『いだてん』あれこれ「民族の祭典」2019-09-17

2019-09-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年9月15日、第35回「民族の祭典」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/035/

前回は、
やまもも書斎記 2019年9月10日
『いだてん』あれこれ「226」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/10/9151815

今から振り返って、ベルリンの一九三六年のオリンピックとはいったい何だったのだろうか。一つには、きわめて政治的なもよおしであったとはいえよう。ヒトラーの意図にのっとった大会であった。ナチスのプロパガンダとしての大会である。また、この時の記録映画は、「民族の祭典」として、現代にまで語り継がれる「名作」でもある。

このドラマを見ていて感じることだが、オリンピックとナショナリズムを、かなりさらりと描いている。(ただ、私は、ナショナリズムを悪いものだと思っているわけではないが。)この回で描いていた、マラソン。結果としては、「日本」が一位で、日章旗があがることになるのだが、しかし、選手として出場したのは、「朝鮮」の選手であった。このあたり、このドラマの前半を四三というマラソン選手を中心に描いてきて、ではベルリンのマラソンをどう描くか気になっていたのだが、意外とあっさりとしたものだった。いたずらに、「日本」の、あるいは、「朝鮮」の、それぞれのナショナリズムを、刺激することのない描写であった。これは、あえて、孫基禎、南昇竜、これらの登場人物を、ここまで登場させずに、ベルリンの記録映像によって表現したことがあるだろう。また、「日本」の勝利と同時に、これは、足袋屋である播磨屋の勝利として描いていたこともある。

この回を見て思うことは、(あるいは、今までの放送を振り返ってもそうなのだが)、実際のオリンピックの記録映像と、ドラマの部分を、うまく組み合わせて作ってある。そのことによって、史実「実」に忠実であると思わせながら、ドラマとしては「虚」の部分を描くことに成功している。

それから、東京オリンピック招致がきまった経緯。なんとか、アジア初のオリンピックを実現させることができた。しかし、そのオリンピックは、開催されないでおわり、本当に開催となるのが、一九六四年の東京大会であることは、分かっていることなのだが。

このオリンピック招致の部分を見ていて感じるのは、来年二〇二〇年の東京オリンピック開催への、批判的精神である。いったい何のためにオリンピックを開催するのか、その意義を問いかけるものになっている。

そして、オリンピック開催の意義、また、その時々の国際情勢のなかで揺れうごくオリンピック、そして現代のオリンピックでは巨大なビジネスもはたらいている。だが、このようなものとは無縁なものとして、個々の選手の活躍がある。このドラマは、この個々の選手の活躍を、選手の心情によりそって描いている。オリンピックの開催については、いろいろ議論はあっても、選手は競技にうちこんでいる。そのようなものとして、これまでの四三の物語があったし、また、嘉納治五郎の存在も、スポーツの精神を象徴するものであろう。

次回、いよいよ、前畑がんばれ、である。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-09-24
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月24日
『いだてん』あれこれ「前畑がんばれ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/24/9157104

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