『おしん』あれれこ(その六)2019-08-24

2019-08-24 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月8日
『おしん』あれこれ(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/08/9113472

今、ドラマは、佳境とでもいうべき佐賀編である。ここでおしんは過酷なイエ制度の中で暮らすことを余儀なくされる。が、それはおいておいて、それまでのことをちょっとふりかえっておきたい。それは、このドラマにおける「労働観」とでもいうべきものである。

東京で羅紗問屋がつぶれて、子供服の店を開くことになる。このとき、工場を建てて、多くの労働者(女性)をあつめてはたらかせることになる。

このとき、夫の竜三は、昼夜交代制にして、すこしでも稼働効率(今のことばで言えばであるが)を、あげようとする。それに対して、おしんは反対する。普通の労働者が、朝から夕方まではたらいて、それで食べていけるようにすればいい。また、自分たちの会社も、それで成り立つだけの規模で事業をすすめればいいのである、と。

これは、まさに、近代的な、あるいは、現代的な労働観である。この『おしん』というドラマが最初に放送された当時にあっても、このような労働観は、きわめて斬新なものであったと、振り返って見ることができるかもしれない。

おしんにこのように言わせることの背景には、故郷の山形での小作の生活があり、また、その姉の製糸工場での過酷な労働ということがあってのことにちがいない。そのような労働のあり方を知っているからこそ、自分たちの会社では、普通に働いて普通に生活できるような労働条件をもとめている。

これは、その後の、スーパーの経営者になってからのおしんの行動にも通じるものがあると思う。

だが、ともあれ、このような労働観をもった人物として描かれているおしんであるからこそ、竜三の故郷の佐賀に行ってからの生活の悲惨さが、際だったものになってくることは確かである。

『おしん』は近代という時代を生きた、女性の自立の物語である。その基本にある労働観を考えて見ると、今日の観点から見て、至極まっとうなものに思えてくる。このドラマの時代、まだ、世の中は、高度経済成長の余韻をひきずっていた時代である。その後、バブルの崩壊があり、今の時代において、労働観はどうであろうか。一部で問題になっている過重な労働、また、その一方で、余裕のある労働環境を模索する動きもあるようだ。そのような今日の目からこのドラマを見て、『おしん』の描いた「労働」とはいかにあるべきか、というメッセージは、きわめて貴重なものに思えてくるのである。

追記 2020-9-23
この続きは、
やまもも書斎記 『おしん』あれこれ(その七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/23/9156683