために参加する。メダルが取れなければ意味がない。この田畑政治の主張するような、メダル獲得至上主義は、今日におけるオリンピックへの批判として、よく目にするものである。ここは、あえて、田畑政治をそのような人物として描いているのだろう。そして、田畑政治がひとりで頑張るところに、ちょっと距離をおいて見てみると、何かしら滑稽さがある。
田畑政治のメダル獲得至上主義を描くことによって、今日のオリンピックのあり方を、どこか冷めた目で見ることにつながると感じるところがある。田畑政治が大真面目に、メダルのことを語れば語るほど、それが、どことなく空虚にも思えてくるのである。
第二には、五・一五事件である。
歴史的には知られた、また、昭和の歴史の大きな転換点のひとつになったこの事件のことを、このドラマでは、非常に印象的に描いていた。なぜ、軍人たちが事件をおこすにいたったのか、このところにはあまり踏み込んでいないと感じた。表面的には、満州国建国、軍拡主義にはしる軍部と、それに対抗する、政党政治の立場を守ろうとする犬養ということになるようだ。
満州国建国ということで、世界の中で孤立することになりながらも、日本は、だからこそオリンピックに出場するのである……このような描き方であった。これは、これとして、オリンピックをあつかったドラマとしては、このようになるのであろう。いや、ならざるをえない。
以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。
次回は、ロサンゼルス大会のことになるようだ。ここでの日本人選手の活躍をどのように描いて見せるのか、楽しみに見ることにする。ついで、ベルリンの「民族の祭典」であり、そして、幻におわった一九四〇(昭和一五)年の東京オリンピックということになる。世界の歴史のなかで、オリンピックもまた激動の時代を迎えることになる。スポーツと平和の祭典ではなくなっていく歴史であるのかもしれない。
これからの世界の歴史、日本の歴史のなかにおいて、日本とオリンピックをどう描いてみせるのか、楽しみである。
追記 2019-08-06
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月6日
『いだてん』あれこれ「夢のカリフォルニア」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/06/9137958
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月6日
『いだてん』あれこれ「夢のカリフォルニア」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/06/9137958
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