『おしん』あれこれ(その七)2019-09-23

2019-09-23 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年8月24日
『おしん』あれれこ(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/24/9144778

おしんは、佐賀の田倉の家を出て、東京に行くことになる。髪結いの師匠(たか)をたよってのことである。結果としては、露天商の元締めの健にたすけられて、どんどん焼きの店を持つことになる。

さて、ようやく、『おしん』というドラマにおける最大の山場の一つとでもいうべき佐賀編を見て思うことなど、ちょっと書いてみたい。なぜ、この佐賀の田倉の家でおしんは苦労することになっているのだろうか。

おしんは山形の山間部の農村の小作農の生まれである。それが、幼いときに、奉公に出される。幸い、加賀屋という店にひろわれることになって、おしんは、生きるための教養というべきものを学ぶ。それは、まずは読み書きそろばんという近代的なリテラシーである。それから、商売の才覚である。あるいは、こうも言えようか……近代の女性が自立するためには、リテラシーと才覚と覚悟が必要である、と。

山形の小作農の家に生まれたおしんは、地主というものに搾取される立場であった。それが、三男とはいえ、佐賀の地主の家の「嫁」として暮らすことになって、たとえ地主といえども、農家の「嫁」の苦労を身にしみて感じることになる。

その苦労も、近代の自立した女性として生きるために役立つためのものなら、おしんも辛抱したかもしれない。しかし、佐賀の田倉の家の「嫁」という立場は、前近代、封建的な制度そのままである。これには、おしんは辛抱する価値がないと見切りをつけることになる。たぶん、佐賀の田倉の家にとどまっていれば、そのうち代替わりがあって、おしんもそれなりの生活が保障されているのかもしれない。しかし、それは、おしんにとって、我慢して受け入れることのできないものであった。近代的な自立した女性の生き方に反するものであたるとしか、思えなかったからである。

『おしん』というドラマは、近代において自立して生きてきた女性の物語であると、私は思っている。このような観点からみて、地主の家の「嫁」という立場にあることを、いさぎよしとしない生き方を選ぶことになる。たとえ、露天商であっても、自立した生き方を選んでいる。(その後のドラマの展開としては、最終的にスーパーの経営者になることは、ドラマの現代のおしん(乙羽信子)によって、すでに表現されている。)

近代の自立した女性を描く……この意味において、前近代的な制度のなかで忍従をせまられる佐賀の田倉の家は、耐えがたいものであった。そう思ってみると、佐賀の人びと、特に姑の清、それか、長男の「嫁」の恒子、このあたりの登場人物の描き方が、実に丁寧であると感じる。強いて言うならば、その時代にあって、そのような生き方しかできなかった人びととして、記憶されることになる。

さて、東京に出てきたおしんのこれからの生活がどうなるか、(前にも見てはいるのだが)楽しみに見ることにしよう。

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