東京国立近代美術館「高畑勲展」に行ってきた ― 2019-08-01
2019-08-01 當山日出夫(とうやまひでお)

先週、東京に行ってきた。立川の国立国語研究所で開催の「東洋学へのコンピュータ利用」(第31回)に参加、発表のためである。発表なので、前日から行くことになる。
朝、病院に行く用事があって、それからそのまま駅にむかった。昼前の新幹線に乗って、東京駅についたのが昼すぎ。東京駅で昼食をとってから、地下鉄に乗った。東西線の駅をめざす。東京駅からだと、丸ノ内線で大手町まで行って乗り換えてもいいのかもしれないが、これは乗り換えが面倒である。東京駅から、直接東西線の駅まであるいた。竹橋で降りる。東京国立近代美術館で開催の「高畑勲展」を見るためである。
東京国立近代美術館をおとずれるのは、久しぶりである。平日の昼過ぎの時間であったが、その割には人がおおかっただろうか。といっても、行列ができるほどではない。ゆったりと全体の展示を見ることができた。
「高畑勲展」を見ておきたいと思ったのは、ちょうど今、NHKの朝ドラで『なつぞら』を放送している。日本のアニメーションの草創期に活躍した女性の物語である。アニメーションの制作とはどんなものなのか、そして、それについて、どのような資料が残されているのか、見ておきたいと思った。
展覧会を見ての印象は、まさにテレビのドラマのとおり……というのが正直なところである。アニメーションの絵を描く紙の大きさ、それから、上部に開けられた三つの穴……四角、丸、四角……これら、まさにテレビのドラマに登場してくるとおりであった。(これは、そのように考証して作っているのだから、そうなるのは当然なのかもしれないが。)
高畑勲というと、映画『火垂るの墓』が有名だが、それ以外にも多くの作品を作っている。『狼少年ケン』もそのひとつであることを知った。これは、私が子どものころ、テレビで放送していたのを見たのを憶えている。
そして、展示全体をとおしてのメッセージとしては……アニメーションは思想を語ることができる、ということである。そのようなものとして、アニメーションが今の日本の文化としてある。この展覧会が、東京国立近代美術館というところで開催になったことの意義は大きなものがあるといえるだろう。
ただ気になったこととしては、展示されている絵などはどのように保存されているのだろうか、ということ。アーカイブズとして、きちんと資料群ごとに整理されているのだろうか。また、劣化しないように中性紙の保存箱に入れられているのだろうか。このあたりは、展示からはうかがうことができなかった。しかし、できれば、貴重な文化遺産としてさらに後世にまで残してもらいたいものである。
見終わって、また東西線に乗って三鷹まで行った。三鷹で中央線に乗り換えて立川まで。宿ははじめて泊まるホテルだったが、迷わずに行くことができた。ただ、困ったのは、新しいホテルのせいかインターネットの接続がWi-Fiしかない。有線のLANが無い。私のつかっているノートパソコン(レッツノート)は、時々、無線を認識しなくなることがある。宿の部屋について、さっそくパソコンを起動してみたが、Wi-Fiを認識しない。何度か、再起動などくりかえしてみて、ようやくつながった。一時間以上かかってしまっただろうか。ともあれ無事にインターネットにつながってほっとしたのであった。
朝、病院に行く用事があって、それからそのまま駅にむかった。昼前の新幹線に乗って、東京駅についたのが昼すぎ。東京駅で昼食をとってから、地下鉄に乗った。東西線の駅をめざす。東京駅からだと、丸ノ内線で大手町まで行って乗り換えてもいいのかもしれないが、これは乗り換えが面倒である。東京駅から、直接東西線の駅まであるいた。竹橋で降りる。東京国立近代美術館で開催の「高畑勲展」を見るためである。
東京国立近代美術館をおとずれるのは、久しぶりである。平日の昼過ぎの時間であったが、その割には人がおおかっただろうか。といっても、行列ができるほどではない。ゆったりと全体の展示を見ることができた。
「高畑勲展」を見ておきたいと思ったのは、ちょうど今、NHKの朝ドラで『なつぞら』を放送している。日本のアニメーションの草創期に活躍した女性の物語である。アニメーションの制作とはどんなものなのか、そして、それについて、どのような資料が残されているのか、見ておきたいと思った。
展覧会を見ての印象は、まさにテレビのドラマのとおり……というのが正直なところである。アニメーションの絵を描く紙の大きさ、それから、上部に開けられた三つの穴……四角、丸、四角……これら、まさにテレビのドラマに登場してくるとおりであった。(これは、そのように考証して作っているのだから、そうなるのは当然なのかもしれないが。)
高畑勲というと、映画『火垂るの墓』が有名だが、それ以外にも多くの作品を作っている。『狼少年ケン』もそのひとつであることを知った。これは、私が子どものころ、テレビで放送していたのを見たのを憶えている。
そして、展示全体をとおしてのメッセージとしては……アニメーションは思想を語ることができる、ということである。そのようなものとして、アニメーションが今の日本の文化としてある。この展覧会が、東京国立近代美術館というところで開催になったことの意義は大きなものがあるといえるだろう。
ただ気になったこととしては、展示されている絵などはどのように保存されているのだろうか、ということ。アーカイブズとして、きちんと資料群ごとに整理されているのだろうか。また、劣化しないように中性紙の保存箱に入れられているのだろうか。このあたりは、展示からはうかがうことができなかった。しかし、できれば、貴重な文化遺産としてさらに後世にまで残してもらいたいものである。
見終わって、また東西線に乗って三鷹まで行った。三鷹で中央線に乗り換えて立川まで。宿ははじめて泊まるホテルだったが、迷わずに行くことができた。ただ、困ったのは、新しいホテルのせいかインターネットの接続がWi-Fiしかない。有線のLANが無い。私のつかっているノートパソコン(レッツノート)は、時々、無線を認識しなくなることがある。宿の部屋について、さっそくパソコンを起動してみたが、Wi-Fiを認識しない。何度か、再起動などくりかえしてみて、ようやくつながった。一時間以上かかってしまっただろうか。ともあれ無事にインターネットにつながってほっとしたのであった。
『プレイバック』村上春樹訳 ― 2019-08-02
2019-08-02 當山日出夫(とうやまひでお)

レイモンド・チャンドラー.村上春樹訳.『プレイバック』(ハヤカワ・ミステリ文庫).早川書房.2018 (早川書房.2016)
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013986/
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月27日
『高い窓』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/27/9133808
この本を読んで思うこととしては、次の二つ。
第一には、レイモンド・チャンドラーといえば出てくるあの有名な台詞の出てくる作品である。はたして、村上春樹はどのように訳しているであろうか。このあたりのことは、あとがきにも触れてある。たしかにかっこいい台詞であるが、原文に忠実に、文章の流れ、小説の筋にしたがって日本語に訳すとすると、まあ、あたしかに、この本の訳のようになるのであろう。
読んでいて、思わずに付箋をつけてしまったのであるが、この村上春樹訳は、人口に膾炙したバージョンの台詞とは、ちょっとちがっている。
第二には、やはりミステリとして読んだとき、この作品は、今一つという印象がある。チャンドラーの作品としては、有名な作品にはちがいないのだが、しかし、どうも都合よく話しが終わりすぎている感じがしてならない。が、そうでありながらも、最後の解決に向けての「私」の働きは、まさにマーロウならではのものである。
だが、ちょっと脇道に入りすぎかな、というところがないでもない。特に女性との関係について、感じてしまう。
だいたい以上の二点が、『プレイバック』の村上春樹訳を読んで思うことなどである。
文庫版(ハヤカワ・ミステリ文庫)で刊行されているのは、現時点(2019年7月)で、この作品までである。残りの『水底の女』は、まだ文庫になっていないが、これは単行本で読むことにする。
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013986/
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月27日
『高い窓』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/27/9133808
この本を読んで思うこととしては、次の二つ。
第一には、レイモンド・チャンドラーといえば出てくるあの有名な台詞の出てくる作品である。はたして、村上春樹はどのように訳しているであろうか。このあたりのことは、あとがきにも触れてある。たしかにかっこいい台詞であるが、原文に忠実に、文章の流れ、小説の筋にしたがって日本語に訳すとすると、まあ、あたしかに、この本の訳のようになるのであろう。
読んでいて、思わずに付箋をつけてしまったのであるが、この村上春樹訳は、人口に膾炙したバージョンの台詞とは、ちょっとちがっている。
第二には、やはりミステリとして読んだとき、この作品は、今一つという印象がある。チャンドラーの作品としては、有名な作品にはちがいないのだが、しかし、どうも都合よく話しが終わりすぎている感じがしてならない。が、そうでありながらも、最後の解決に向けての「私」の働きは、まさにマーロウならではのものである。
だが、ちょっと脇道に入りすぎかな、というところがないでもない。特に女性との関係について、感じてしまう。
だいたい以上の二点が、『プレイバック』の村上春樹訳を読んで思うことなどである。
文庫版(ハヤカワ・ミステリ文庫)で刊行されているのは、現時点(2019年7月)で、この作品までである。残りの『水底の女』は、まだ文庫になっていないが、これは単行本で読むことにする。
「大和路」堀辰雄 ― 2019-08-03
2019-08-03 當山日出夫(とうやまひでお)

堀辰雄.「大和路」(「大和路・信濃路」.新潮文庫).新潮社.1955(2004.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100406/
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月26日
『美しい村』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/26/9133436
新潮文庫で今読める堀辰雄の作品というと、『大和路・信濃路』、それから、『風立ちぬ・美しい村』、この二冊だけである。『大和路・信濃路』を手にしてみた。いくつかの短い文章をまとめたものになっているが、ここでは、「大和路」としたまとめられたものについて書いてみる。
「大和路」は、一九四一年(昭和一六年)の日付のある文章からはじまっている。戦前、知識人にとって、古京である奈良の地をめぐるのは、一種の流行のようなところがあったのかもしれない。
やまもも書斎記 2018年8月18日
『初版 古寺巡礼』和辻哲郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/18/8944613
やまもも書斎記 2018年8月20日
『大和古寺風物誌』亀井勝一郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/20/8946045
読んで感じるところは、次の二点である。
第一には、大きな系譜としては、昭和になってからの、知識人たちの奈良旅行記として位置づけることも可能だろう。法隆寺や西ノ京あたりの古びたたたずまいが、非常に魅力的にうつったことが理解される。
だが、これも、今となっては昔のことである。今の法隆寺あたりは、宅地開発がすすみ、また、近年では外国人観光客が増えている……往時のような、古さびた雰囲気など、もうもとめようがないと言っていいだろう。今からふりかえってみて、このように奈良の風物が愛された時代がかつてあった、そのことの証言として読んでもいいかもしれない。
第二には、上記のことと関連してであるが、近代の知識人にとっての古代日本のイメージである。堀辰雄の文章を読むと、折口信夫への言及がある。そう思ってみるならば、確かに折口信夫は、堀辰雄と同じ時代を生きていたことになる。
そして、『万葉集』などへの思い。これは、現代の視点から見るならば、近代になってからの万葉学、古代学……強いて言うならば、近代になってからの古代の発見、と言っていいことになる。
以上のような二点を感じる。
無論、これは堀辰雄の文章である。読みながら、和辻哲郎でもない、亀井勝一郎でもない、近代の文学者としての詩情を感じる。比べるならば、和辻哲郎はあまりに理知的であり(と同時に情熱的である)、亀井勝一郎は浪漫的である。そうではなく、近代の西欧の文学にうらうちされた、透徹した知的な詩情とでもいうべきものを感じる。
続けて「信濃路」を読んでみることにしたい。
https://www.shinchosha.co.jp/book/100406/
続きである。
やまもも書斎記 2019年7月26日
『美しい村』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/26/9133436
新潮文庫で今読める堀辰雄の作品というと、『大和路・信濃路』、それから、『風立ちぬ・美しい村』、この二冊だけである。『大和路・信濃路』を手にしてみた。いくつかの短い文章をまとめたものになっているが、ここでは、「大和路」としたまとめられたものについて書いてみる。
「大和路」は、一九四一年(昭和一六年)の日付のある文章からはじまっている。戦前、知識人にとって、古京である奈良の地をめぐるのは、一種の流行のようなところがあったのかもしれない。
やまもも書斎記 2018年8月18日
『初版 古寺巡礼』和辻哲郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/18/8944613
やまもも書斎記 2018年8月20日
『大和古寺風物誌』亀井勝一郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/20/8946045
読んで感じるところは、次の二点である。
第一には、大きな系譜としては、昭和になってからの、知識人たちの奈良旅行記として位置づけることも可能だろう。法隆寺や西ノ京あたりの古びたたたずまいが、非常に魅力的にうつったことが理解される。
だが、これも、今となっては昔のことである。今の法隆寺あたりは、宅地開発がすすみ、また、近年では外国人観光客が増えている……往時のような、古さびた雰囲気など、もうもとめようがないと言っていいだろう。今からふりかえってみて、このように奈良の風物が愛された時代がかつてあった、そのことの証言として読んでもいいかもしれない。
第二には、上記のことと関連してであるが、近代の知識人にとっての古代日本のイメージである。堀辰雄の文章を読むと、折口信夫への言及がある。そう思ってみるならば、確かに折口信夫は、堀辰雄と同じ時代を生きていたことになる。
そして、『万葉集』などへの思い。これは、現代の視点から見るならば、近代になってからの万葉学、古代学……強いて言うならば、近代になってからの古代の発見、と言っていいことになる。
以上のような二点を感じる。
無論、これは堀辰雄の文章である。読みながら、和辻哲郎でもない、亀井勝一郎でもない、近代の文学者としての詩情を感じる。比べるならば、和辻哲郎はあまりに理知的であり(と同時に情熱的である)、亀井勝一郎は浪漫的である。そうではなく、近代の西欧の文学にうらうちされた、透徹した知的な詩情とでもいうべきものを感じる。
続けて「信濃路」を読んでみることにしたい。
『なつぞら』あれこれ「なつよ、どうするプロポーズ」 ― 2019-08-04
2019-08-04 當山日出夫(とうやまひでお)
『なつぞら』第18週「なつよ、どうするプロポーズ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/18/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月28日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、テレビ漫画の幕開けだ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/28/9134214
この週で描いていたことは、次の二点だろうか。
第一には、坂場との結婚(の約束)。
作っている長編作品が成功したら結婚してくれと、坂場は、なつにプロポーズする。それを、なつはうけいれる。しかし、長編作品は失敗に終わってしまう。
ここで挫折しかけた二人の恋であるが、坂場は意を決して再度、なつに意志をつたえる。その強い気持ちになつはこたえることになる。
だが、これまで、特に坂場となつが恋仲であるような描写はなかったように思う。いったいいつの間に、二人の仲は接近していったのだろうか。どうもこのあたりの描き方が、唐突であるという印象がある。
第二には、失敗した長編作品。
なつは長編作品を担当することになるのだが、どうしても、作品にふさわしいキャラクターを描くことができない。ここを、仲にたすけてもらうことになる。
また、この作品を演出したのは坂場である。しかし、結果的には、この作品は失敗に終わってしまう。坂場は、責任をとって会社を去ることになるようだ(まだ、この週で完全に会社を去ったところまでは描かれていなかったが。)
このあたりのことが、このドラマの今後の伏線として、どう生きてくるのだろうか。なつは、会社に残ってアニメーターとして道を歩むことになるのだろうか。そこに、坂場との結婚がどう関係してくるのか。
以上の二点が、この週で描いていたことかと思う。
結婚の約束をした二人は、北海道に向かう。ここで、次週につづくことになる。次週は、しばた牧場を舞台にしてドラマは展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。
『なつぞら』第18週「なつよ、どうするプロポーズ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/18/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月28日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、テレビ漫画の幕開けだ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/28/9134214
この週で描いていたことは、次の二点だろうか。
第一には、坂場との結婚(の約束)。
作っている長編作品が成功したら結婚してくれと、坂場は、なつにプロポーズする。それを、なつはうけいれる。しかし、長編作品は失敗に終わってしまう。
ここで挫折しかけた二人の恋であるが、坂場は意を決して再度、なつに意志をつたえる。その強い気持ちになつはこたえることになる。
だが、これまで、特に坂場となつが恋仲であるような描写はなかったように思う。いったいいつの間に、二人の仲は接近していったのだろうか。どうもこのあたりの描き方が、唐突であるという印象がある。
第二には、失敗した長編作品。
なつは長編作品を担当することになるのだが、どうしても、作品にふさわしいキャラクターを描くことができない。ここを、仲にたすけてもらうことになる。
また、この作品を演出したのは坂場である。しかし、結果的には、この作品は失敗に終わってしまう。坂場は、責任をとって会社を去ることになるようだ(まだ、この週で完全に会社を去ったところまでは描かれていなかったが。)
このあたりのことが、このドラマの今後の伏線として、どう生きてくるのだろうか。なつは、会社に残ってアニメーターとして道を歩むことになるのだろうか。そこに、坂場との結婚がどう関係してくるのか。
以上の二点が、この週で描いていたことかと思う。
結婚の約束をした二人は、北海道に向かう。ここで、次週につづくことになる。次週は、しばた牧場を舞台にしてドラマは展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。
追記 2019-08-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月11日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、開拓者の郷へ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/11/9139694
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月11日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、開拓者の郷へ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/11/9139694
『水底の女』村上春樹訳 ― 2019-08-05
2019-08-05 當山日出夫(とうやまひでお)

レイモンド・チャンドラー.村上春樹(訳).『水底の女』.早川書房.2017
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013740/
続きである。
やまもも書斎記 2019年8月2日
『プレイバック』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/02/9136373
村上春樹訳で、レイモンド・チャンドラーの長編を読んできた。これが最後になる。この本は、まだ文庫本が出ていないので、単行本で買って読んだ。
読んで思うことは、次の二点だろうか。
第一には、ミステリとして読んだときには、少し劣る作品であるということ。(といって、チャンドラーをおとしめるつもりはないが。)メインのトリックは、すぐにわかる。ミステリをある程度読み慣れた人間なら、あのてのトリックだなとすぐに察しがつく。後は、どのようにして、その最後の決着のところまで小説をもっていくのか、その手並みを味わいながら読むということになるだろうか。
第二には、そうはいっても、チャンドラーの作品である。この作品においても、マーロウは、かっこいい。チャンドラーのハードボイルドの楽しさを十分に感じることのできる仕上がりになっている。
以上の二点が、この作品を読んで思うことである。
ところで、ひとりでチャンドラーの作品……長編の七作を……日本語訳したのは、村上春樹だけということになる。これは、快挙と言っていいだろう。
文学、古典には、賞味期限はないけれども、翻訳には賞味期限がある……村上春樹の言うところは、このように理解できるだろうか。清水俊二訳もいいが、今後は、村上春樹訳でチャンドラーが読まれていくことになるだろう。
チャンドラーの作品は、ミステリのみならず、多くの文学者に影響を与えている。村上春樹の記すところによれば、カズオ・イシグロなども、チャンドラーの愛読者であるらしい。では、なぜ、チャンドラーなのであろうか。
文学の歴史にうとい私としては、この点について知識がない。ハードボイルドの世界文学史、誰か書いているのだろうと思うが、残念ながら知らないでいる。
ただ、今の私なりに思うことを、記せば次のようになろうか。西欧の文学は近代になって、「神の視点」を手にいれた。登場人物の心のなかに自由に入り込むことができる、小説技法を確立した。それが、ハードボイルドという、「私」の視点に限定される〈不自由〉にこだわるのは何故か。強いて言うならば、「私」の視点の再発見とでもいうことができるだろうか。
無論、「私」といっても、日本における「私小説」の「私」ではない。「神の視点」を経由して描きだされるところの「私」である。これを、すべて「彼」におきかえても、小説は成立する。それを、「私」の語りによって描き出すことによって、「私」の目から見た一つの物語世界を構築することができる。
村上春樹の初期の作品は、第一人称「僕」が登場する。それが、第三人称視点の小説に変貌するのは、『海辺のカフカ』以降ということになる。村上春樹は、「私」からスタートして、第三人称へといたっている。そして、その第三人称視点の複数の物語が交錯する作品としては、『1Q84』が思い浮かぶ。
文学における「私」視点ということについては、これから、おりをみて考えていきたいと思う。
チャンドラーの翻訳を読み終えたので、再度、村上春樹の日本語の作品を読んでいくことにする。次は、『夜のくもざる』である。
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013740/
続きである。
やまもも書斎記 2019年8月2日
『プレイバック』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/02/9136373
村上春樹訳で、レイモンド・チャンドラーの長編を読んできた。これが最後になる。この本は、まだ文庫本が出ていないので、単行本で買って読んだ。
読んで思うことは、次の二点だろうか。
第一には、ミステリとして読んだときには、少し劣る作品であるということ。(といって、チャンドラーをおとしめるつもりはないが。)メインのトリックは、すぐにわかる。ミステリをある程度読み慣れた人間なら、あのてのトリックだなとすぐに察しがつく。後は、どのようにして、その最後の決着のところまで小説をもっていくのか、その手並みを味わいながら読むということになるだろうか。
第二には、そうはいっても、チャンドラーの作品である。この作品においても、マーロウは、かっこいい。チャンドラーのハードボイルドの楽しさを十分に感じることのできる仕上がりになっている。
以上の二点が、この作品を読んで思うことである。
ところで、ひとりでチャンドラーの作品……長編の七作を……日本語訳したのは、村上春樹だけということになる。これは、快挙と言っていいだろう。
文学、古典には、賞味期限はないけれども、翻訳には賞味期限がある……村上春樹の言うところは、このように理解できるだろうか。清水俊二訳もいいが、今後は、村上春樹訳でチャンドラーが読まれていくことになるだろう。
チャンドラーの作品は、ミステリのみならず、多くの文学者に影響を与えている。村上春樹の記すところによれば、カズオ・イシグロなども、チャンドラーの愛読者であるらしい。では、なぜ、チャンドラーなのであろうか。
文学の歴史にうとい私としては、この点について知識がない。ハードボイルドの世界文学史、誰か書いているのだろうと思うが、残念ながら知らないでいる。
ただ、今の私なりに思うことを、記せば次のようになろうか。西欧の文学は近代になって、「神の視点」を手にいれた。登場人物の心のなかに自由に入り込むことができる、小説技法を確立した。それが、ハードボイルドという、「私」の視点に限定される〈不自由〉にこだわるのは何故か。強いて言うならば、「私」の視点の再発見とでもいうことができるだろうか。
無論、「私」といっても、日本における「私小説」の「私」ではない。「神の視点」を経由して描きだされるところの「私」である。これを、すべて「彼」におきかえても、小説は成立する。それを、「私」の語りによって描き出すことによって、「私」の目から見た一つの物語世界を構築することができる。
村上春樹の初期の作品は、第一人称「僕」が登場する。それが、第三人称視点の小説に変貌するのは、『海辺のカフカ』以降ということになる。村上春樹は、「私」からスタートして、第三人称へといたっている。そして、その第三人称視点の複数の物語が交錯する作品としては、『1Q84』が思い浮かぶ。
文学における「私」視点ということについては、これから、おりをみて考えていきたいと思う。
チャンドラーの翻訳を読み終えたので、再度、村上春樹の日本語の作品を読んでいくことにする。次は、『夜のくもざる』である。
『いだてん』あれこれ「夢のカリフォルニア」 ― 2019-08-06
2019-08-06 當山日出夫(とうやまひでお)
『いだてん~東京オリムピック噺~』第29回「夢のカリフォルニア」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/029/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月30日
『いだてん』あれこれ「走れ大地を」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/30/9135073
この回で描いていたのは、田畑政治の金メダルにかける執念というべきものだった。
何がなんでもメダルの獲得数、これこそが勝負である、と田畑は言っている。このメダル至上主義は、現代のオリンピックにおいても、まさに批判の対象となるものである。マスコミもそうである。メダルの取れそうな競技・選手を重点的にあつかう。金メダルをとった選手は英雄である。
そのような今日の風潮をも、あざわらうかのごとき、田畑の金メダルへの執念が印象的に描かれていた。そして、その理由も語られていた。今、日本の社会は暗い。そこに少しだけでも人びとの心を明るくするニュースが欲しい。それは、オリンピックの金メダルである、と。
これはこれとして理解できなくはない。
だが、ここは、余計な説明などなしに、金メダルの亡者とでもいうべき田畑を描くことで十分であったのではないだろうか。その理由は、オリンピックが済んでから、回想で語ればいいことであったことのように思われる。
それから、描いていたのは、ロサンゼルスに行った選手たちの心。田畑の金メダル至上主義についていけない、理解できない選手たち。その心のうちの葛藤、煩悶とでもいうべきものが、印象に残っている。いや、今回の展開としては、田畑の活躍よりも、選手たちのこころのうちを丁寧に描いていたと見ることもできるだろう。
また、ロサンゼルスのオリンピックの時代、アメリカにおいては、日系移民排斥の動きがあった時代でもある。今、まさに、アメリカという国は、移民を排除しようとしている。アメリカの人種政策は、今にはじまったことではない。このあたりを、かなりドタバタ風でありながらも、きちんと描いていたのは、この脚本の良さだと思って見ていた。
今のオリンピックで普通になっている「選手村」が、ロサンゼルスの時からはじまったことも、このドラマで知った。
ところで、ちょっと気になっているのが、田畑政治のつかっていることばに多用される「じゃん」ということば。これは今では、東京方言では普通になってしまっているが、私の若いころ、東京で大学生になったころは、まだ、東京においても新規なことばであったと記憶する。
ジャパンナレッジを見る限りであるが、「じゃん」は、田畑の出身地の浜松方言ということでもないようだ。ちょっと型破りな新聞記者という人物造形ということで、「じゃん」をつかっているのだろうと思うが、どうも耳障りである。
一九四〇年(昭和一五年、紀元二六〇〇年)、東京オリンピックも名乗りを上げることになった(これは、結局、開催されることはないのだが。)このあたりの描写は、後の一九六四(昭和三九年)の東京オリンピックへの布石として、興味ぶかかった。そして、なんとなく、来年(二〇二〇年)の東京オリンピックを批判的に見るようにも感じられた。
次回は、ロサンゼルスでのオリンピックということになる。日本選手の活躍に期待して見ることにしよう。まあ、オリンピックの結果としては、すでに分かっていることなのだが、ここは、ドラマとして、応援したくなる。
『いだてん~東京オリムピック噺~』第29回「夢のカリフォルニア」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/029/
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月30日
『いだてん』あれこれ「走れ大地を」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/30/9135073
この回で描いていたのは、田畑政治の金メダルにかける執念というべきものだった。
何がなんでもメダルの獲得数、これこそが勝負である、と田畑は言っている。このメダル至上主義は、現代のオリンピックにおいても、まさに批判の対象となるものである。マスコミもそうである。メダルの取れそうな競技・選手を重点的にあつかう。金メダルをとった選手は英雄である。
そのような今日の風潮をも、あざわらうかのごとき、田畑の金メダルへの執念が印象的に描かれていた。そして、その理由も語られていた。今、日本の社会は暗い。そこに少しだけでも人びとの心を明るくするニュースが欲しい。それは、オリンピックの金メダルである、と。
これはこれとして理解できなくはない。
だが、ここは、余計な説明などなしに、金メダルの亡者とでもいうべき田畑を描くことで十分であったのではないだろうか。その理由は、オリンピックが済んでから、回想で語ればいいことであったことのように思われる。
それから、描いていたのは、ロサンゼルスに行った選手たちの心。田畑の金メダル至上主義についていけない、理解できない選手たち。その心のうちの葛藤、煩悶とでもいうべきものが、印象に残っている。いや、今回の展開としては、田畑の活躍よりも、選手たちのこころのうちを丁寧に描いていたと見ることもできるだろう。
また、ロサンゼルスのオリンピックの時代、アメリカにおいては、日系移民排斥の動きがあった時代でもある。今、まさに、アメリカという国は、移民を排除しようとしている。アメリカの人種政策は、今にはじまったことではない。このあたりを、かなりドタバタ風でありながらも、きちんと描いていたのは、この脚本の良さだと思って見ていた。
今のオリンピックで普通になっている「選手村」が、ロサンゼルスの時からはじまったことも、このドラマで知った。
ところで、ちょっと気になっているのが、田畑政治のつかっていることばに多用される「じゃん」ということば。これは今では、東京方言では普通になってしまっているが、私の若いころ、東京で大学生になったころは、まだ、東京においても新規なことばであったと記憶する。
ジャパンナレッジを見る限りであるが、「じゃん」は、田畑の出身地の浜松方言ということでもないようだ。ちょっと型破りな新聞記者という人物造形ということで、「じゃん」をつかっているのだろうと思うが、どうも耳障りである。
一九四〇年(昭和一五年、紀元二六〇〇年)、東京オリンピックも名乗りを上げることになった(これは、結局、開催されることはないのだが。)このあたりの描写は、後の一九六四(昭和三九年)の東京オリンピックへの布石として、興味ぶかかった。そして、なんとなく、来年(二〇二〇年)の東京オリンピックを批判的に見るようにも感じられた。
次回は、ロサンゼルスでのオリンピックということになる。日本選手の活躍に期待して見ることにしよう。まあ、オリンピックの結果としては、すでに分かっていることなのだが、ここは、ドラマとして、応援したくなる。
追記 2019-08-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月13日
『いだてん』あれこれ「黄金狂時代」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140425
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月13日
『いだてん』あれこれ「黄金狂時代」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140425
ギボウシ ― 2019-08-07
2019-08-07 當山日出夫(とうやまひでお)
水曜日なので花の写真。今日は、ギボウシである。
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月31日
ネムノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/31/9135486
この花は、昨年、一昨年と、写している。去年のは、
やまもも書斎記 2018年8月2日
ギボウシ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/02/8930607
今年もまた去年と同じような写真ばかりになってしまっている。だが、去年とちがうのは、今年、この花を写そうといういうとき、雨の日が多かった。前夜に雨が降って、朝、まだ雨のしずくが残っているようなときが、かなりあった。
この花の咲くのをみはからっておいて、花が咲いたのを確認してから、ほぼ毎日、毎朝、写してみた。我が家の庭には、白い種類のギボウシが何ヶ所かに咲いている。早く咲く花もあれば、少し遅れて咲く花もあったりして、かなり長い間、この花の写真を写すことができた。よく見てみると、基本の色は白なのであるが、ごくわずかに紫の色を感じさせる花がある。
カメラの設定は、ホワイトバランスはオートのままでつかっている。白い花を白く見えるように写すのは、ある意味では難しいことである。特に、夜が明けてすぐの時間帯なでは、太陽のひかりが十分ではない。しかし、ここはカメラまかせの撮影で、(私としては)十分に満足のいく色になっていると感じる。RAWデータを、Nikonの、Capture NX-D で現像処理している。ピクチャーコントロールはスタンダードを選んでいる。白い花なので、EVを-1/3ぐらい調整することがある。
来年もまたこの花を写すことができればと思っている。
ところで、我が家には、別の種類のギボウシがある。これは紫色である。例年、八月になると花が咲く。今年も花を咲かせている。この花については、また追って掲載したいと思う。
水曜日なので花の写真。今日は、ギボウシである。
前回は、
やまもも書斎記 2019年7月31日
ネムノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/31/9135486
この花は、昨年、一昨年と、写している。去年のは、
やまもも書斎記 2018年8月2日
ギボウシ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/02/8930607
今年もまた去年と同じような写真ばかりになってしまっている。だが、去年とちがうのは、今年、この花を写そうといういうとき、雨の日が多かった。前夜に雨が降って、朝、まだ雨のしずくが残っているようなときが、かなりあった。
この花の咲くのをみはからっておいて、花が咲いたのを確認してから、ほぼ毎日、毎朝、写してみた。我が家の庭には、白い種類のギボウシが何ヶ所かに咲いている。早く咲く花もあれば、少し遅れて咲く花もあったりして、かなり長い間、この花の写真を写すことができた。よく見てみると、基本の色は白なのであるが、ごくわずかに紫の色を感じさせる花がある。
カメラの設定は、ホワイトバランスはオートのままでつかっている。白い花を白く見えるように写すのは、ある意味では難しいことである。特に、夜が明けてすぐの時間帯なでは、太陽のひかりが十分ではない。しかし、ここはカメラまかせの撮影で、(私としては)十分に満足のいく色になっていると感じる。RAWデータを、Nikonの、Capture NX-D で現像処理している。ピクチャーコントロールはスタンダードを選んでいる。白い花なので、EVを-1/3ぐらい調整することがある。
来年もまたこの花を写すことができればと思っている。
ところで、我が家には、別の種類のギボウシがある。これは紫色である。例年、八月になると花が咲く。今年も花を咲かせている。この花については、また追って掲載したいと思う。
Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED
「信濃路」堀辰雄 ― 2019-08-08
2019-08-08 當山日出夫(とうやまひでお)

堀辰雄.『信濃路』(「大和路・信濃路」新潮文庫).新潮社.1955(2004.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100406/
続きである。
やまもも書斎記 2019年8月3日
「大和路」堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/03/9136738
「信濃路」としていくつかの文章が収録されている。どれも詩情ゆたかな小品である。しかし、散文詩というのとは違っている。読んでそこに〈詩〉を感じる、それが散文として書かれているのである。おそらく、信州を文学的に描いたものとしては、抜きん出ているのではないだろうか。
ところで、信州というのは日本文学においてどんな意味があるのだろうか。
堀辰雄に代表されるような、高原のサナトリウムという文学的な場所でもある。他に思いうかぶところを書いてみるならば、まずは、島崎藤村『夜明け前』がある。
やまもも書斎記 2018年2月23日
『夜明け前』(第一部)(上)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/23/8792791
信州を舞台にした文学の代表と言っていいだろう。
それから、松本を描いた作品として、私が若いときに読んだものとしては、『どくとるマンボウ青春記』(北杜夫)がある。この本は、何度か読み返したものである。
また、今ではもう読まれなくなってしまったかもしれないが、臼井吉見の『安曇野』が思い浮かぶ。これは、若いときに買って読んだ記憶がある。
無論、立原道造なども思い出す。
ところで、「信濃路」である。「大和路」につづけて読んだのだが、詩情ゆたかな文章というのは、このような文章のことをいうのだろう。このような文章が、近年ではすくなくなってしまっていると感じるのは、偏見にすぎるだろうか。
読みながら付箋をつけた箇所。
「一つは釈迢空の「死者の書」を荘厳にいろどっていたあの落日の美しさです。」(p.193)
そう思って見るならば、堀辰雄と折口信夫とは、同じ時代に生きていたことになる。ここは、あらためてということでもないが、折口信夫をきちんと読み直しておきたいと思う。
村上春樹の作品や翻訳などを読むかたわらで、堀辰雄を手にしている。このような詩的な文章をよむと、何かしらほっとするような気がする。そろそろ、秋からの講義の準備も始めなければならない。前期の授業の採点などもある。夏は夏で、いろいろと忙しい。その合間に、ふと気がやすまるような文章である。
https://www.shinchosha.co.jp/book/100406/
続きである。
やまもも書斎記 2019年8月3日
「大和路」堀辰雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/03/9136738
「信濃路」としていくつかの文章が収録されている。どれも詩情ゆたかな小品である。しかし、散文詩というのとは違っている。読んでそこに〈詩〉を感じる、それが散文として書かれているのである。おそらく、信州を文学的に描いたものとしては、抜きん出ているのではないだろうか。
ところで、信州というのは日本文学においてどんな意味があるのだろうか。
堀辰雄に代表されるような、高原のサナトリウムという文学的な場所でもある。他に思いうかぶところを書いてみるならば、まずは、島崎藤村『夜明け前』がある。
やまもも書斎記 2018年2月23日
『夜明け前』(第一部)(上)島崎藤村
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/23/8792791
信州を舞台にした文学の代表と言っていいだろう。
それから、松本を描いた作品として、私が若いときに読んだものとしては、『どくとるマンボウ青春記』(北杜夫)がある。この本は、何度か読み返したものである。
また、今ではもう読まれなくなってしまったかもしれないが、臼井吉見の『安曇野』が思い浮かぶ。これは、若いときに買って読んだ記憶がある。
無論、立原道造なども思い出す。
ところで、「信濃路」である。「大和路」につづけて読んだのだが、詩情ゆたかな文章というのは、このような文章のことをいうのだろう。このような文章が、近年ではすくなくなってしまっていると感じるのは、偏見にすぎるだろうか。
読みながら付箋をつけた箇所。
「一つは釈迢空の「死者の書」を荘厳にいろどっていたあの落日の美しさです。」(p.193)
そう思って見るならば、堀辰雄と折口信夫とは、同じ時代に生きていたことになる。ここは、あらためてということでもないが、折口信夫をきちんと読み直しておきたいと思う。
村上春樹の作品や翻訳などを読むかたわらで、堀辰雄を手にしている。このような詩的な文章をよむと、何かしらほっとするような気がする。そろそろ、秋からの講義の準備も始めなければならない。前期の授業の採点などもある。夏は夏で、いろいろと忙しい。その合間に、ふと気がやすまるような文章である。
『完全版 若き日と文学と』辻邦生・北杜夫 ― 2019-08-09
2019-08-09 當山日出夫(とうやまひでお)

辻邦生・北杜夫.『完全版 若き日と文学と』(中公文庫).中央公論新社.2019
http://www.chuko.co.jp/bunko/2019/07/206752.html
中公文庫で新しい対談集が刊行になったので買って読んでみた。これは、以前に『若き日と文学と』のタイトルで出ていた対談集に、その他の、二人(辻邦生、北杜夫)の対談をあつめて、編集したものである。
読んで思うことなど書いてみる。二点ほどあげる。
第一には、文学を語るということについて、情熱的になれるこの二人の精神……文学精神とでもいっていいのかもしれない……である。読んでいって感じるのは、とにかく、文学について話をすることが楽しくてしかたがないという気持ちの現れである。
たぶん、これは、対談者のひとりである北杜夫が、躁状態のときの対談、ということも影響しているのかもしれない、などと思ったりはするのだが。そのようなことを思って読むとしても、読んでいきながら、文学について語るということは、こんなにも楽しい、こころときめくものなのか、そのこころの楽しさが伝わってくる。
第二には、対談者の二人の代表的な作品……『背教者ユリアヌス』、それから、『楡家の人びと』、この二つの作品について、恰好の読書ガイド、案内になっていることである。これらの作品については、私は、若い時に読んでいるし、近年になって再読している。
やまもも書斎記 2018年4月7日
『背教者ユリアヌス』(一)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/07/8820656
やまもも書斎記 2017年4月8日
『楡家の人びと』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/08/8448584
なるほど、これらの作品について、作者はこのように思って書いているのか、いろいろ納得するところが多くあった。
以上の二つぐらいが、読んで感じるところである。
さらに書くとするならば、二人がもっとも影響をうけていることになる、トーマス・マンについて、多く教えられるところがあった。トーマス・マンについても、私も、近年になって再読したりしている。
やまもも書斎記 2017年5月25日
『魔の山』トーマス・マン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/25/8574049
やまもも書斎記 2017年5月4日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/04/8523322
やまもも書斎記 2017年4月19日
『トニオ・クレエゲル』トオマス・マン(岩波文庫)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/19/8492205
それから、特にひとつの章をもうけて設定してある対談が、『星の王子さま』について。この本も、若いときに読んでいる。この作品は、近年になって、著作権保護期間が終了したこともあって、各種の新しい翻訳が刊行になっている。
『星の王子さま』について、その作者であるサン・テグジュペリについて、縦横に語っている。このような文章を読むと、再度、『星の王子さま』を読み返してみたくなった。また、新しい訳を読んでみたいとも思う。
ともあれ、この対談集は、文学について語ることによろこびがあるとするならば、そのよろこびに満ちた本であることは確かである。文学がすきなひとなら、読んで損はない本である。
なお、ついでに書いておくならば、私はこの本を読んで、無性に、『青春記』『航海記』を読み直してみたくなった。何十年ぶりになる。読後感などは、追って。
http://www.chuko.co.jp/bunko/2019/07/206752.html
中公文庫で新しい対談集が刊行になったので買って読んでみた。これは、以前に『若き日と文学と』のタイトルで出ていた対談集に、その他の、二人(辻邦生、北杜夫)の対談をあつめて、編集したものである。
読んで思うことなど書いてみる。二点ほどあげる。
第一には、文学を語るということについて、情熱的になれるこの二人の精神……文学精神とでもいっていいのかもしれない……である。読んでいって感じるのは、とにかく、文学について話をすることが楽しくてしかたがないという気持ちの現れである。
たぶん、これは、対談者のひとりである北杜夫が、躁状態のときの対談、ということも影響しているのかもしれない、などと思ったりはするのだが。そのようなことを思って読むとしても、読んでいきながら、文学について語るということは、こんなにも楽しい、こころときめくものなのか、そのこころの楽しさが伝わってくる。
第二には、対談者の二人の代表的な作品……『背教者ユリアヌス』、それから、『楡家の人びと』、この二つの作品について、恰好の読書ガイド、案内になっていることである。これらの作品については、私は、若い時に読んでいるし、近年になって再読している。
やまもも書斎記 2018年4月7日
『背教者ユリアヌス』(一)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/07/8820656
やまもも書斎記 2017年4月8日
『楡家の人びと』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/08/8448584
なるほど、これらの作品について、作者はこのように思って書いているのか、いろいろ納得するところが多くあった。
以上の二つぐらいが、読んで感じるところである。
さらに書くとするならば、二人がもっとも影響をうけていることになる、トーマス・マンについて、多く教えられるところがあった。トーマス・マンについても、私も、近年になって再読したりしている。
やまもも書斎記 2017年5月25日
『魔の山』トーマス・マン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/25/8574049
やまもも書斎記 2017年5月4日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/04/8523322
やまもも書斎記 2017年4月19日
『トニオ・クレエゲル』トオマス・マン(岩波文庫)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/19/8492205
それから、特にひとつの章をもうけて設定してある対談が、『星の王子さま』について。この本も、若いときに読んでいる。この作品は、近年になって、著作権保護期間が終了したこともあって、各種の新しい翻訳が刊行になっている。
『星の王子さま』について、その作者であるサン・テグジュペリについて、縦横に語っている。このような文章を読むと、再度、『星の王子さま』を読み返してみたくなった。また、新しい訳を読んでみたいとも思う。
ともあれ、この対談集は、文学について語ることによろこびがあるとするならば、そのよろこびに満ちた本であることは確かである。文学がすきなひとなら、読んで損はない本である。
なお、ついでに書いておくならば、私はこの本を読んで、無性に、『青春記』『航海記』を読み直してみたくなった。何十年ぶりになる。読後感などは、追って。
追記 2019-08-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月17日
『どくとるマンボウ青春記』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/17/9141939
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月17日
『どくとるマンボウ青春記』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/17/9141939
『夜のくもざる』村上春樹 ― 2019-08-10
2019-08-10 當山日出夫(とうやまひでお)

村上春樹(文).安西水丸(絵).『村上朝日堂超短篇小説 夜のくもざる』(新潮文庫).新潮社.1998 (平凡社.1995)
https://www.shinchosha.co.jp/harukimurakami/books/100144.html
続きである。
やまもも書斎記 2019年8月5日
『水底の女』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/05/9137577
村上春樹の長編、短篇と読んで、次に翻訳をいくつか読んで、レイモンド・チャンドラーの村上春樹訳を読んだ。そして、手にしたのが、この本である。「夜のくもざる」という作品は、『世界は村上春樹をどう読むか』のなかで、それをどう外国語に翻訳するか、という課題としてつかってあったので目にした。これを読んで、とても面白いと思ったので、文庫本を買って読むことにした。
やまもも書斎記 2019年7月4日
『世界は村上春樹をどう読むか』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/04/9111158
短篇というよりは、掌編、あるいは、ショートショートと言った方がいいかもしれない。短いものだと、二ページほどでおさまってしまう。それも、文庫本としては、大きめの活字で、しかも、行間をあけて組版がしてあるので、普通に組版したら、一ページで収まってしまうほど短いものがある。あとがきを読むと、この作品は、広告につかわれたものを編集して作ったらしい。(あいにく、私は、一般の雑誌というものを、ほとんど読むことがないせいもあって、この広告のことは、まったく知らなかった。)
ともあれ、読んでの印象は、面白い、これにつきる。だが、どこが面白いのかと言われると困ってしまうのだが、とにかく、どの作品も読み始めてすぐに、村上春樹の物語世界……それも掌編という形式における……にはいりこんでしまう。摩訶不思議な物語空間である。そして、たくみな「ことば」の使い手でることが実感できる。
たぶん、この作品を書きながら作者は、楽しんで書いていただろうと感じるところがある。(そして、このことは、あとがきでも、著者自身が述べていることでもある。)
「ことば」によって、虚構の世界を作りあげる類い希なる想像力、創造力、である。まさに村上春樹は、「ことば」の才人であると思う。長編、短篇、それから、翻訳のいくつかと読んできて、この本を読んで村上春樹の小説家、物語の書き手としての才能を見る気がする。
どれも気楽に読める内容のものであるが、村上春樹の文学者としての資質を考えるうえでは、重要な作品であるにちがいない。
次は、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』である。
https://www.shinchosha.co.jp/harukimurakami/books/100144.html
続きである。
やまもも書斎記 2019年8月5日
『水底の女』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/05/9137577
村上春樹の長編、短篇と読んで、次に翻訳をいくつか読んで、レイモンド・チャンドラーの村上春樹訳を読んだ。そして、手にしたのが、この本である。「夜のくもざる」という作品は、『世界は村上春樹をどう読むか』のなかで、それをどう外国語に翻訳するか、という課題としてつかってあったので目にした。これを読んで、とても面白いと思ったので、文庫本を買って読むことにした。
やまもも書斎記 2019年7月4日
『世界は村上春樹をどう読むか』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/04/9111158
短篇というよりは、掌編、あるいは、ショートショートと言った方がいいかもしれない。短いものだと、二ページほどでおさまってしまう。それも、文庫本としては、大きめの活字で、しかも、行間をあけて組版がしてあるので、普通に組版したら、一ページで収まってしまうほど短いものがある。あとがきを読むと、この作品は、広告につかわれたものを編集して作ったらしい。(あいにく、私は、一般の雑誌というものを、ほとんど読むことがないせいもあって、この広告のことは、まったく知らなかった。)
ともあれ、読んでの印象は、面白い、これにつきる。だが、どこが面白いのかと言われると困ってしまうのだが、とにかく、どの作品も読み始めてすぐに、村上春樹の物語世界……それも掌編という形式における……にはいりこんでしまう。摩訶不思議な物語空間である。そして、たくみな「ことば」の使い手でることが実感できる。
たぶん、この作品を書きながら作者は、楽しんで書いていただろうと感じるところがある。(そして、このことは、あとがきでも、著者自身が述べていることでもある。)
「ことば」によって、虚構の世界を作りあげる類い希なる想像力、創造力、である。まさに村上春樹は、「ことば」の才人であると思う。長編、短篇、それから、翻訳のいくつかと読んできて、この本を読んで村上春樹の小説家、物語の書き手としての才能を見る気がする。
どれも気楽に読める内容のものであるが、村上春樹の文学者としての資質を考えるうえでは、重要な作品であるにちがいない。
次は、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』である。
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