『なつぞら』あれこれ「なつよ、優しいわが子よ」2019-09-01

2019-09-01 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第22週「なつよ、優しいわが子よ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/22/

前回は、
やまもも書斎記 2019年8月25日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、新しい命を迎えよ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/25/9145203

このドラマもここから終盤というところだろうが、私にはいまひとつ面白く感じられるところがない。つまらない、というのではないが、ドラマとして何をうったえようとしているのかが、はっきり感じられないのである。

働く女性、しかもアニメーターという新しい職業において新分野を開拓していく女性……これが、基本のモチーフにはあるのだろう。だが、そうであるわりには、どうもうまく話がはこびすぎてしまっているように思える。

一番の問題は、やはり出産と育児である。ここのところが、ヒロイン(なつ)の周囲の人びとの好意でどうにかなっている、という描き方なのが、どうにも、ステレオタイプにすぎる印象がある。社会の制度(保育園など)、それから、会社の組織、労働組合、というものも片方には必要だろう。このような制度的な問題をぬきにして、夫(一久)などの家族、それから知人の好意だけで、乗り切っていっている。

これはこれでいいのかもしれないが、しかし、やはりここは、「開拓者」としてのヒロイン(なつ)を描くとなれば、立ちはだかる様々な社会的な問題についても、きちんと描いておくべきなのではないだろうか。

また、このドラマの後半になって、なつがアニメーターになってからの部分で、どのようなアニメーションをめざすのか、アニメーションには何が可能なのか、問いかけることが無くなってきたようにも思えてならない。ただ、アニメーターといいう職業についているだけではなく、アニメーションの可能性をどのように模索してきたのか、そこのところが一番肝心な部分ではないだろうか。このアニメーションの可能性を追求するという要素が、このところの展開では乏しくなっているように思える。

このドラマも、あと一ヶ月である。次週は、北海道でいろいろあるようだ。これを楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-09-08
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月8日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、天陽くんにさよならを」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/08/9150718

『夜と霧の隅で』北杜夫2019-09-02

2019-09-02 當山日出夫(とうやまひでお)

夜と霧の墨で

北杜夫.『夜と霧の隅で』(新潮文庫).1963(2013.改版).新潮社
https://www.shinchosha.co.jp/book/113101/

続きである。
やまもも書斎記 2019年8月22日
『幽霊』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/22/9144039

北杜夫の主な作品は、高校生ぐらいまでの間にだいたい読んできたのだが、実は、この本は未読の本であった。半世紀以上前の本を、今でも、改版して新しい本で新潮文庫で売っているのはうれしい。

読んで見て思うことは次の二点ぐらいだろうか。

第一に、叙情性である。

この作品集は、北杜夫の初期の作品をあつめてあるのだが、どの作品にも、どこからし叙情性がある。これらの作品を読んで感じるような叙情性が、今の日本の文学がなくしてしまったものかもしれないと思いながら読んだ。

第二に、ヒューマニズムである。

この作品集のメインの作品は、表題作の「夜と霧の隅で」である。これは、第二次大戦中のナチスのもとで、精神病院で、行われた安死術と、それに、なんとかして抵抗しようする医師の姿を描いている。こう書いてしまうと、いかにも深刻なテーマである。無論、深刻なテーマにはちがいないのであるが、それを、北杜夫は、どことなしユーモアをもって描いている。深刻な状況におかれた人間が、大真面目になるほど、それはどこかしら滑稽さをおびてくる。そこのところを、作者は、距離をもって描いている。そして、その根底にあるのは、筆者の精神病に対する感覚……それをヒューマニズムと言っておくが……である。だが、それも、見方によっては、どことなしかユーモラスでもある。

以上の二点が、この『夜と霧の隅で』を読んで感じるところである。

この作品、芥川賞の受賞作である。だが、さて、今、芥川賞の受賞作で文庫本で読める作品がどれほどあるだろうか。ちゃんと調べたことはないのだが、かなり少ないかもしれない。時間がたってみれば、芥川賞をとったかどうかなど、文学史のなかでは、ささいなことなのかとも思う。

次は、『輝ける碧き空の下で』である。

追記 2019-09-06
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月6日
『輝ける碧き空の下で』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/06/9149931

『いだてん』あれこれ「仁義なき戦い」2019-09-03

2019-09-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年9月1日、第33回「仁義なき戦い」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/033/

前回は、
やまもも書斎記 2019年8月27日
『いだてん』あれこれ「独裁者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/27/9145981

この回では、ほとんどスポーツの場面がなかった。それではなく、オリンピック招致の舞台裏にまつわるいろんなできごとであった。見どころはいくつかあると思うが、二点ばかりあげておく。

第一には、国際情勢とオリンピックである。

オリンピックは、政治とは無関係である、このような理念もある。しかし、その一方で、政治と無縁ではありえないこともまた確かなことである。

思えば、すでに描かれたロサンゼルスでの開催も、新国家であるアメリカの威信をかけてのものであったろう。そして、ベルリンは、ヒトラーの政治戦略とともに開催されることになる。それをうけての東京大会である。純粋にスポーツの祭典というわけにはいかない。

関東大震災から復興した日本……これはどこかで見たようなことばだが……それから、紀元二六〇〇年を記念しての大会、国際連盟を脱退したとはいえ、世界の「一等国」の一員であるはずの日本……このような背景ぬきに、東京での一九四〇年のオリンピックはない。

しかし、それも、そう簡単には決まらなかったようだ。このあたりは、時代考証をふまえてのものになっていると思う。オリンピック招致には、様々な国と人びとの思惑が交錯する。

これから決まるはずの東京大会(一九四〇年)も、決まったはいいものの、結局は開催されずに終わることになることはすでにわかっている。しかし、どのようないきさつで、開催に決まったのか、また、どうして開催が中止になったのか、このあたりは、非常に興味深いところがある。

第二には、何のためのオリンピックか、という問いかけである。

後に東京オリンピック(一九六四年)招致に尽力することになる田畑政治は言っていた……オリンピックとは、たかが二週間の運動会である、と。そのとおりだと思う。たかが運動会である。だが、その運動会のために、国際情勢のなかで国の思惑がある。そして、それは、現代では、オリンピックビジネスというものにまで発展していることになる。

たかが運動会ではあるが、その持つ意味は、その後、大きくなっていくばかりかもしれない。それを最も皮肉な視点からみるとするならば、まさに「おもてなし」になる。

以上の二点が、見ていて思ったことなどである。

このドラマ、ここにきて……一九四〇年の東京オリンピックを描くところになって、今のオリンピックに対する風刺とでも言うべきものを感じさせるようになってきている。オリンピックの理念と、現実の国際情勢、そのなかにあって、翻弄される選手や関係者たち。田畑政治や嘉納治五郎など、オリンピックとともに、その人生を歩んできたかのごとくである。

ドラマを見ていて、来年の二〇二〇年東京オリンピックを、そう単純には喜んで見ることをしていない、作者(脚本)の意図をどことなく感じる。参加する個々の選手は、純真にスポーツにうちこんでいるのかもしれない。だが、その招致をめぐっては、今にいたるまで、種々の疑惑が絶えることがない。

やはり、このドラマは、オリンピックというものを通じて、近代日本のある側面を描いていると言っていいだろと思う。

IOCでのやりとりを落語にして見せた場面など面白かった。次回以降、志ん生はどんなかたちでオリンピックにからんでくるだろうか。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-09-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月10日
『いだてん』あれこれ「226」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/10/9151815

ヤブカンゾウ2019-09-04

2019-09-04 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は、ヤブカンゾウである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年8月28日
ミヤコグサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/28/9146357

今年は、九月になってもまだかなり暑い。ちょっと朝の散歩に出る気もおこらないでいる。

朝起きて(暗いうちである)、ブログに文章をアップロードして、それから、庭に出る(明るくなってから)。花の写真を撮る。それを、Facebookにアップロードする。今は、ギボウシの紫色の花が咲いているのでそれを写している。今年は、なぜか、百日紅が咲かない。ツユクサの花もあるにはあるのだが、写真にとれるほどの場所に多く咲くことがない。このまま季節がすぎると、ホトトギスが咲くころに、次の花ということになりそうである。

NHKの朝ドラ、BSで『おしん』と『なつぞら』を見て、チャンネルをNHK総合に変えると、関西のローカルニュースの時間になる。そこで天気予報があるのだが、朝の八時前の時点ですでに、30℃近い気温になっている。これでは、とても散歩に行く気にはなれない。

ここしばらく、朝の散歩は休んでいる。だから、散歩にカメラを持って行くということもない。いつもの散歩道の草花の秋の様子を写すようになるのは、もうちょっとしてからかと思う。

ここに掲載のヤブカンゾウは、今年に夏の前に写しておいたものからである。去年までは気付かなかった花である。道ばたに咲いているのを目にして、写真にとって調べてみた。どうもヤブカンゾウらしい。WEBで聞いてみたりしたが、これであっているらしい。

いつものようにジャパンナレッジ『日本国語大辞典』を見る。

「やぶかんぞう」には、二つの用法がある。

1.植物「あまちゃづる(甘茶蔓)」の異名

これには用例がある。重訂本草綱目啓蒙(1847)である。

2.植物「ふじかんぞう(藤甘草)」の異名。

とあるのだが、用例が載っていない。

「ふじかんぞう」を見ると、

マメ科の多年草。本州、四国、九州の山野に生える。

として、さらに説明がある。用例をものっている。俳諧・本朝文選(1706)、日本植物名彙(1884)。どうやら、『日本国語大辞典』では、この名称の方を採用しているらしい。しかし、私がもっている手元の簡便な植物図鑑では、「ヤブカンゾウ」の名称で出ている。

しかし、「フジカンゾウ」でWEB検索してみると、出てくる花は、どうもちがうようだ。ここは、「ヤブカンゾウ」の見出しのもとに、項目をたてて用例をとっておくべきところではないだろうか。この花の名称については、さらに考えてみたい。

ヤブカンゾウ

ヤブカンゾウ

ヤブカンゾウ

ヤブカンゾウ


ヤブカンゾウ

ヤブカンゾウ

Nikon D500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-09-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月11日
アジサイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/11/9152149

『やがて哀しき外国語』村上春樹2019-09-05

2019-09-05 當山日出夫(とうやまひでお)

やがて哀しき外国語

村上春樹.『やがて哀しき外国語』.講談社.1994
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000176775

続きである。
やまもも書斎記 2019年9月4日
『使いみちのない風景』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/31/9147511

1990年代の初期、著者(村上春樹)がプリンストンに居住していたときの文章をまとめたもの。その滞在記、エッセイといえばいいだろうか。時期としては、冷戦終結(ベルリンの壁の崩壊)の後、湾岸戦争のころ、ということになる。

読みながらいろいろ付箋をつけたが、以下の箇所を引用しておきたい。あとがきからである。

「でもただひとつ真剣に真面目に言えることは、僕はアメリカに来てから日本という国ついて、あるいは日本語という言葉についてずいぶん真剣に、正面から向かい合って考えるようになったということである。」(p.278)

「あらゆる言語は基本的に等価であるというのは僕の終始変わらない信念である。そしてあらゆる言語は基本的に等価であるという認識がなければ、文化の正当な交換もまた不可能である。」(p.279)

「これもまた経験的にわかる。それはたぶん〈自明性というものは永劫不変のものではない〉という事実の記憶だ。たとえどこにいたところで、僕らはみんなどこかの部分でストレンジャーであり、僕らはその薄明のエリアでいつか無言の自明性に裏切られ、切り捨てられていくのではないかといううっすらと肌寒い懐疑の感覚だ。」(p.282) 〈 〉内傍点

もし村上春樹の作品に、世界的に不偏ななにか、世界性とでもいうべきものがあるとするならば、それは、上述のような文化、言語についての感覚に根ざしたものであると理解されるだろうか。

このようなことを思って読んではみるのだが、日本の小説家の海外(アメリカのプリンストン)の滞在記として読んで、十分に面白い。理髪店のこと、ジャズのこと、いろいろ興味深い。

「結局のところ、残念ながらジャズというのはだんだん、今という時代を生きるコンテンポラリーな音楽ではなくなってきたのだろうと思う。」(p.107)

その後、今日に村上春樹の書く小説のなかに登場するジャズは、もはや失われたものとしての何か、ということになるのかもしれない。村上春樹の文学の世界性を考えるとき、貴重なてがかりを提供してくれる作品であると思う。

次は、『村上春樹雑文集』である。

追記 2019-09-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月9日
『村上春樹雑文集』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/09/9151272

『輝ける碧き空の下で』北杜夫2019-09-06

2019-09-06 當山日出夫(とうやまひでお)

輝ける碧き空の下で

北杜夫.『輝ける碧き空の下で』.新潮社.1982

続きである。
やまもも書斎記 2019年9月2日
『夜と霧の隅で』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/02/9148346

この作品、北杜夫の作品のなかでは未読のものであった。今では、紙の本としては刊行されていない。Kindle版があるようだが、古本で紙の本で買って読むことにした。文庫本(四冊)でも刊行されていたものであるが、手にすることなく、今にいたってしまっていた。

北杜夫の主な作品は、高校生のころまでに読んでいる。『楡家の人びと』も高校生のときに読んだとか記憶している。この『輝ける碧き空の下で』は、1982年の刊行である。もう私は、大学生を終わっている。大学生になってから、北杜夫からは、とおざかってしまって今にいたっている。

第二部まであるうちの、第一冊目である。著者(北杜夫)の目論みとしては、第三部まで書くつもりだったらしいが、第二部までで終わっている。そのことの事情は、第二部のあとがきに記してある。

この小説について思うことを記すならば、次の二点になる。

第一に、小説として読んで、他の北杜夫の作品と比べてであるが……面白くない。これは、おそらく、著者自身も認めていることであろう。ブラジル移民がテーマであるのだが、その視点が、あまりに錯綜している。登場人物も多い。小説における登場人物として造形的に魅力のある人物にとぼしい。

これは、『楡家の人びと』のような作品を念頭において読むと、非常に強く感じる。『楡家の人びと』においては、なにより「楡家」という一族があり、「楡基一郎」をはじめとして、ユニークな登場人物にあふれている。

それにくらべて読んでみると、ただ、移民にまつわる様々なできごとが、歴史叙述風に淡々と記されるという印象を持つ。このあたりの記述のあり方については、参照した文献に依拠しているむね、著者自身が書いているところである。

これは、ブラジル移民という歴史的なできごとが、小説という虚構の世界で描くには、あまりにも壮大で、また多岐ににわたる視点を必要とすると言っていいのだろう。この意味において、東京の「楡家」という設定で描くことのできた『楡家の人びと』とは、スケールの桁がちがうのである。

第二に、ブラジル移民を描いた小説の、その後……現代の姿である。

かつて日本は、ブラジルに「移民」という形で、人びとを送り出していた。その日本が、二一世紀の今日になって、「外国人労働者」という形で、逆に、外国の人びとを日本に迎えいれようとしている。

著者は、第三部までを構想していたとある。第二次世界大戦後の「勝組」「負組」の対立までえがこうとして、そこまで描くことは無理であると、断念したとある。その著者(北杜夫)が亡くなってからの日本は、日系ブラジル人を多く労働者として受け入れることになっている。もし、著者(北杜夫)が、長生きしていて、そのような日本とブラジルの姿を見たならば、また、どのような感想をいだいただろうか、この作品を読んで想像してしまう。さらに、第四部、第五部……になるような、膨大な小説になるにちがいない。いや、そもそも、今の日本とブラジルの関係を、そのような、「小説」というような文学的な枠組みで描くことは、ほとんど不可能といえるかもしれない。

以上の二点が、『輝ける碧き空の下で』を読んで感じるところである。

さらに書くならば、この小説に登場するのは、主に、移民の一世の人びとである。その苦労は、並大抵のものではない。しかし、それが、悲惨な印象をもつことなく、場合によってはユーモラスな雰囲気さえ感じさせる描写になっているのは、やはり北杜夫の作品だけのことはあると感じる。それから、この小説に登場するブラジルの自然描写が美しい。壮大であると同時に、純情とでもいうべき感覚で、自然が描写される。このあたりも、北杜夫ならではの作品である。

さて、この作品の「第二部」があるのだが(買ってはあるのだが)、読むことになるかどうか、ちょっと微妙な感じでいる。

『我らが少女A』高村薫2019-09-07

2019-09-07 當山日出夫(とうやまひでお)

我らが少女A

高村薫.『我らが少女A』.毎日新聞出版.2019
http://mainichibooks.com/books/novel-critic/post-679.html

著者(高村薫)は、この作品で何を書きたかったのだろうか、読んでみて今一つはっきりしないと感じる。たてまえ上としては、久々の合田雄一郎シリーズということなのだが、実際に読んでみて、登場人物のなかでその役割は、決して大きくはない。

ただ、読んで思ったことなど書いておくならば、次の二点であろうか。

第一には、「少女A」のこと。

一二年前におきた事件。その重要人物としてうかびあがったある女性。そのきっかけになったのは、彼女もまた、ある事件に遭遇したせいなのだが……まあ、このあたりは、常識的な設定の話の運び。興味深いのは、その女性をめぐって、幾人かの登場人物の視点から描写があるのだが、ある時点で、その女性は「少女A」と匿名化される。普通、匿名化されれば人目にはあまりふれないと思うのだが、この場合ちょっと事情が違う。SNSにおいて、ハッシュタグをつけた「少女A」がうまれてしまう。そのことによって、またたくまに、情報が拡散してしまう。

ここには、SNSの世界における、匿名化と、同時に、情報の拡散と、二つのことがおこっている。まさに、現代社会のある一側面を描いていると言っていいだろう。

第二には、SNS的視点である。

登場人物の視点を切り替えながら、ストーリーを展開していく……これは、小説の技法として普通だと思う。が、これまでの高村薫の作品は、どちらかといえば、視点人物を固定しておいて、その視点から、じっくりと出来事を描写していくというスタイルであったように思う。

SNSの世界には、中心となる視点がない。強いて言えば、それを見ている、あるいは、参画している自分自身の視点しかない。だが、その自分自身の視点も、人のかずだけある。TL(タイムライン)には、これが正しいということがない。それぞれにTLを見ているにすぎない。そして、その総和は、ビッグデータと言うべきものになる。

この作品を読んでいくと、SNSのTL的視点の切り替え、このように理解されると、私は感じて読んだ。頻繁に登場人物の視点が切り替わっていく。一つ一つのTLで見るものは、出来事のごく一部にすぎない。しかし、ある出来事にについて、複数のTLが錯綜するとき、そこから、事件の新たな様相が浮かびあがってくる。

しかし、そこにあるのは、近代文学が手にいれたと考えるべき「神の視点」では、もはやありえない。別次元の、新たな何かになる。(だが、この作品で、高村薫は、その別次元の何かまで描くことはしていない。)

以上の二点が、この本を読んで感じたところである。

ところで、この作品、新聞連載がもとになっているのだが、その連載において、毎回、挿絵画家が交替するという手法をとったとある。これもまた、見ようによっては、TL視点の切り替えのアナロジーと言えるのかもしれない。

高村薫は、貪欲に現代社会を描く作家だと思っている。この作品において、描きたかったのは、SNS的世界観とでも言うことができるだろうか。作中には、オンラインゲームも登場する。だが、基本的に「神の視点」にもとづく、近代の小説という枠組みにおいて、この試みが成功したかどうかは、また別の評価を考えなければならないと思う。

『なつぞら』あれこれ「なつよ、天陽くんにさよならを」2019-09-08

2019-09-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第23週「なつよ、天陽くんにさよならを」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/23/

前回は、
やまもも書斎記 2019年9月1日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、優しいわが子よ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/01/9147934

この週で描いていたのは次の二つのことになるだろう。

第一には、天陽の死。

ドラマの必然的な流れとでもいうべきものしては、別にここで天陽が死ななくてもいいようにも思える。これまでのドラマのストーリーの伏線として、特にここで天陽との別れが予想されていたとも感じない。

が、ともあれ天陽は死んでしまった。その死の後に残るものはなんであろうか。天陽の絵画にかけた思いとでもいうべきものであろうか。最後に描いた馬の絵に、なつは感動する。そして、もう一つの最後の仕事としては、雪月の包装紙のデザイン画がある。この包装紙の絵を見て、なつは、自分の故郷としての北海道の十勝への思いを新たにしたようだ。

この、なつの十勝への思いを再認識することの契機としては、確かに天陽の死は、意味のあるものとしてドラマで描かれたことになる。この意味では、天陽は無意味に死んではいない。

普通のドラマの設定であれば、このあたりで死ななければならないのは、じいさんの泰樹かもしれないが、いまだに矍鑠としている。たぶん、泰樹じいさんは、このドラマの結末……十勝の開拓者の精神を、なつのアニメーションに伝える、ここまでは長生きすることになるかと思う。

第二には、なつの転機である。

東洋動画をやめて、マコプロに移る決心を、なつは決めることになる。それは、『大草原の小さな家』のアニメーションの、作画監督をするためである。演出は、一久である。ここで、なつは、北海道を舞台にして、開拓者の物語を作ることになる。

このドラマは、最後になって、北海道の十勝の酪農の開拓者の物語と、アニメーションの世界で女性アニメーターとして生きていくことになるなつの物語が、一つに融合することになる。このようなドラマの作り方であったのかと、今になって、振り返っていろいろ思ってみたりする。

以上の二点が、この週を見て思うことなどである。

ただ、物足りないところを書いてみれば、いくつかある。光子が、いつのまにか、いいおばさんになってしまっている。ドラマに最初に登場したときには、謎を秘めたマダムであったのだが、そのキャラクターが変わってしまっている。

それから、声優のこと。兄の咲太郎の声優のプロダクションは、どう運営されているのだろうか。このあたりが、まったく出てこない。ここもちょっと物足りない気がする。

さらに書けば、のぶさんのこと。放送記者になったはずなのだが、その後、とんと登場しない。放送記者という視点は、アニメーションを描くにも、十勝の酪農を描くにも、非常にユニークな視点を提供することになると思うのだが、どうもそうはなっていないようだ。

などなど、いくつか不満めいた気分が残りはするが、しかし、このドラマもあと三週である。アニメーターとしてのなつのこれからの人生をどのように描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-09-15
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月15日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、この十勝をアニメに」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/15/9153565

『村上春樹雑文集』村上春樹2019-09-09

2019-09-09 當山日出夫(とうやまひでお)

村上春樹雑文集

村上春樹.『村上春樹雑文集』(新潮文庫).新潮社.2015 (新潮社.2011年)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100167/

続きである。
やまもも書斎記 2019年9月5日
『やがて哀しき外国語』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/05/9149531

村上春樹の理解のためには、重要な一冊になるだろうというのが、読んでの感想である。

まさにタイトルのとおり「雑文集」なので、読んで思うことなどかなり多方面にわたるが、二点ほど書いておく。

第一は、小説家としての村上春樹を理解するうえで重要な文章がいくつか収められている。特に、もはや伝説とでいうべきエルサレムでのスピーチ「壁と卵」が収録されている。その他にも、村上春樹の文学を理解するうえでキーとなるようなことばを多く目にする。

たとえば、

「仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる。」(p.23)

一度書かれて読者にわたった小説は、読者がどのようにそれを読むかに委ねられる。作者の意図とかを、無理に表明するようなことはしていない。このほかにも、村上春樹が、文学について、小説について、物語について、音楽について、芸術について……どのような考えをもっているか、率直に語った文章が、いくつか収録されている。

第二は、これは、村上春樹の書いたもののいくつかに感じ取れることなのだが、いったいこれが何の役にたつのかわからないが、書くのが楽しいから書いてみる、とでもいうべき文章が収められていることである。

たとえば、「正しいアイロンのかけかた」とか「にしんの話」とか、ただ、そのことを書くのが楽しいので書いているとしかいいようのない文章である。

以上の二点が、読んで思うことなどである。

さらには、ジャズについていくつかのまとまった文章があり、また、『アンダーグラウンド』をめぐって、その周辺のことに筆がおよんでいる。このあたりの文章は、村上春樹を理解するうえで、かなり重要な意味をもってくるにちがいない。「雑文集」というタイトルではあるが、村上春樹の文学を理解するためには重要な文章……外国語版の小説への前書きとか、各種の文学賞の受賞のことばとか……これらは、村上春樹を読むために参考になるべき一冊であると思う。

次は、翻訳を読んでみたいと思う。『ティファニーで朝食を』である。

追記 2019-09-12
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月12日
『ティファニーで朝食を』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/12/9152538

『いだてん』あれこれ「226」2019-09-10

2019-09-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年9月8日、第34回「226」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/034/

前回は、
やまもも書斎記 2019年9月3日
『いだてん』あれこれ「仁義なき戦い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/03/9148788

この回は、タイトルのとおり二二六事件をめぐる顛末であった。

印象に残っているのは、次の二点だろうか。

第一には、おもてなし。

IOC会長が日本に視察にやってくる。ちょうど、そのときに二二六事件が起こる。このとき、田畑のいる新聞社もまた襲撃にあうことになる。幸い、そう大きな犠牲が出たということではなかったようだが。

二二六事件は、様々な史料が残っている。そして、ある意味では、「昭和維新」をさけんだこの事件の全貌は、いまだに明かでないとも言える。歴史的な位置づけも、定まってはいないのかもしれない。しかし、その後の歴史を考えるとき、この二二六事件が一つのおおきな歴史の転換点になっていることはたしかだろう。

その二二六事件と、IOC会長の来日が重なることになる。ここで、嘉納治五郎や田畑たちは、せいいっぱいの「おもてなし」をすることになる。関東大震災から復興した東京、神宮のスタジアム、そして、下町の子どもたち。また、嘉納治五郎のオリンピック招致への思い。結局、これらが、総合的にはたらいて、IOC会長のこころを動かしたようだ。

だが、今の我々は知っている。その一九四〇年(昭和一五年)のオリンピックは、結局は、開催されることがないことを。そのような知識をもって見るとはしても、もし、歴史の流れとして、東京でのオリンピック開催が実現していたら……それが可能になるような国際情勢……具体的には、支那事変、満州国への対応ということになるが……もし、そうだったら、その後の日本の歴史も変わっていたかもしれない。このような思いをいだいた。

第二には、熊本の四三の家族のこと。

嘉納治五郎から手紙をもらった四三は、東京に行きたいと家族につげる。それを、結局は、承諾することになるのだが、この時の、義母の幾江(大竹しのぶ)がよかった。どうしても東京に行きたい四三、それを思う、「家族」の気持ち、これを、うまく見せていたように思う。

以上の二点が、この回を見て印象に残っているところである。

ところで、次回は、ベルリンのオリンピックになるようだ。これは「民族の祭典」として歴史に名が残る大会になる。前畑秀子も出てくるだろう。そして、マラソンで金メダルをとることになる孫基禎も「日本人」として出場することになるはずである。このあたりどう描くことになるのか、おそらく、この『いだてん』というドラマにおける、最高のクライマックスになるにちがいない。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-09-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月17日
『いだてん』あれこれ「民族の祭典」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/17/9154523