『レイモンド・カーヴァー傑作選』村上春樹(訳) ― 2019-10-22
2019-10-22 當山日出夫(とうやまひでお)
レイモンド・カーヴァー.村上春樹(訳).『Carver's Dozen レイモンド・カーヴァー傑作選』(中公文庫).中央公論新社.1997
http://www.chuko.co.jp/bunko/1997/10/202957.html
続きである。
やまもも書斎記 2019年10月19日
『うずまき猫のみつけかた』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/19/9166420
実際に読んだ順番から言うと、これよりさきに『大聖堂』などを読んでいる。中央公論新社の「村上春樹翻訳ライブラリー」版である。ただ、このシリーズは、まとめて思ったことなどと思っているので、読んだ順からすると前後することになるが、この文庫本のことから書いておくことにする。
この一冊を読めば、レイモンド・カーヴァーの概要と魅力が分かる……このような意図で、村上春樹が編集し、翻訳したものである。各作品には、簡単な村上春樹の解説がついている。その作品の良さ、読みどころについて、言及してある。
もし村上春樹が訳していなければ、そして、村上春樹の書いたもの、長編・短篇の小説からはじまってエッセイ、さらには、翻訳まで読んでみようとしていなければ、おそらくは、読まずに終わってしまっていたかもしれない。ここまで村上春樹の翻訳した文学を読んできて、村上春樹は、現代日本における希有な翻訳家のひとりである、という認識をあらたにしている。
その翻訳家としての本領が、いかんなく発揮されているのが、レイモンド・カーヴァーについてであると言っていいかもしれない。(私は手にしていないが)村上春樹は、その「全集」の翻訳にもたずさわっている。
この文庫本を読むと、そこには、確固としたレイモンド・カーヴァーの文学世界があり、そして、それは、村上春樹の文学世界と共鳴するものであることを、つよく感じる。
どの作品の登場人物も、ごく普通の人びとである。二〇世紀後半のアメリカにおける、普通の、それも、どちらかといえば、中流より下の……市民である。その人びとの生活のあるときの、ある瞬間におとずれる、ある感覚、それを文学的に鮮やかに切り取って描いてみせている。このような作品を読むと、「文学」というものがもっている、「芸術」としての普遍性とでもいうべきものを思ってみることになる。
どの作品もそう長いものではない。短編小説という文学の形式、様式があって、その中で、文学的感性が充溢している。これを言い換えてみるならば……人間が生きていくなかで、こういう感情をいだくことがある、人間とはこんなものだったのだ、と新たに気付かせてくれる。こういうものをこそ「文学」というものだと、私は思う。
レイモンド・カーヴァーの人生は決して長いものではなかったし、平坦なものではなかったことが、年譜や解説などの文章から読み取れる。だが、その残した作品は、まぎれもなく「文学」である。
レイモンド・カーヴァーは、チェーホフにたとえらえることが多いらしい。これは、読んでなるほどと感じるところがある。チェーホフの作品は、一九世紀末のロシアを舞台にしながら、そこに生きる人びとの生活の感情を普遍的な視点から描いている。二〇世紀後半のアメリカ社会を描いて、そこに人間が生きていくなかでの人生の感覚を、見事に描写している。そして、どの作品も、短い。短い作品だからこそ捕らえることのできる、人間の瞬間の姿がある。
読書として、文学作品を読むことを堪能させてくれる一冊であると言っていいだろう。
http://www.chuko.co.jp/bunko/1997/10/202957.html
続きである。
やまもも書斎記 2019年10月19日
『うずまき猫のみつけかた』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/19/9166420
実際に読んだ順番から言うと、これよりさきに『大聖堂』などを読んでいる。中央公論新社の「村上春樹翻訳ライブラリー」版である。ただ、このシリーズは、まとめて思ったことなどと思っているので、読んだ順からすると前後することになるが、この文庫本のことから書いておくことにする。
この一冊を読めば、レイモンド・カーヴァーの概要と魅力が分かる……このような意図で、村上春樹が編集し、翻訳したものである。各作品には、簡単な村上春樹の解説がついている。その作品の良さ、読みどころについて、言及してある。
もし村上春樹が訳していなければ、そして、村上春樹の書いたもの、長編・短篇の小説からはじまってエッセイ、さらには、翻訳まで読んでみようとしていなければ、おそらくは、読まずに終わってしまっていたかもしれない。ここまで村上春樹の翻訳した文学を読んできて、村上春樹は、現代日本における希有な翻訳家のひとりである、という認識をあらたにしている。
その翻訳家としての本領が、いかんなく発揮されているのが、レイモンド・カーヴァーについてであると言っていいかもしれない。(私は手にしていないが)村上春樹は、その「全集」の翻訳にもたずさわっている。
この文庫本を読むと、そこには、確固としたレイモンド・カーヴァーの文学世界があり、そして、それは、村上春樹の文学世界と共鳴するものであることを、つよく感じる。
どの作品の登場人物も、ごく普通の人びとである。二〇世紀後半のアメリカにおける、普通の、それも、どちらかといえば、中流より下の……市民である。その人びとの生活のあるときの、ある瞬間におとずれる、ある感覚、それを文学的に鮮やかに切り取って描いてみせている。このような作品を読むと、「文学」というものがもっている、「芸術」としての普遍性とでもいうべきものを思ってみることになる。
どの作品もそう長いものではない。短編小説という文学の形式、様式があって、その中で、文学的感性が充溢している。これを言い換えてみるならば……人間が生きていくなかで、こういう感情をいだくことがある、人間とはこんなものだったのだ、と新たに気付かせてくれる。こういうものをこそ「文学」というものだと、私は思う。
レイモンド・カーヴァーの人生は決して長いものではなかったし、平坦なものではなかったことが、年譜や解説などの文章から読み取れる。だが、その残した作品は、まぎれもなく「文学」である。
レイモンド・カーヴァーは、チェーホフにたとえらえることが多いらしい。これは、読んでなるほどと感じるところがある。チェーホフの作品は、一九世紀末のロシアを舞台にしながら、そこに生きる人びとの生活の感情を普遍的な視点から描いている。二〇世紀後半のアメリカ社会を描いて、そこに人間が生きていくなかでの人生の感覚を、見事に描写している。そして、どの作品も、短い。短い作品だからこそ捕らえることのできる、人間の瞬間の姿がある。
読書として、文学作品を読むことを堪能させてくれる一冊であると言っていいだろう。
次の村上春樹は、『羊男のクリスマス』である。
追記 2019-10-26
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月26日
『羊男のクリスマス』村上春樹・佐々木マキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169121
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月26日
『羊男のクリスマス』村上春樹・佐々木マキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169121
追記 2019-11-02
この次の村上春樹の翻訳は、
やまもも書斎記 2019年11月2日
『象』レイモンド・カーヴァー/村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/02/9171894
この次の村上春樹の翻訳は、
やまもも書斎記 2019年11月2日
『象』レイモンド・カーヴァー/村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/02/9171894
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