『たけくらべ』樋口一葉2019-10-18

2019-10-18 當山日出夫(とうやまひでお)

たけくらべ


樋口一葉.『にごりえ・たけくらべ』(新潮文庫).新潮社.1949(2003.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101601/

書誌を書いてみて、新潮文庫では、一九四九年(昭和二四年)に出した本を、いまだに売っている。さすがに、途中で改版はしているが。

『たけくらべ』の初出は、明治二八年である。漱石が『猫』を書くより、ざっと一〇年ほど前のことになる。ここに、日本文学の、あり得たかもしれないもう一つの可能性、ということを考えてみることもできるかもしれない。あるいは、『猫』によって漱石が日本文学のなかに登場しなかったら、日本の近代文学の歴史は、違ったものになった可能性もある。

この作品を読んでみよう(再読)と思ったのは、村上春樹の翻訳を読んでいて、『結婚式のメンバー』を読んだからである。この作品の解説において、村上春樹は、『たけくらべ』を思い出すという意味のことを書いていた。

やまもも書斎記 2019年10月12日
『結婚式のメンバー』カーソン・マッカラーズ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/12/9163890

久しぶりに読んで見て、そのストーリーの概略は知ってはいたが……これは、文学史の常識と言っていいことだろう……その細部の表現、あるいは、樋口一葉の文章の巧みさというものに、感じ入った。読んで見て、ああこういう文学もあったのだな、という思いがした。

『たけくらべ』は、子どもの世界を描いている。子どもというよりも未成年とでも言ったほうがいいかもしれない。その世界、しかも、吉原という特殊な地域における、幾人かの登場人物を、情感をこめて細やかに描いている。文学的完成度という意味では、きわめて高いものである。

そして、その独特の文体、文章。近代的な言文一致体……現代の日本語に通じる、その完成した形を漱石などにみることができるだろうが……ではなく、流麗な雅文体である。このような文章が文学の文章でありえた時代を、再度確認することになった。

村上春樹を読んでいる途中で、ふと脇道にそれて読んでみた本である。が、ここは、明治の文学史というものを、自分なりにきちんと考えてみたいと思うようになっている。近代という時代、どのような日本語の文章が成立してきたのかである。おおよそのところは、日本語史の常識的な知識は持っているつもりだが、自分の目で読むということをしておきたいと思う。